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~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

泣くと不憫になる心理について考える

2018年09月30日 | エッセー
 不憫な気持ちって、なんだろう?
 赤ちゃんは、泣いたら、今までがまんしてがまんして溜まっていたストレスが泣くという運動により発散されて、すっきり、秋晴れのようなすがすがしい気持ちになれるんですよ。赤ちゃんがママに寄り添ってもらいながらギャン泣きすることは、幸せ以外の何物でもないんですよ。むしろ、泣かせまいと抱っこしたりおっぱいを咥えさせたりすることの方が、赤ちゃんは苦しいんですよ。
 と伝えても、不憫な気持ちが勝ってしまうママの心には届かないどころか、かえって、苦しめてしまう。

 私の仕事は、ママが安心して幸せな気持ちで子育てしてもらうようなお手伝いをすることなので、ただ、泣いてすっきりする世界観だけをアナウンスするだけではいけないと思う。
じゃぁ。赤ちゃんが泣くと不憫さのあまり抱っこせずにはいられないママに、どうお手伝いしたらいいのだろうと頭を抱えてしまう。

 だから、不憫な気持ちについて私なりに考えてみた。

 私は、私の体験からしか、不憫な気持ちを想像できないので、私が不憫になるときってどんな時かな?と考えてみた。

三男が、2年前に猫を拾ってきた。名前は、パピプぺポを使いたいということで、プーちゃんに。野良猫の子猫だから、そんなに美人じゃない。わたしも、そんなに愛おしい感情になることもなく、なんとなく飼っていたって感じだった。
 三男が家を出て、私と四男で飼うことになった。四男は、自分が飼いたかったわけじゃないので、そんなに愛着はないようだった。ところが、今年の4月に迷いネコがわが家へやってきて事態が急変した。かなり太っちょ猫で、オスかメスかよくわからない。年齢不詳で、太っているせいか年老いたせいか、もともとの性格なのかわからないけれど、走り回るという動きをほとんどしない。プーちゃんは、日中はほとんど外出猫で、いったいどこをほっつき歩いているんだろう?と疑問だった。猫ってそういものだと思っていた。ところが、マツコは、ほとんど家の中。のっそのっそとのんびり屋さん。初めての人でも大勢でも動じず、むしろ、すり寄っていく。プーちゃんとは正反対の性格だ。だから、名前は、即決。マツコ。四男の友達も、『マツコ』、『マツコ』と呼んで、人気者になった。
 四男も、自分の猫という感覚があり、『マツコ、かわいい。』の連発。マツコデラックスに似ているから、マツコと命名したのだけれど、かわいいって、みんな言うから不思議だ。、ぷよぷよと太っている抱き心地とすり寄ってくる感じと、たぶん8分の一くらい血統書の血が入っているようなちょっと美人な目元が、こどもたちの心を癒してくれる魅力につながり、人気者となったのだろう。


 そんなマツコの登場で、プーちゃんはなわばりを奪われ、追い出される羽目になってしまった。マツコの方が圧巻の強さを発揮し、先輩のプーちゃんは住処を奪われてしまった。今は、まだ、寒くないからいいけれど、真冬になったらどうなるのだろうと心配している。そうなってから、私が夕方仕事から帰って駐車場に車を駐車した・・・・とたんに、プーちゃんがどこからか突然、現れるようになった。お腹がすいているのだ。すぐに、えさを与えると、すごい勢いで食べ始める。その姿を見るだけで、もう、不憫で不憫でたまらなくなる。プーちゃんに愛着があったわけではないけれど、プーちゃんの不幸な境遇を思うと、胸がキューンとしてしまう。マツコが嫌いなわけじゃないけれど、マツコのせいで、プーちゃんが家を追い出されて野良猫人生を歩まざるをえなくなってしまったという事実は、毎夕、プーちゃんがやってくるたびに、私の胸を締め付ける。
 それに加えて、プーちゃんは、えさを食べている間、私がずっとそばにいないと逃げていく。どんなにお腹が空いていても、私がいないと安心して食べられないのだと思う。少しの物音でも反応して、辺りを見回しながら、えさを食べている。それだけ、野良猫の世界は厳しいんだろうなぁ・・・。そう思うと、また、余計に、不憫で不憫でたまらなくなる。

 私の不憫体験は、以上。

ある本に、こう書いてあって納得。
 人は、怒りたいエネルギーが溢れそうになった時に、怒る出来事をキャッチして怒る。そうやって、心の中にいつしか溜まっていったマグマのガス抜きをしている・・・と。必要で自然な姿。アースみたいな役割をしている。怒ることに限らず、心配すること、泣くこと、子どもだったら、お腹が痛くなること、発熱、ぜんそく、チック、アトピーもだそう。心の深い部分の恐怖や吐き出しが、何かをきっかけに、表面に現れる。

 実をいうと、プーちゃんのことを不憫に思い、胸がキューンとなるって、辛いけれど快感を感じている私がいる。不謹慎?片思いで、その人の姿をちらりと見ただけで、キューンとする気持ちと不憫なキューンとする気持ちは、どこかでつながっているような気もする。痛気持ちいい感じと似てる?

 だとすると、泣いてすっきりさせることが赤ちゃんにとって幸せであると頭では理解しても、不憫さを感じたいという彼女の心の奥深いところの欲求が渦巻いているとしたら、赤ちゃんが泣いたら抱っこしてあげることが愛情という説を選択してしまうとしても仕方がない。

 泣いたら不憫で抱かずにはいられないママは、自分の心の奥底の古傷を無意識に癒しているのかもしれない。泣いたらダメよというメッセージをママがいつかどこかで受け取っていて、泣いて甘えられなかった古傷が疼く。だから、赤ちゃんが泣くと、苦しくなる。不憫さも、私がプーちゃんを思う時の不憫さぐらいなら、胸キューンで済むけれど、彼女の不憫さは、苦しいレベルなのかもしれない。₊
 
 でもね。赤ちゃんは泣いてすっきりしたい。赤ちゃんにも泣いてすっきりしたい心のマグマがあると思う。でも、ママの古傷を癒すために、赤ちゃんは泣くことを諦める。この赤ちゃんもまた、古傷を抱えて大人になる。いつか、泣いていいのよと言えるママに出逢えるといいね。

 私の母は、心配性である。
 娘(私)のことで、心配してくれているのはわかるけれど、ただ、心配しておろおろするだけなので、何も言わない。だって、相談しても解決の糸口にすらたどり着かないから。ただただ、オロオロして、心配しているだけなので、かえって、気を遣う羽目になる。
 でも、わかった。

母は、結局、私のことを本気で心配していない。心配したがっているだけ。本当は、自分のことしか考えていない人だと最近、気づいた。
 本当は、母の人生そのものに課題があるのに、それと向き合うと自分が傷ついて苦しくなる。自分が傷つきたくないから、そのことを避けるため、考えないようにするために、娘の心配をする。娘の心配をしている間は、自分の人生の課題から目をそらすことができるから。

 本気で心配してくれるなら、もっと、奔走してくれるはず。母なりに。
 でも、ただただ、心配しているだけ。いつまでたっても、居間で心配しているだけ。
 母は、心配することが、アースになって、母の心の奥底の何かの吐き出しを行っているのだろう。

 大人になってから、そういうことをやり続けている人は、からそう簡単に次のステップにいけないかもしれない。
 できれば、オンギャーと生まれて、思春期、成人式くらいまでに、思う存分吐き出しができると古傷もちゃんと癒えて、本当の自分らしさに出会えるだろうなと思う。

 泣いたら不憫で抱っこせずにはいられないママが、ここで、赤ちゃんと一緒にオンオン泣けたら、本当は、彼女の古傷が癒えるというチャンスなんだけどなぁ~。

 大人になって、おそらく、自分再生の最高で最後のチャンスとなるのが、赤ちゃんの吐き出しだったり、子どもの吐き出しだったりするとしたら、吐き出しを困った行動ととらえるのではなく、ありがたく受け止めて、自分の古傷ときちんと向き合えたら素敵だな・・・と思う。
 

 
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