新紙幣・・・1万円の顔となった渋沢栄一・・・
明治時代、日本最初の銀行や、製造業、鉄道、ホテルなど500の会社を設立、日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
次々に会社を興した経済人としてのイメージが強い渋沢ですが、別の顔があります。
日本の社会福祉事業の創始者です。
完成して間もない鹿鳴館でチャリティーバザーを開催、貧しいに人々の救済に奔走します。
貧民は経済発展の邪魔だといわれる中、悪戦苦闘します。

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こちらは、渋沢栄一の風刺画です。
まるで千手観音のように色々なものに手を出していたというものです。
実業家としての渋沢栄一ではなく、福祉事業家としての渋沢栄一とは・・・??

1867年、一隻の大型汽船が日本からフランスへと向かっていました。
15代将軍慶喜の義弟・徳川昭武を長とするパリ万博使節団一行です。
その中に、28歳の渋沢栄一の姿がありました。
渋沢は、武蔵国の豪農の息子でしたが、その才覚を認められ、幕臣として随行を許されたのです。
到着したパリは、万博を契機に大きな経済発展を遂げていました。
日本が足元にも及ばないこの発展は、どのようにしてできたのでしょうか?
渋沢は、その源泉をパリで出会った一人の銀行家から学びます。
フリュリ・エラールは、渋沢を銀行や株式取引所に案内し、資本主義のシステムを教えます。
銀行や株式会社は、人々から集めたお金で投資、そこで得たもうけを人々に還元する・・・
この資本主義の仕組みを使えば、巨額の資金を調達でき、フランスの発展の原動力となっていたのです。
渋沢は、パリで髷を切り、決意します。

「銀行や株式会社などの資本主義のシステムを日本に作ろう」

渋沢がパリにいた頃・・・
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発!!
これに勝利した薩長を中心に明治政府が樹立しました。
帰国した渋沢は、1873年民間人の立場で日本人で初めて銀行(第一国立銀行)を設立。
国立とあるが、国の法律にのっとるというもので、あくまで民間の銀行でした。
かくして、渋沢は日本の資本主義の父として第一歩を歩み出したのでした。

一方、渋沢にはもう一つの顔がありました。
東京都板橋区の一角に建てられた銅像・・・渋沢栄一の銅像です。
こここそ、社会福祉事業家・渋沢栄一の原点でした。
渋沢が終生関わった東京養育院という福祉施設のあった場所です。

1872年鉄道開設。
東京は文明開化を迎え、大きく変貌を遂げようとしていました。
しかし、その一方で、繁栄から取り残され住む家を失った人々も街にあふれていました。

江戸幕府の瓦解により、100万都市といわれていた人口が50万人に・・・。
その6割以上が貧民とされ、日々の食事や寝るところにも困窮していました。
渋沢は、この現状を目の当たりにして、何とか方法はないか??助けることはできないか??と、強い問題意識を抱いていました。

1874年、渋沢にとって好機が・・・!!
東京府知事大久保一翁から依頼を受けます。
「七分積金の運用を引き受けてくれないか?」と。
七分積金とは90年前、松平定信の寛政の改革にさかのぼります。
その際に行われた政策の一つで、江戸の町内会の積立金の七分に相当する米やもみを徴収し、備蓄していたのです。
飢饉や災害が起こった時に御救い米として放出し、江戸庶民のセーフティーネットとなっていました。
さらに、松平定信は人足寄場を作っています。
浮浪人に大工やわらじづくりなど手に職をつけさせ社会復帰させる更生施設です。
江戸幕府が瓦解すると、七分積金は、そのまま東京都に引き継がれました。
この時七分積金の総額は、170万両・・・今の金額で170億円でした。
この江戸幕府の遺産に目をつけたのが、財政のひっ迫していた明治政府でした。
文明開化の時代、橋や道路の補修、連歌外建設・・・インフラ整備に流用しました。
元幕臣だった大久保東京府知事は、「七分積み金を困窮者の救済のために使ってくれ」と、渋沢に要請。
渋沢は早速、行動を起こします。
彼は、東京養育院という生活困窮者の救済施設を訪れます。
そこで愕然・・・子供も老人も、病人も一緒に収容され、100畳ほどの部屋に100人以上が詰め込まれていました。

「頗る乱雑を極めている
 その実情を見て、全く情けなく感じた
 いかに無料で収容しているにしても、これではあまりにも気の毒だと考えた」

ホームレスのような人々を、収容するだけの施設・・・
「その人たちをどうするのか?」という目標もなければ、施設自体をどのように維持させていくのかも考えていませんでした。
「社会全体で事業として確立させなければいけない」と、福祉という活動に非常に強くのめり込んでいきます。
渋沢は、七分積み金を使って、養育院の改革に乗り出します。
近代的な診療施設を設置、職業訓練所を設け、草鞋つくりなどの技術を学ばせ手に職をつける職業訓練所を作り社会復帰を支援、子供達には学問所で学ばせ知識をつけさせます。
渋沢は、七分積み金の生みの親である松平定信を生涯進行していました。
松平が行った構成システムにあるべき社会の姿を見ていました。

渋沢の談話集「論語と算盤」・・・渋沢は、論語と算盤を結び付けて理想の社会を説こうとしました。
”論語と算盤は、はなはだ不釣り合いで大変にかけ離れたものであるけれども、富をなす根源は何かといえば、仁義、道徳。
 論語と算数というかけ離れたものを一致せしめることが、非常に重要だ”

日本初の銀行設立を皮切りに、渋沢は、近代化に必要な基幹産業を次々と立ち上げ、日本資本主義の父として華々しい活躍をしていきます。
その頃、その手腕を見込んでオファーが・・・
主演の席に招かれた渋沢栄一、招待したのは三菱の創業者岩崎弥太郎でした。
当時、岩崎は日本の流通業である海運業を独占し、経済界の大立者として権勢をふるっていました。

「君と僕が堅く手を握り合って、事業を経営すれば、日本の実業界を思う通に動かすことができる
 これから二人で大いに大いにやろうではないか」by弥太郎

「いや・・・独占事業は、欲に目のくらんだ利己主義だ」by栄一

市場の独占を狙う岩崎弥太郎、多くの株式会社が自由に市場に参入することが資本主義社会の原則だと思っていた渋沢。
渋沢は、岩崎の申し入れを断って席を立ちました。

1881年、東京府庁・・・渋沢は寝耳に水の知らせを受けます。
東京養育院の廃止案が東京府議会に提案されたのです。
1879年から養育院は、東京府の税金で運営されていました。

「貧民を救うために、多額の税金を使うことは止めろ」
「渋沢は、惰民製造の本尊だ
 渋沢が余計なおせっかいをするから惰民が増加する!!
 養育院にいる惰民はみな、一時に追い出せ」by田口卯吉

渋沢は、真っ向反対します。

「一国の首府にして、これ位な設備を置いて窮民を救助すると云うことは、絶対に必要である
 顧みざるはこれぞ暴涙の政になる」

渋沢は、議会に廃止案の撤回を働きかけますが、多くの議員は支持しました。
この頃、明治政府は富国強兵をスローガンに、産業の近代化を推し進めていました。
紡績や造船などの工業を発展させ、西欧列強に対抗する国にしようというのです。
富国強兵論者からすれば、東京養育院の維持費は無駄・・・それは弱者の切り捨てにつながりました。

「もしこの施設を欠けば、餓死者が道路に横たわる惨状となるだろう
 将来を遂行すれば、廃止すべきものではない」

渋沢にとって養育院の廃止は、あり得ないことでした。
養育院の人々の命と生活を守り、そこからどう抜け出せばいいのか・・・??
困窮者を惰民と決め付ける議会と真っ向対決する渋沢・・・!!

①養育院を税金で維持??
社会福祉事業は、政府・自治体のバックアップが必要だ・・・
之を失うわけにはいかない・・・
幸い府議会には、懇意にしている議員がたくさんいる。
彼等に味方になってもらおう!!
しかし、養育院の人たちを惰民という人たちは、理解してくれるだろうか・・・??

②民間資金で運営継続
養育院はかけがえのない場所・・・
経済界で築き上げたネットワークを駆使し、民間企業から出資者を募るのはどうか・・・??
500もの企業に携わってきた私だ・・・必ず協力者がいるはずだ・・・!!
しかし、株式会社は営利が第一目的・・・利益の出ない養育院に理解を示してくれる人はいるだろうか・・・??

渋沢栄一の必死の訴えにもかかわらず、1884年には東京養育院の廃止が決定。
そこで渋沢は、こう啖呵を斬ります。
「府會がそれほどまでに無情であるならば、今後は養育院を独立せしめて経営するの策を、取らなければならぬ」

渋沢は、養育院の所属は東京府のまま、自分が運営する委任経営を申し出ます。
民間資金で運営継続を選んだのです。

しかし、運営資金はどのように捻出するのでしょうか?
ここから渋沢の挑戦が始まりました。
まず、渋沢が目をつけたのは、完成したばかりの鹿鳴館です。
西洋流の社交の場として舞踏会などが催されていました。
そこで、渋沢は政府高官や財界の婦人たちに働きかけ、1884年日本初のチャリティーバザーを開催。
手袋、足袋、人形、絵画など・・・身の回りのもの3000もの品をオークションに出品。
売り上げは3日間で7500円・・・今の6800万円にも上ったと言われています。
さらに渋沢は、財界の篤志家を一人一人たずね、多くの経済人から寄付を仰ぎました。
寄付者の名簿の最初には、渋沢栄一の名が・・・
次に三井財閥の幹部、大倉財閥の設立者が名を連ねます。

渋沢は、寄付を集める時、必ず大きな袋を持ち歩き、それを差し出しました。
実業界の大物・渋沢に促されると、誰も寄付を断れません。
人々は陰でこのかばんを”泥棒袋”と呼んでいました。
中には、冗談交じりにボヤく人も・・・
「渋沢さんが、寄付金を集めに来ると、ついつい出してしまう
 渋沢さんに長生きされては、こちらの身代がもたないよ・・・」

福祉事業・慈善事業は、事業自体を長く永続させ、社会に定着させるためには、福祉事業を維持させるための資金を活用する集める方法を自分達で考えなければならない・・・
こうして集めた寄付金を、公債や銀行預金に運用し、資金を増やしていきます。

東京養育院の資金・・・
1885年には3万5031円(2億9800万円)だったのが、1890年には11万8104円(8億8500万円)とまで増え、寄付の文化のなじみの浅い日本で、渋沢は社会福祉事業の資金を着実に増やしていったのです。
その後、養育院は拡大し、収容者も増えていき、東洋一の福祉施設となりました。

そして渋沢は、福祉活動の対象を困窮者だけでなく、災害にあって困っている人や、病気で苦しむ人たちにも広げ、医療や学術研究の施設の設立や運営に協力していきます。
さらに、当時はほとんどなかった保育所の構想も練っていきます。

”母親が安心してこの子を委託し、日が暮れるころには仕事が終わり、子を連れに来て伴って帰るというようなよいしっくみを作ったなら、非常に良いと思います”

ここには、一般の人々の普通の生活も福祉で支えようという思いが伺えます。
1909年70歳となった渋沢は、経済界から引退します。
しかし、社会福祉活動は、終生つづけました。

1929年、世界大恐慌・・・
日本でも失業者が続出し、東北地方では農村が深刻な飢饉に見舞われます。
国会では、貧困者を救う救護法が制定。
救護法とは、貧困者を救護することを国や自治体に初めて義務化したもので、後の生活保護法につながります。
しかし、法が制定されても、政府は予算がないことを理由に実施を延期します。
このまま貧困者の窮状を見逃してもいいのか・・・??
福祉活動家たちは、最後の頼みとして渋沢を頼ります。
救護法実現のための協力を仰ぎます。
この時、渋沢は91歳・・・病気と闘っていました。
活動家たちの話を聞くと・・・
「私はもうどれだけ生きられるかわからない
 私の命をみんなに与えていくのは本望だ」

そして、医師の制止を振り切り、羽織袴に着替え、大蔵大臣にこう訴えかけます。
「私たちが一生懸命働いて来て、日本の経済をこのようにしたのは、この時にこそみなさんに役立てていただきたいからでありました
 渋沢の最後のお願いです
 救護法を実施してください」

2年後の1932年、大蔵大臣は、予算を工面してようやく救護法を実施。
24万人もの人々が救護されました。
しかし、救護法実施を見ることなく、前年の1931年渋沢栄一逝去・・・92年の生涯でした。

東京都板橋区の一角にある銅像・・・
その隣にそびえたつ巨大な東京都健康長寿医療センター・・・
ここは、かつて渋沢が終生関わった東京養育院のあった場所です。
現在はお年寄りの医療や、リハビリで最先端の取り組みを行っています。
渋沢の思想を受け継いで・・・その場所は、日本有数の医療施設として人生100年の老後を支えています。

渋沢は晩年、各地で公演を活発に行い、日本の資本主義の在り方を訴えました。
それをまとめたのが、「論語と算盤」です。

「世の中がだんだん進歩するにしたがって、社会の事物もますます発展する
 ただし、それに伴って、肝要なる道徳仁義というものが、共に進歩していくかというと、残念ながら”否”と答えざるを得ぬ
 仁義道徳と、生産殖利とは、元来ともに進むべきものであります」


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