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私達の常識と戦後日本の現実

■ 経済活動と教育に於いて

・私達の常識  私達は義務教育は勿論、今やそれ以上の高等教育を受けてゐる。  故に経済的にも、より豊かに、自由な活動をする事が可能である。

・戦後日本の現実  私達は経済制度の労働力(構成部材)となるべく教育され、高等教育とは単にその専門性を高めてゐるに過ぎない。  故に経済的にも、制度に拘束された無産階級、経済動物でしかない。


嘗て、例へば江戸時代では武家でも農家でも職人でも商家でも、それぞれの生産手段を習ひ修め、その家督(名や暖簾、財産)を継ぐ事で、有産階級として生産手段、詰まり「生業」を維持できた。生家に生産手段がなくとも徒弟制度などで「生業」を得る事もできた。

なるほど、現代ではそれこそ「職業選択の自由」といふやうに、どのやうな職業を選ぶ事もできる訣だが、それは裏を返せば「一億總 フーテン(瘋癲)の寅さん」ともいへるもので、家業などの生業を度外視して、個人個人の労働力でその日その日を送る「無産階級」となる事が「通常の社会生活」であるといふ転倒を起こしてゐる。

「いや、学歴があれば一流の大企業に勤められるではないか」といふ常套句があるが、問題はそこではなく、その構造なのだ。自身に生産手段のない者がその企業に依存して生計を立てるといふのは実に不自由な事である。それは世の勤め人の皆さんがよく知る所であらう。これは武家や公務員でも同じ事である。問題は「自存自衛」が可能な独立性が損なはれる経済構造にある。 端的にいへば税制が悪過ぎるのだ。税金不払ひ運動をするべきだらう。

その証拠に「比較的豊かな無産階級」を見れば、労働で得た貨幣を種銭として、金融市場といふ賭場に行き、貨幣を増やす資本利得を「キャピタル・ゲインだ」といつて喜んでゐるではないか。この社会の将来に希望を失ひ、不安だからだ。しかし、変動相場で得た利益といふもの自体、やはり変動するものであるから、それは本質的には泡沫の富である。「今が良ければ、その日が暮らせれば、それで良い」といふ「フーテン思想」では「國家百年の計」は立たぬ。

では、動労で得た貨幣を以て、独自の生産手段を得ようと「フリーランスだ」「個人事業主だ」といつてみた所で、その成功と安定は容易であるとはいへない。嘗ては全國に多くの、独立した生産手段を持つ「有産階級」がゐた訣だが、その大半が「フーテンの無産階級」となり果て、その辛さや不安から嘗ての自由を取り戻さうとしてゐるが、一度失はれたものを取り戻すのは難しい。

今、このやうな世の中であつても、私達は親や祖先の遺して下さつた皇土とその恵みにより暮らす事ができてゐる。さうであるならば、子やその子孫の爲にも「フーテン思想」からの脱却と骨太な「百年の計」が必要なのだ。それこそが今に生きる私達自身の「生き甲斐」「働き甲斐」ともなり得る。

「合理化」を邁進する世界的な金融経済は、大量生産と大量消費により成り立つといふ構造的な欠陥があり、それは既に飽和状態にあるのだが、これを支配する巨人は未だ強大であり、強大であるが故に、強い者がより強くなる淘汰の結果として、世の格差は歴史的にも例を見ない程に拡大してゐる。これに正面から挑む者はさながらドン・キホーテのやうに跳ね飛ばされて野に転がる事だらう。

その原因としては、戦後教育による人間の劣化がある。生産手段の獲得力が低下してゐる。要するに「生存する爲の本能」が劣化してゐるのだ。動物園に囚はれて育つた動物が自ら餌を穫る術を失くしたやうに、私達も「生業」を得る爲の力を失くしてゐる。

そのやうな貧弱な有様では、政治による回復など不可能だ。今の閉塞的な経済構造は政治的に、思想的に導かれてゐる。政策や教育が反映されたものである。それらの方向性といふものはいふまでもなくロビー活動による結果であり、政治を担ふ政府や官僚自体が老朽化してをり、これは改善しようにも動脈は硬化し、腸は腐敗してゐる。延命するのに必死な状態だ。手負ひの獣が危険であるのと同様に、このやうな戦後政府に対して「姦吏を一事に軍いたし打殺し、日本を今一度せんたくいたし申候」といふには國家としての地力が不足してゐる。

今こそ、眞に「教育」が必要なのだ。教育には何か目新しい事など不要だ。 「教育に関する敕語」を元にして、本能を鍛へるべく「道理」を學び、家業や生業を助ける爲の実務的な知識や技術、税務を義務教育で充実させ、それらの「生業」を維持し継承してゐける爲の「百年の大計」、我が國の使命である「天業恢弘」の大事業を進める爲にこそ高等教育を行ふ必要がある。

これらの事を學ぶには「國體護持總論」第六巻が良い。

次回は「私達の常識と戦後日本の現実 ■ 政治運動に於いて」の予定(未定)