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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

この差ってなんですか?かわいい認知症と残念な認知症

2019年04月21日 | エッセー
 義理の母と実の母が、時同じにして認知症の坂道を登り始めてしまった。
 物忘れの度合いは、二人とも同じくらい。
 さっき言ったことを忘れてしまう。
 なので、会話が続くように見えて分断されやすい。
 どうにか二人とも、一人暮らしをしてくれているが(うちには来ないというので)、施設に入るのも秒読み態勢に入った感がある。

 しかし、この二人、同じ認知症でも天と地ほどの差が出てきている。

 義理の母は、能天気。楽天的。物忘れがひどくなっていくことに対して無頓着。笑っている。記憶がイマイチになっていくことへの恐怖とかないですかと尋ねても、大丈夫よ。なんとかなるわよ。どおってことないわ。

 一方、実の母は、超悲観的。とにかく、暗い。ネガティブの嵐が吹き荒れる。しゃべるたびに語尾は、あ~。記憶力がどんどんなくなってくる。

 先日、母の妹の叔母が、気を利かして、親戚の家に1泊連れて行ってくれた。翌日、どうだった?楽しかった?と電話で聞いてみた。
 返ってきた答えは、どこそこに連れて行ってもらった。何を食べた。
 あ~そう。で、楽しかった?美味しかった?と再度、気持ちを聞きたいので聞いたら、

 突然、泣きわめきだした。

 なんで、私をそんなにいじめるのよ。と叫んだ後は、ギャーギャー、ギャーギャー、何を言っているのかわからない。もう、止まらない。
 どうやら、『気持ち』を尋ねることが、母にとってはいじめと感じるくらい、しんどいことのよう。
 ショックだった。
 楽しかったか、つまらなかったか・・・。
 喜怒哀楽の、喜びと楽しさという感情が、母から消え去っていく。

 何かの本に、『感謝』という感情は、高度な感情で、認知症になると、感謝がなくなっていくと書いてあった。
 
 『感謝』という感情は、貯蔵できるのだろうか?



 もし、できるのなら、人生観が変ってくる。
 そうしようと思ってそうなるものではないけれど、環境を整えれば、感謝することを意識する生活のまねごとはできるはず。まねを繰り返すうちに、いつの間にか感謝の気持ちの基礎体力がつく可能性は十分あると思う。例えば、ありがとう日記をつけると決めることから。今までも、何度かチャレンジしたが、一日5個ありがとうと感じたことを書くということさえ三日坊主だった。でも、実の母のあの恨み節を聞いてしまった今、出来そうな気がする。タバコを吸っていてやめたいと思っている人が、肺が真っ黒なレントゲン写真を見てやめる覚悟ができた・・・みたいな。
 感謝を貯蔵して、感謝体質になりたい。

 母は、世間体というとてつもない恐怖に屈し、自分の感情を抑圧し続けた人生を歩いてきた。
 自分が傷つきたくないから。
 つまり、自己チュー人間ってこと。
 一見、優しそうで穏やかそうに見える・・・・だけで、実は、他人のことを思いやる本当のやさしさの持ち主ではなかったと思う。ただの、うわっつら人間。
 うわっつらで生きていると、本当に困ったときを感じる力が弱るし、どうにか解決しようという前向きな気持ちも持ちにくい。そう言えば、心配だけは得意だった。そんなに心配されても、人生の先輩としての知恵を授かることなんて全くなかったので、母に相談しようなんて気持ちはさらさらなかった。おそらく、父もそうだったのだろう。なので、私の育った家は、喧嘩もないけれど、何もないという殺風景でうわっつらだけの変な家だったと思う。
 そんなこんなで、母は他人の手助けをもらいにくいし、また、もらうチャンスもなくなり、結果、心からありがとうという気持ちを噛みしめて、カラダとココロのすみずみまで浸透させるような喜びの貯蔵ができなかった人として老いていった。
 問題を直視せず、自分が傷つかない人生を選択し続けると『感謝』という素晴らしい人生の贈り物を受け損ねるという寂しい人生となるのかもしれない。

 自分の本当の気持ちを抑圧し、やりたいことをやれなかった人生の終末は、恨み節になる。

 一方、義理の母は、娘からすれば、大嫌いな母だったといわれるくらい母親らしくないわがままな人だったらしい。ただ、義理父が大変な人で喧嘩が絶えず、子どもたちが巣立ったと当時に飛び出して、義理父の呪縛から逃れて自由に生きてきた。だから、恨み節がない。
 おそらく、ここが、同じ認知症でも、恨み節がある悲観的なタイプと楽観的なタイプの差が出てくるではないだろうか。
 母は、悲劇のヒロインタイプで、義理は母は女王様タイプ。
 一見、正反対に見えるけれど、実は、注目を浴びたいという点では似ている。

 認知症になるなら、義理の母みたいな認知症がいい。

 子どもが、みな、自立したら、やりたいと思ったら、でも・・・と諦めずにチャレンジする人生を選択するぞ!

 子育て中の母親は、子どもが最優先になって、自分のやりたいことは後回しになってしまう。
 それはそれで、そういうものかもしれないけれど、子どもが自立したら、一度、リセットして、束縛という有形無形のものから、解き放たれ、自分を大切に生きることを優先させることが、人生の終わりの姿がすがすがしくなれる一つの要素になるかもしれない。

 60代。
 定年退職した夫の存在はどうだろう?
 介護は重くのしかかっていないだろうか?

 願わくば、子ども時代、やりたいことをやれるという当たり前の人権尊重の空気の中で育つことができたら、最高だ。もちろん、人間関係という関係性を豊かに学ぶ場でもあるということは吝かではない。家庭でも学校でも。
 しかし、現実はというと、時間割と宿題と例えば、日本一あいさつ運動などと言って、毎朝、校門の前に立って、走行している通勤途中のドライバーに「おはようございます」と声を張り上げるような不思議なあいさつをするということなどなど・・・・自分の本当の気持ちを偽ってることすら気づかずにいるような環境で育っていく。育つという時点で、すでに、恨み節になりそうな束縛呪縛の世界に支配されている。そんな子が多いんじゃないかな。

 中学生が、すれ違う時、やたら大きな声であいさつをしてくれる。もっぱら、男の子が多い。

 恐縮して、小さな声であいさつ返しをする私。
 とともに、なんとはなしに違和感という空気も吸ってしまう私がいる。

 中学生の私は、とてもあんな大きな声で見知らぬ人にあいさつするなんて恥ずかしくてできなかっただろうなと思う。
 なぜ、中学生という思春期の男子が、あんなに大きな声であいさつできるのだろう?という疑問。
 わが子たちは、誰一人として、あんな大きな声であいさつできる子はいなかった。
 あいさつ運動に積極的に参加できるタイプの中学生とできない子の差って何だろう?
 自分に自信があるのかなぁ?
 軍隊のにおいがしないでもない。小さい頃から、学校というルール社会に疑問を抱かずに溶け込んでいった?
 先生の評価を得たい?
 
 ま、いいか。男子のことは。

 女子は子育てを最優先するというDNAを持っていると思う。でないと、人類は滅ぶもんね。
 その女子が、人生最後の姿をどう送るか、そこに、恨み節はないかと問う時に、小さい頃から、やりたいと思ったことを大切にしてもらえる環境、あるいは、やりたくないことをやらないですむ環境で育つということが案外、つながっているのかもしれないと、義理の母と実の母の姿とみて感じてしまった。

 追伸、昨日、義理の母と昨今の小学校は、5時間授業の後に午後1時から給食という日もあるという話から、「今の子どもたちは、本当に管理されすぎでかわいそう。四男は、脳の発達が他の子よりゆっくりなところに学校というルールが一気に押し寄せて、脳ストレスが許容量を超えて、きっと、学校に行くに行けなくなったのだと思う。今は、やりたくないことをさせない、やりたいことをさせるという完璧により、彼を防護し、すっかり安心できる環境を整えて、脳を完全休養させてあげたい。」と話したら、「私は、栄養失調で、小学校高学年の頃から、しょっちゅう倒れて、学校を休んでいたの。中学校の時はあんまり学校に行かなかった。」と義理母。
 「え、お義母さんは、結構、裕福だったんじゃないんですか?栄養失調になるのが不思議です。」と聞くと、「私は、食べたいときに食べたいものしか口にしない子だったの。食べたくないと思ったら食べなかった。」
 「へ~~~~~~~。そうなんですね。」
 「実は、父親の浮気が嫌で嫌でたまらなかった。そのことを知ってから、そんな風になってしまった。そんな父なのに、母は、なぜだか、お歳暮をその浮気相手に持って行ったりするもんだから、わけわかんなくなって、母親も嫌いになったの。」

 そんな話、義理母から初めて聞いた。

 戦争の前後の時代のお話だ。

 
 私の母は、義理母が学校に行かないという選択をした頃、10人兄弟の4番目で次女で、祖母は家事なんてしないお嬢様だったため、家事を担っていたという。わがままなんか行ってる場合ではなかった。まじめでお勉強も頑張っていたと聞く。義理母と同じように、祖父は昔の男の人で、お酒は飲むは、浮気をするは・・・で、祖母と大喧嘩ばかりしていたらしい。

 宿命と運命・・・考えさせられる。
 
 
 

 
 


 

 

  

 
 案の定、母は認知症になって、理性のコントロールが効かなくなって、自分を抑えることができなくなってきたら、その残念の蓄積が無念のお化けになってしまった。

 
 一方、義理の母は、わがままで言いたいことの言えるタイプ。娘たちは、母親が大嫌い。遠くに住んでいる娘は私が結婚して2回しか帰省していないくらい。おそらく、子育てには向かないタイプだったかもしれないと想像する。しかし、子育てが終わったら、即、家を飛び出して(離婚したかったけれど、さえてもらえなかったので)自活の道を選んだ人だった。そう。わりと好き勝手に生きてきた。上っ面で生きることをしなかった人であった。飛び出して、それなりの苦労をされたと思う。そこには、きっと、一生忘れない感謝という貴重な体験もあったと想像する。
 
 私の母の最大のモットーが、世間の目にさらされない。なので、付き合いがない。大切な友達がいない。叔母にすら、自分のことや家族の恥部は話さない。一人で、勝手に家族のことを心配ばかりしている。心配はするけれど、行動にはちっとも起こさない。人の心配をすることで、自分のこと、あるいは、自分の人生にきちんと向き合う苦痛から逃れようとしているとしか思えない。もちろん、本人は、そんなこと考えたことないはず。こんなに心配しているの・・・くらいにしか思っていないと思う。
 だから、私も母は嫌い。だって、本当に心配してくれているのならば、本当に助けてほしい時に助けようとアクションを起こしてくれるはず。私には、その体験がない。だから、人を愛するということがわからない。だって、お手本であるべき親が、ここぞという時に助け船を出してくれなかったもの。

 どっちの母もいい勝負。おそらく、義理の母は、自分が話題の中心にいたいという無意識の願望があって、饒舌な人だった。一方、母は、悲劇のヒロイン。どっちもどっち。ヒロインになりたい人という点では似ている。
 でも、人生の終わりに見える姿は正反対。
 例え、それが、わがままであっても、人生の終わりの姿を見比べると、わがままに生きた方が、感謝の気持ちで終わりやすいのかもしれない。

 二人を見てみて、しみじみと思う。
 自分がかわいくて、自分が傷つくことが怖くて、自分ときちんと向き合うことから逃げて、ごまかし続ける人生は、その時はよいけれど、無念という負の感情が貯金されていく。そして、感謝という人間にとって最も高度で大切な感情が、無念感情によりかき消されていく。
 でも、自分の本当の気持ちを尊重して、叫んだら、きっと、おそらく、助け船がやってきて、その感謝の気持ちを胸の奥にキュンキュンさせながら生きて行ける。
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