1969年、人類初の月面着陸・・・
「人類にとっては偉大な飛躍である」byニール・アームストロング
この偉業を成功に導いた世界的なヒーロー、ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウン・・・しかし、彼にはもう一つの顔がありました。
第二次世界大戦時、ナチスドイツのもとで、世界初の弾道ミサイルV2を開発、ロンドン⇔パリを震撼させました。
夢の実現のためなら殺人兵器を作り、そして母国ドイツを捨ててアメリカに技術を売りました。
しかし、最期まで自らの罪を認めませんでした。

宇宙開発の父フォン・ブラウン・・・その光と闇とは・・・??
我々が暮らす太陽系の40光年先に、地球に似た惑星が7つあります。
アメリカ航空宇宙局NASAが発表しました。

「第二の地球を発見するのは時間の問題だ!!」

アメリカの民間会社が、2024年に火星旅行を実現させると発表・・・費用は2000万円です。
人々の夢を乗せて進む宇宙開発の礎を築いた男がいます。

ロケット工学者ヴェルナー・フォン・ブラウンです。
50年前、初めて人類を月に送ったアポロ計画の中心人物です。
フォン・ブラウンは、1912年、ドイツに生れました。
両親はともに貴族の家柄で、父マグヌス・フォン・ブラウンは農業大臣を務めました。
何不自由ない生活、天真爛漫で好奇心旺盛な少年でした。
丁度その頃、ドイツはロケットブームに沸いていました。
第一次大戦後、疲弊したドイツの工業を活性化させるため、自動車メーカーがロケットカーを開発、猛スピードで走る姿は注目を浴びました。
さらに、映画「月世界の女」が大ヒット、月へ向かうロケットや、無重力状態で人が宙に浮く様子にフォン・ブラウンは夢中になりました。
ロケットを造って月に・・・物理や数学の勉強を始めました。

フォン・ブラウンの欲望は、少年の頃から月に到達することでした。
月依存症・・・月へ行くためなら、彼はどんなことでもしました。

1930年、ベルリン工科大学に入学しドイツ宇宙旅行協会に入会、ヨーロッパ各地から500人以上の優秀な工学者が集まった宇宙ロケットの研究者集団です。
全長およそ2m、重さ20キロのロケットを造り実検を重ねます。
しかし、38万キロ先の月に行くには程遠い・・・
フォン・ブラウンは、夢の実現のためには莫大な資金が必要だと考えました。
民間企業の寄付で運営していた宇宙旅行協会では、宇宙ロケットの開発は勧められないのは明白でした。
2mほどのロケットでは、月へ行くなんて到底無理です。
フォン・ブラウンが目をつけたのは、ドイツ軍でした。
第一次世界大戦敗戦後のヴェルサイユ条約で、ドイツは、戦車・潜水艦・軍用機などの兵器の製造を禁止されていました。
その条約の抜け穴が、それまで存在していなかった新兵器弾道ミサイルだったのです。
弾道ミサイルと宇宙ロケットは、技術的に同じ仕組みを持っています。
共にロケットエンジンで宇宙空間に打ち上げる・・・
宇宙ロケットは目的の軌道に乗せる、一方の弾道ミサイルは宇宙空間へ飛ばし、地球の引力を利用して目標に落とす・・・
フォン・ブラウンは、ドイツ軍に自分のロケット技術を売り込みました。
話を聞いた陸軍大尉は、彼の豊富な知識に圧倒されると技術者として陸軍の採用を約束しました。

フォン・ブラウンにとって、ロケットを造るために軍に協力するのは当然のことでした。
彼は、軍がミサイル兵器を望んでいることは百も承知でした。
全てわかったうえで、兵器開発に協力したのです。
それが、”月依存症”フォン・ブラウンが、夢をかなえるための唯一の手段でした。
フォン・ブラウンは、宇宙旅行協会の研究者たちに声をかけました。

「宇宙旅行を実現するためには、軍の資金に頼るしか道はない」byフォン・ブラウン

仲間たちは、軍に協力することを躊躇しました。
自分達のロケット技術が兵器として利用されるのを嫌がりました。

1932年10月、フォン・ブラウンはたった一人でドイツ陸軍兵器局に民間技術者として採用されます。
3か月後の1933年1月30日、ヒトラー政権誕生、再軍備を推し進めます。
人類初の弾道ミサイルを目指すフォン・ブラウンは、まず、広大な実験場の建設を提案します。
目をつけたのは、ドイツ北部、バルト海に面するペーネミュンデ・・・広大な海に向けてより大きなミサイルの発射実験ができると考えました。
フォン・ブラウンは、沼や森に囲まれたペーネミュンデなら、秘密裏に実検を行うことも可能だと説得・・・
建設のための莫大な予算を獲得します。
フォン・ブラウンが中心となり、実験場を設計・・・鉄道や工場なども作らせました。
かつては陸軍に入ることに躊躇した宇宙旅行協会の仲間を含め、新たに120人以上の科学者や技術者を呼び寄せました。

1937年7月、フォン・ブラウンは25歳で開発部のリーダーとなります。
フォン・ブラウンが目指したのは、1トンの弾頭を搭載し、250km先の目標に僅か数分で着弾させる弾道ミサイル・・・
エンジンを燃焼させて、ミサイルを高度28km地点にあげ、そこでエンジンを止める・・・すると、ミサイルはそのままの角度で成層圏を越え高度80kmに到達、その後、地球の重力に従い攻撃目標へ落ちる!!
落下のスピードは、音速をはるかに超えるマッハ6!!
当時、迎撃することは到底不可能でした。
しかし、問題は・・・スピードが速くなると、空気抵抗によってミサイルの揺れが大きくなる・・・
ミサイルは、姿勢を保てなくなり、軌道を外れます。
狙った目標に、正確に打ち込むためには、姿勢の制御が必要不可欠でした。
人類が経験したことのないスピードで動く物体を、どうすれば安定した姿勢に保つことが出来るのか・・・??
開発は困難を極めました。

フォン・ブラウンは、問題を克服する為に、ある実験装置の導入を思いつきます。
超音速風洞です。
音速を越えた状態で起こる空気の流れを人工的に発生させ、空気抵抗を調べる装置です。
これを使えば、弾道ミサイルが超音速でどう動くのか、シミュレーションできます。
風洞実験を繰り返し、改良を加え、飛行の安定性を高めることに成功しました。

25歳の若者が、科学者やエンジニアたちをまとめる偉大なリーダーとなりました。
フォン・ブラウンには、組織を大きくし、優秀な人材を発掘し、科学者やエンジニアたちのやる気を引き出すプロジェクトリーダーとしての素質がありました。
彼の力で、プロジェクトはどんどん大規模になり、多くの予算を獲得しました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻・・・第二次世界大戦が勃発しました。
ドイツ軍は、オランダ、フランスを次々に撃破、しかし、1942年当時のソビエト連邦スターリングラードで激しい抵抗にあい、形勢が逆転します。
そんな中、フォン・ブラウンが開発した弾道ミサイルの最終実験が行われました。
A4ロケット・・・全長14m、総重量13トン・・・高度80キロを超え、190キロ先にある目標に到達しました。
フォン・ブラウンは、実験の成功をヒトラーに報告しました。
実検の映像を見せると、ヒトラーは興奮して叫びました。

「感謝する!
 このロケットを使えば、戦争を終わらせることが出来るだろう」

ヒトラーは、この弾道ミサイルを秘密兵器とし、大量生産を命令します。
その数、1万2000基・・・ペーネミュンデの工場だけでは到底製造が追いつきませんでした。
フォン・ブラウンは、ドイツ中央部にあるミッテルバウ=ドーラ強制収容所の目をつけました。
収容されているフランスやロシアの捕虜・・・およそ1万人を利用しようと考えたのです。
収容所そばの炭鉱跡に工場を建設・・・捕虜たちに弾道ミサイルを作らせました。
新鮮な空気も水もない、劣悪な環境の中、肺炎や赤痢が流行・・・捕虜たちは次々と死んでいきました。
逆らえば、処刑されました。
労働力が不足すると、他の収容所から調達しました。
強制労働の犠牲者は、2万人に及びました。
1944年、ドイツは連合国側に取り囲まれ配色が濃厚となっていました。
9月8日、フォン・ブラウンの開発した弾道ミサイルがロンドンに発射されました。
ミサイルはおよそ6分で300キロ先のロンドンに着弾、マッハ6で落ちてくるミサイルにロンドン市民はパニックに陥ります。
ミサイルは報復という意味の頭文字をとって、V2ロケットと名付けられました。
V2ロケットは、ロンドンやパリで1万3000人もの命を奪います。
フォン・ブラウンは、V2ロケットの開発について後にこう語っています。

「その時はまさか、兵器が作られるなんて思ってもいませんでした」

1945年ドイツが敗戦に向かう中、フォン・ブラウンは新たな弾道ミサイルの開発を進めていました。
目指したのは、アメリカに到達する大陸弾道ミサイルです。
飛距離を伸ばすことは、彼にとって月に近づくことでもありました。
実はこの時、フォン・ブラウンは母国ドイツを捨てることを考え始めていました。
ナチス親衛隊に入隊していたにもかかわらず・・・!!
日和見主義者のフォン・ブラウンは、ナチスに協力しました。
親衛隊の制服に身を包みますが、それは、見せかけの忠誠心を示すためです。

「ドイツは2階の大戦で敗北した
 今度は勝者の側につきたい」byフォン・ブラウン

当時、連合国側の二つの大国、アメリカとソビエト連邦は、兵器開発に携わる優秀な科学者をドイツから獲得しようともくろんでいました。
この情報を掴んだフォン・ブラウンは、信頼できる部下20人を集め密かに集会を開きました。

「ドイツは負ける
 しかし、我々のロケットなが宇宙にたどり着くのはあと一歩だ!!
 我々は宇宙旅行が現実になると信じてきた
 この信念をとめることはできない」byフォンブラウン

フォンブラウンは、連合国の中で宇宙開発ができる経済力があるのはアメリカだけだと考えていました。

「アメリカとソ連、どちらも我々の能力と技術を欲しがっている
 我々は、アメリカ軍に投降した方がよいのではないか」byフォン・ブラウン

反対する者はいませんでした。
520人の技術者たちが、フォン・ブラウンに賛同しました。
一方、ドイツに侵攻したアメリカも、フォン・ブラウンを血眼に探していました。
V2ロケットに核弾頭を搭載すれば、世界最強の兵器になると考えていたのです。
1945年2月、ミサイル開発の拠点ペーネミュンデの東160キロにまでソ連軍が迫っているという情報が・・・!!
フォン・ブラウンはすぐに決断します。
520人の技術者とその家族全員を運ぶという世紀の大脱出!!
1000台のトラックを用意し、V2ロケット100基分の部品と重要書類を積み込ませました。
通行証は、偽造しました。

1945年2月17日、ペーネミュンデを出た一行は、南へおよそ600キロ離れたブライヒェローデへ向かいました。
ナチスに見つかれば裏切り者として処刑される・・・決死の逃亡でした。

4月30日、ヒトラー自殺!!

その2日後、フォン・ブラウンたちはアメリカ軍に投降・・・母国ドイツを捨てました。
第二次世界大戦が終わると、フォン・ブラウンたち工学者126人はアメリカのテキサス州フォードブリスに移住します。
ミサイル実験場でした。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍に元ナチスの戦争犯罪人として形式的な尋問にかけられる一方、V2ロケットを組み立てるように命令されます。
その後、アメリカとソ連の冷戦が激化、1949年ソ連が原爆実験に成功。
その翌年の1950年、朝鮮戦争が勃発。
アメリカは、急速に軍備拡大を進めていきます。
フォン・ブラウンは、アメリカ軍から核弾頭を搭載できるミサイルの開発を命じられます。
フォン・ブラウンには、何の躊躇もありませんでした。
ロケットが核兵器になることは必然だと考えていました。
ソ連を敵とみなし、アメリカが西側の救世主になるために・・・!!
核兵器を持つことは正しいと信じ、弾道ミサイル開発に全面的に協力したのです。

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1953年、2トンの核弾頭を搭載できる弾道ミサイルの発射実験に成功します。
320キロの射程距離を持つこのミサイルは、レッドストーンと名付けられました。
後の大陸間弾道ミサイルICBMへと発展していきます。

この頃、共産主義者や独裁主義者をアメリカから追放しようという動きがおこりました。
フォン・ブラウン・・・元ナチスの親衛隊だった過去を暴かれます。
しかし、彼は命令に従うしかなかったと弁明し続けました。
フォン・ブラウンは、繰返し何もなかったといい、陸軍もマスコミにそのように報道させました。
彼がナチスの親衛隊だったという事実は封印されたのです。

1955年、軍の計らいによりフォン・ブラウンは、アメリカの市民権を取得し、名実ともにアメリカの国民となりました。
アメリカ軍は、フォン・ブラウンらドイツ人科学者たちをアメリカ国民にし、冷戦の兵器開発競争に利用したのです。
フォン・ブラウンのレッドストーンは、その後、核実験のために何度も打ち上げられました。
彼はナチス・ドイツのためだけでなく、アメリカでもロケット兵器の開発に邁進しました。

「人道的な立場に立てばロケットの研究を中止すべきだったかもしれない
 しかし、私の宇宙への夢は、あまりにも強かった
 実現できるなら、悪魔に心を渡してもいいとさえ思っていた」byフォン・ブラウン

1957年10月4日、アメリカに激震が走りました。
ソ連が人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功!!
戦後、科学技術で常にトップを走ってきたアメリカのプライドが打ち砕かれました。
そんな中、フォン・ブラウンは国務長官にこう言います。

「私に任せていただけるなら、60日で必ず人工衛星を打ち上げてお目にかけます」byフォン・ブラウン

当時、フォン・ブラウンは新たに強力な弾道ミサイルを開発していました。
爆弾の代わりに人工衛星を搭載すれば、軌道に乗せることが出来ると確信していました。
スプートニクの成功は、彼に、非常に大きな挫折と怒りをもたらしました。
フォン・ブラウンは世界で一番最初に人工衛星を打ち上げるという野望を持っていたのですから・・・!!

3か月後の1958年1月31日、人工衛星”エクスプローラー1号”を搭載した巨大ロケットが打ち上げられました。
95分後、見事、衛星軌道に乗り、アメリカ初の人工衛星となりました。
この成功によって、アメリカは国家の威信を回復、フォン・ブラウンは一躍アメリカのヒーローとなりました。
10月1日、アメリカ航空宇宙局NASAが発足!!
フォン・ブラウンは、マーシャル宇宙飛行センター所長に就任します。
宇宙ロケット開発のTOPに立ちました。

しかし、1961年4月12日、またしてもソ連に先を越されます。
ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行です。
1961年5月25日、ケネディ大統領は、すぐに声明を出しました。

「60年代のうちに人間を月に着陸させ、無事地球に帰還させるという目標の達成を目指す」byケネディ

アポロ計画です。
フォン・ブラウンは副大統領に、「ソ連より先に月に行くロケットを開発できる」と主張していました。
それを聞いたケネディ大統領が、彼の言葉を信じ、すかさず動いたのです。
地球から月へはおよそ38万キロ・・・月に到達し、地球に帰還させるためには正確な軌道を導き出すことが最重要課題となります。
まずは、ロケットを月の軌道に乗せ、月の引力を使って着陸させる・・・
帰りは地球の引力で戻る・・・途方もない計画でした。
フォン・ブラウンが開発したのは、宇宙飛行士を月に運ぶための3つの円陣を持つ世界初の三段式ロケット・サターンⅤです。
フォン・ブラウンは、アポロ計画の最重要部分であるロケットエンジン開発のリーダーに任命されました。
アポロ計画の最重要人物の一人となったのです。

アメリカ政府は、アポロ計画に年間60億ドル(2兆1600億円)を投じ、それは国家予算の予算のおよそ4%にも上りました。 
予算獲得のためには、国民の支持が必要だと考えたフォン・ブラウンは、マスコミを利用しました。
当時人気のあったウォルト・ディズニーと宇宙ロケットを開発する番組を制作します。
宇宙旅行を描いた小説やエッセイをわかりやすくイラスト共に雑誌に掲載、さらに、ケネディ大統領との親密さをアピールし、アメリカ国民に月面着陸は夢ではないと印象付けました。
アポロ計画スタートから8年後・・・1969年7月16日、三人の宇宙飛行士を乗せたサターンⅤが打ち上げられます。
全長110m、総重量3000トンを超える巨大なロケットが飛び立ちました。
そして4日後・・・7月20日、アポロ11号は、人類初の月面着陸に成功しました。

「これはひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」byアームストロング

世界中の人々は、テレビにくぎ付けとなり熱狂!!

「アームストロングが月面に降り立った時、まさに人生最高の瞬間だった」byフォン・ブラウン

人類初の大偉業を成し遂げたフォン・ブラウンは、英雄として歴史に名を刻みました。

アポロ11号による月面着陸成功後、フォン・ブラウンが生み出したロケットによって、宇宙開発は飛躍的に進みます。
アメリカNASAは、現在、火星への有人飛行を目指し、巨大なロケットの開発を進めています。
民間企業では、月旅行を実施すると発表・・・
その一方で、フォン・ブラウンが開発したロケットの技術でスカッドミサイルなどが世界各国に広まりました。
現在、およそ50か国が大陸間弾道ミサイルの開発を進めています。
射程距離は1万キロ・・・およそ1分で宇宙空間へ到達し、最高速度はマッハ20にもなります。

フォン・ブラウンのV2ロケットは、技術革命でした。
大陸間弾道ミサイルと、新たな宇宙ロケット両方を可能にしました。
アメリカ、ロシア、イギリス・・・そして中国など、世界各国のロケット開発を飛躍的に進歩させたのです。
現在、地球の周りには、4400以上の人工衛星が稼働中。
少なくともおよそ300基は軍事衛星だといわれています。
日本はこれまでに延べ11基の情報収集衛星を打ち上げました。

宇宙は果てしない・・・この瞬間も膨張を続けています。 
人類はどこまでたどり着けるのか・・・??

1972年、アポロ計画の打ち切りが決まると、フォン・ブラウンもNASAをさりました。
その3年後、63歳の時ガンが見つかります。
1977年6月16日、すい臓がんで死去・・・
死の底でフォン・ブラウンは、まるで宇宙の中を漂っているようなうわごとを発したといわれています。

「私は今、銀河系を脱出しようとする
 10万光年・・・10億光年・・・」

最期の言葉は・・・「ノバ(新星)」・・・65歳の生涯でした。

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