記憶と記録

記憶と記録

福島市北部のホットスポットに生息。
作成させて頂いた 3.11大震災記録の本 ↓↓↓
http://i36.jp/2012/

Amebaでブログを始めよう!

12月25日。クリスマスが命日の「ハナおばさん」
 

爺さんに、吉原に売られた。
その金は一晩で飲みあかしたそう。

でも良きかな...白い軍服の島さんに身請けされた。

島さんは手切金を渡され島財閥から切られた。
 

「吉原炎上」は二人をモチーフにした映画ではないだろうか?
(ラストは違う)

二人の夫婦生活はとても短かった。
軍服の旦那さんは、すぐに戦場に消えてしまって・・・(◞‸◟)

とても短かかった旦那さんとの生活。
けど島ハナさんは、とても幸せそうな笑顔で私と話す。

小さな私は、時々遊びに寄った。

行くたびに「白い"ちり紙"」に包まれた500円、お小遣いにもらった。
今の価値で言うと2,000円ぐらい。

いつもお香の良い香りがするハナおばさんは「峰」という煙草を吸っていて、後ろには白い軍服姿の旦那さんがハナおばさんの背中を見ている。
今は二人の額縁が仲良く並んでいます。

死。2ー②
●同級生の死。震災復旧工事の「ダンプ」に潰されて・・・

震災後、その事故は川俣高校の下の T 字路交差点で起こりました。
信号待ちをしていた数台の列に、日ピス方向から下ってきた震災復旧工事の「ダンプ」に追突され、押しつぶされて彼は亡くなりました。
追突の原因は「過積載」でした。
彼は、川俣町役場に勤務。
彼の車は、幅2mくらいまで押しつぶされていました。

昨日のブログ 「死。2ー① ●同級生の死。「点滴ミス」
が原因で死亡した彼女の自宅に、私が「お線香」をあげに行った時、
「川俣高校前の死亡事故の人ね、ウチに野菜の放射能検査の結果を持って来てくれた人なんだよ。その帰路で亡くなったんだよ。あの時、畑に行っていてウチは留守だったから、家にいて、あがってもっらっていれば、あの事故、避けられたかも・・・」と・・・

死。2ー①
●同級生の死。「点滴ミス」

幼なじみの女の子(中2)で死亡。

学校の先生が病室で「一ヶ月後の修学旅行は来れないだろうね・・・」
と、小学校から一緒の幼なじみの女の子(中2)の病室まで
担任の先生が来てくれて、彼女に聞きに来た。
膠原病の治療で入院していた彼女は、その時は病状が良くなっていたので
担任の先生に「私、修学旅行にいけます1」と言ったそうです。

でも、その後の点滴で、いつもは点滴の色が「透明」だったのに、その日の色は「黄色」だったそうです。

主治医は研修に出かけて留守だそうで・・・
点滴を始めて5分ぐらいで彼女はお母さんに「苦しい!」と言って・・・
この言葉が彼女の「最後の言葉・・・一言」だったそうです。
お「医者様」の時代。
カルテも処分されたそうで「うやむや」に。
家族は今でも「怨んでいます」
お盆に彼女の家にお線香をあげに行くたびに「あの時点滴は・・・先生は・・・病院は・・・」と同じ事を繰り返し言われます。

●延命治療のコト

 

今年になって、二親の天寿が来る日がおぼろげに見えてきた。
母が先だろう・・・
「母の姉」は木更津在住(だった)。

 

もし植物状態になったら延命治療は拒否する!

と常々言っていたそう・・・
その事は、子供にも言っていたけれど、大晦日まえに新年の準備をしていたら、突然脳梗塞で倒れ

 

「死の淵に立ってしまった。」

 

娘さんは「母は延命治療を望んでいません」と医師に言ったけれど、遺言書などはなかったので、医師は胃瘻を開始した。

 

娘さんは「ケアマネージャの資格」をとったばかりで正月明けから新しい就職先で仕事を始める予定だった事もあり、大泣きしていた。
木更津の叔母さんは

「竹を割ったような性格の人」だったからか、時を掛けず、5日後に息を引きとった。
遺言書・・・きちんと遺して置かないと家族に迷惑を掛けるんだなと思った。
延命治療は国によっては「残虐行為」だそうだ。
ただ生かしておく事は「残酷行為」だそう。

日本の多くの病院の「胃瘻」をする行為は、
まずは患者に元気になってもらい、嚥下から、少しづつ食べることが出来るようになり胃瘻が外れる事を目標としるそう・・・