風小路四万歩の『記憶を遡行する旅』

ある場所に刻まれた記憶の痕跡を求めて、国内、海外の聖地、歴史のある町並み、古道、古跡、事件、デキゴトなどを訪ねる

会津流転

2013-02-05 10:54:27 | 旅行
歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。

 会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。その城は、昭和四十年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後、取り壊されてしまったのだ。

 この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。  

 それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。

 この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつくことだろう。 

 わたしが会津若松を訪れたのは、ちょうど秋祭りがとりおこなわれているさなかであった。そのためもあってか、市内は時が逆戻りしたように古色につつまれていた。

 武者行列が町のせまい街路を練り歩き、天守閣がそびえる広い中庭では、居合抜きの競技会がおこなわれていた。町は、なにやらあの籠城戦の時の雰囲気を彷彿させるあわただしさに満ちていた。

      * * *

 会津戦争は慶応四年八月二十三日を皮切りにはじまった。兵員三万とも四万ともいわれる官軍が、怒涛の勢いで城下に突入したのである。以来、九月二十二日の落城にいたる一カ月ほどのあいだ、壮烈な籠城戦が繰り広げられることになった。

 この戦いの最中、数え切れぬほどの悲劇が生起した。戦いはつねに悲劇をともなうものである。しかも、それら悲劇のひとつひとつには拭いがたい残酷さが付着している。負けた側が引き受けねばならない悲惨というべきか。幾つもの悲劇が今でも土地の人々に語り継がれている。

 そのひとつに城代家老西郷頼母の家族の自刃がある。旧城下の大手筋にあたる甲賀通り沿い、ちょうど城の北出丸の追手門を目の前にする通りの東側に西郷邸はあった。

 甲賀通りは、幅一八メートルほどの広さの通りである。ちなみに、市内の道路は、南北の通りを「通」と言い、東西の通りを「丁」と呼びならされている。

 出来事の顛末は次のようなものであった。 

 官軍が市内に迫った八月二十三日のことである。土佐藩を主体とする突撃隊は、鶴ガ城の北出丸に向けて突進していた。一隊は城の前面に建つ広壮な邸宅に足を踏み入れようとしていた。屋敷の内部は妙に静まりかえっている。突撃隊は屋敷の中の廊下を突き進んでいく。すると奥の間に突き当たった。

 隊長の土佐藩士中島信行は、その襖を勢いよく開け放った。中島は、その瞬間、あっと息を呑んだ。死装束をまとった幾人もの女たちが血の海の中で悶絶していたのである。

 女たちは、城代家老西郷頼母の妻女をはじめ、その娘たち四人と西郷家一門の家族、総員二十一人の老幼男女であった。

 この出来事は、惨劇からまぬがれた頼母の長子吉十郎が、のちに登城し、父にそれとなく話したことで会津側にも明るみになった。 

 じつは頼母は、こうなることを先刻承知していたのである。登城前、頼母は自分の家族を集め、西郷家の身の処し方について言い残しておいた。そして、一人ひとりに辞世を作らせ、みずからその添削に手を染めた。

 そして、敵が押し寄せた時には、みずからの命を断つようにと、妻女らに諄々と説いておいたのである。その結果の自刃であった。

 頼母が家族にそうすることを強いた確かな理由があった。

 西郷頼母は恭順派、非戦論者として知られていた。藩主松平容堂の京都守護職就任に反対し、そのために家老職を解かれ、以来、五年間藩政とのかかわりを断っていた人物であった。ところが、慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いの敗北が会津に伝えられるや、藩国存亡の秋来る、ということで頼母は再度登用されることになった。

 彼はその時もなお恭順を説いたが、事態はもはや恭順論が受け入れられる状況ではなかった。そして、止むなく会津軍の白河口総督として出陣することとなった。

 大勢に抗しつつ、それに押し流されて行かざるを得なかった無念さはいかばかりであったであろうか。とはいえ、今や体制の外にいつづけることは、自分の気持ちが許さなかった。当時の封建道徳としては当然の考えであったろう。 

 すでに決死の覚悟であった。彼は自らの家族にも生き死についてのありようを悟らせていた。この姿勢は、敵味方双方に対して、武士としての気概を示そうとするものだった。それは軟弱と非難されてきた我が身に対する最後の矜持の証明といえた。

 矜持をつらぬいて自刃したこの西郷頼母家と同じような悲劇は、会津戦争のさなかに、ほかにも数々あった。

 寄合組中隊頭井上丘隅の家は甲賀口の本五ノ丁の角にあった。井上は敵が家のすぐそばまで押し寄せてきたことを知り、妻と子を介錯して自刃、「もろともに死なむ命も親と子のただ一筋のまことなりけり」という辞世を残している。本四ノ丁角に住まう寄合組中隊頭木村兵庫は、八人の家族を刺し殺したあと、自身も自刃した。

 同じく寄合組中隊頭の西郷刑部の妻は留守家族五人とともに自害している。小隊頭永井左京は戦いで負傷した身体を家で横たえている時、敵の来襲にあい、家族七人とともに自刃している。

 このほかにも、野中此右衛門とその家族の死、高木豊次郎家の死、有賀惣左衛門の妻子の死などがあげられる。さらに、悲劇は下士の家族にも及んでいる。

 これら一連の悲劇は、八月二十三日、薩摩、長州、土佐藩などの連合軍三千の兵が市内に突入したその日にすべて起きたことであった。一方、矜持をたずさえて最後まで命を賭して戦った者たちもいた。

 会津戦争最大の激戦と言われた甲賀口の防戦で討ち死にした田中土佐と神保内蔵助は、ともに家老職にある身分だった。

 甲賀町通り沿いは上級の武家屋敷が集まる地区であったが、そこが官軍の侵入通路になり、主戦場になったのである。 

 女たちも戦った。会津娘子軍の名で知られる婦女薙刀隊の隊長格であった中野竹子の討ち死にもそのひとつである。

 竹子の率いる薙刀隊は、若松郊外の柳橋(市の西北)という地で敵とわたりあったが、この時、竹子は敵の弾にあたって戦死した。この薙刀隊員の服装は、髪は斬髮、白羽二重を着込み、鉢巻きをするといった男勝りのいで立ちで話題になった。

 家老職にありながら城の外にあって、野戦の総指揮にあたった佐川官兵衛の、何物かにとりつかれたような戦いも、会津の矜持を示すひとつの形だった。

 そして、会津藩の矜持の代表者として責任を取らされた人物が、家老職のひとり管野権兵衛、その人であった。管野は、藩主になりかわり、この戦いの最高責任者としてのちに切腹させられている。

 *  *  *      
 同じ朝敵になった藩の中で、会津藩ほど薩長側から憎悪の標的とされた藩はなかった。それはいかなる理由からであったのか。

 思うにそれは、会津人の狷介ともいえる性格にあったのではないか。それが相手に遺恨の残る結果を招いてしまった、ということではないのか。融通の利かない狷介な性格はともすれば相手の気持ちをおもんばかることのない態度となって現れる。

 権力に裏うちされた狷介は怖い。正義の名において、相手に容赦のない規範の順守を求める。それは往々にし、曖昧なもの、不明瞭なこと、欠けたもの一切を許さない、完膚なきまでの恭順を相手に要求する。その結果、当然、相手に遺恨が残る。 

 日本の政治的対立がピークに達した時、会津藩が京都守護職を引き受けたことが会津の悲劇であった。

 西郷頼母は、藩の役割の悲劇的結末を予感して、藩主容保に諌止した。だが容保は聞く耳をもたなかった。自らの大義名分を押し立てた。容保にもある種のかたくなさを感じる。容保という人は、実は大垣藩から入った養子藩主である。会津に住んで、会津気質を身に帯びたのだろうか。

 その結果、当時の政治の中心地でとった行動が、会津人気質をいやがうえにも鮮明に敵側である倒幕派に印象づけることになった。会津憎しの怨嗟の声が渦巻いたのも故なしとしない。

 風土性というものがある。

 山に囲まれた盆地である会津地方は、その自然環境からして、外部と隔絶するきらいがあった。そのうえ自然条件が厳しい。冬の季節が半年近くもつづくという土地柄である。自然環境の閉鎖性は人の気質をかたくなにする。ひらたくいえば頑固者が多い。人心が停滞し、新しいものを採り入れるという性向より、古いものを守り抜こうという姿勢が強くなる。その一典型が会津に生きている。 

 会津というと、〃伝統〃というイメージが浮かぶのも、古いものを綿々と育て上げる風土性が、会津の特徴として今も生きているからであろう。 

 自然条件の厳しさは一方、そこに住む人を辛抱強く、かつ粘り強くする。この性向が、会津気質の芯をかたちづくっている。

 明治維新になってから苛酷な運命にさらされた会津の人々の心を支えたものも、皮肉なことに、この性向である。

 新政府の追い打ちをかけるような施策によって、維新後、会津藩は解体される。そして東北の一寒村に移封されることになる。

 そこは南部藩領から削りとった陸奥三郡およそ三万石の土地であった。斗南藩と呼ばれるその所領に、藩士とその家族一万七千人が移住した。 

 明治の世になり、陸軍大将に昇進した会津出身の柴五郎はその遺書の中で、少年時の思い出を次のように回想している。

 「今はただ、感覚なき指先に念力をこめて黙々と終日縄なうばかりなり。今日も明日もまた来る日も、指先に怨念をこめて黙々と縄なうばかりなりき」

 ひたすらの忍従は、たたかれ打ちひしがれても生きぬこうとする強靭な心をつくりだし、やがて、それは怨念という名の情念と化する。             

 ここに、その情念を新たな新国家建設に向けて積極的に放出した人物がいる。

 そのひとりに旧会津藩家老山川浩がいる。彼は籠城戦当時、遊撃隊長として、城の外にあって、薩長軍に対し巧妙な戦いを展開した。降伏後、最北の地、斗南藩に移住させられた時、権大参事(藩知事)の要職にあって、藩の実質的な指導者となった人物である。

 斗南藩の経営は困難を極めた。自然はあまりにも苛酷であった。新天地に移り住んだ旧会津藩士を待ち構えていたのものは飢餓地獄そのものであった。不毛ともいえる荒野は、尋常な手段では人間に服従するような相手ではなかった。

 そして、ついに新国土建設は、苛酷な自然を前にして、虚しく潰えてしまう。

 この斗南藩経営の失敗のあと、山川は東京に出る。薩長政府への怨みをもう少しちがった形で果たそうとしたのである。それは体制内に入って、いずれの日にか汚名を雪ごうという考えであった。

 薩長政府に真正面から対決する姿勢ではなく、むしろ、体制内で自己の立場を確立し、藩の汚名を返上しようというリアリストとしての見識である。

 山川はこうして官途の道を選ぶ。その企てに手を差しのべたのは、旧敵土佐の谷千城であった。谷の推挙により、山川はまず陸軍省八等出仕を申しつけられる。そして、のちに陸軍裁判大主理に任官することになる。明治六年七月のことである。

 その後、山川は異例の出世をはたし、明治十年の西南戦争のおりには、陸軍中佐として参謀職を勤め大いなる功績を残す。

 その結果、山川が果たそうとした、自己の立場を確立し、そのうえで一定の自己主張をし、自らの存在を認めさせる、という願いがかなうことになるのである。

 この山川浩のほかにも、会津出身で、のちに世に出て名をなした人々が数多くいる。

 まず、山川浩の弟の健二郎。彼はのちに東京帝国大学の総長になっている。また、この山川兄弟の末妹である咲子(のちの捨松)は、津田梅子らと初の女子留学生として渡米し、のちに陸軍卿大山巌と結婚している。

 兄弟で名をなした人に、ほかに、山本覚馬、八重子兄妹がいる。覚馬は新島譲とともに同志社大学の創立に貢献した人物であり、八重子(平成25年、NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公)は、その新島譲の妻になった人である。彼女自身もその後、幾つもの社会福祉事業に貢献している。

 このほかに、『ある明治人の記録』に登場する、のちに陸軍大将になった柴五郎、明治大正期に外交官として活躍した林権助、明治学院の創立者のひとり井深梶之助、クリスチャンとして明治の教育界で活躍した若松賎子などの名を見いだすことができる。

     * * *

 ひと言で生き方の違いということでは片づけられない会津人のこの堅忍の姿勢は、やはり風土性のようなものを考えなければ理解できないと思う。

 猪苗代湖を前に、磐梯山を背後に控えた会津という地は、日本の古典的な田舎風景が広がる場所である。それは昔ながらの、貧しさのひとつの典型を示す土地柄でもあった。

 貧しさが張りついたような苛酷な風土、時の流れが回遊しているような社会、そうしたものに包み込まれて生きる人間は、忍従という言葉を生き方の基本にすえるしかないのである。 

 さらに、そこに長い厳しい冬の季節が加われば、何人と言えども、そこでは、どのように生き、自然の苛酷さにどう耐えなければならないかを習得するはずだ。

 かつての日本の田舎は多かれ少なかれ、そうした地の風を備えていたのである。忍従はそうした地に生きる日本人の共通する性向のひとつの形でもあった。

 会津というと、わたしは猪苗代湖畔の貧しい家に生まれ育った野口英雄を思い浮かべる。貧しい家に生まれたにもかかわらず、やがて、忍従と勤勉を積みかさねて、ついに立身出世していった野口英雄の行跡は、ひとり会津人のみならず、日本人すべてが理想とする姿であった。

 それゆえに、教科書にも取り上げられ、幾世代にわたって、日本人の鏡でありつづけた人物であった。

 貧しさゆえに忍従を強いられるということはある。かつてはほとんどの日本人がそうであった。少なくとも、そうした状況のなかで生きていた日本人にとって、野口英雄的生き方は模範とするに足る生き方であった。

 会津人が規範とした生き方が、そのまま、日本人の生き方として通用していた時代があったのである。







伊勢神宮-常世の浪の寄せる、うまし地-

2013-01-23 11:10:39 | 人文
 「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」
 これは江戸時代に唄われた「伊勢音頭」の一節である。かつてはこれほどの熱いまなざしでとらえられていたお伊勢さんであるが、今の時代でも、機会があれば一度は訪ねてみたいという思いを抱いている人が多いのではないか。
 そのお伊勢さんを訪ねることになった。  
 徒歩で伊勢神宮を訪れた時代、参拝は外宮からするのが一般的であった。地理的にみても外宮の方が手前にあるので、それが順当であった。現在でもそのように参拝するのが正式らしい。私もそれにならって外宮からお参りすることにした。外宮に行くには、近鉄山田線の伊勢市駅で下車する。
 いかにも寺社の門前を思わせる、みやげもの店が立ち並ぶ賑やかな表参道をまっすぐに進む。やがて、目の前にこんもりとした緑の森が見えてくる。
 外宮の参拝はまず火除橋をわたるところからはじまる。火除橋の名は、かつて、ここに火除地があったことにちなんでつけられた名であるという。
 外宮の近くまでひろがった町域から発生する火災を恐れて、火除地が設けられていたわけだ。今も広い空間にその片鱗がうかがえる。 
 いよいよ、濃い緑につつまれる神域に足を踏み入れるという時、心なしか少し威儀をただしたい気分になる。
 橋をわたり、左手に備えられている手水舎で手を清め、左の手のひらに水を受けて口をすすぐ。この儀式めいた行為もごく自然に済ませ、気持ちをととのえてから砂利道の左側をおごそかに進む。まずは第一鳥居をくぐる。外宮の神域は、見たところ、それほど広いとは思えない。少し行くと、すぐに第二鳥居が見えてくる。
 右手にかたまる建物は、祭礼の際に、神職が身を清めるためにこもる斎館である。左手奥にはいくつかの池が見え隠れする。  
 第二鳥居をくぐる。しだいに神域らしい気配が濃くなる。鳥居の右手に見える建物は神楽殿。正式な祈祷を依頼するさいに、お神楽の舞が演じられるところである。
 そして、その隣が九丈殿と五丈殿。いずれの建物も簡素で、殿と呼ばれるほどの威厳は感じられない。聞けば、この建物は、雨天用のお祓い所であるというから、仮屋のような印象があるのだろう。
 それを通り過ぎると、参道のつきるあたりに正宮が現れる。それは意外の感があるほどにすぐ現れた。
 伊勢神宮の場合、内宮も外宮も、一般の参拝者は、御垣内の外垣南御門と呼ばれる門の前でお参りすることになる。 
 外宮の御垣内は四重の玉垣に囲われた正殿が中央奥に建ち、その前方左右に宝殿が建つという配置である。
 じっさいは拝礼の門から眺め通しても、幾重にも重なる門にこばまれて、正殿の全貌は確かめられない。わずかに、先端を垂直に切った千木をつけた萱の屋根が奥の方に見えるばかりだ。
 この外宮の祭神は、豊受大御神という。この大神は、内宮に祀られる天照大御神に神饌をたてまつる神としてこの地に鎮座する。神が食事をするというのも、いかにも人間的である。
 外垣南御門の正面に立ち、二拝をし、柏手を二つたたき、もう一度拝礼する。
 拝礼を終えて、ふと見ると、正殿の建つ敷地の隣に、ぽっかり、ひろい空き地がひろがっているではないか。  
 そこは古殿地と呼ばれる、つぎの式年遷宮の時に、新たな社殿が建てられる場所であるという。式年遷宮というのは二十年ごとにおこなわれる社殿再建の儀式である。
 社殿を再建し、そこにあらためて神をむかえるその儀式は、永遠に神の再生を願うという意味があるとされる。それが二十年ごとにおこなわれるというわけだ。
 だが、この式年遷宮には、じつはもっと別の現実的理由があるとも聞いた。それは社殿造営の技術を永遠につたえるためだというのである。
 人間のライフサイクルを考える時、二十年という歳月が技術伝達にちょうどふさわしいとされた時代があった。式年遷宮はその伝統をひきついだものだというのだ。
 古殿地には粉を吹いたような小石が敷きつめられ、その中央に小さな小屋が所在なげに建っている。
 それは心の御柱覆屋と呼ばれる小屋で、その名のように、そこには社殿の中心に埋められる聖なる檜の御柱が収納されているという。いわば、そこは、宮のなかで最も神聖な場所、神が再生する奥所ともいえる場所なのである。 
      * * *
 外宮から内宮まではかなりの距離がある。徒歩でお伊勢参りをした時代、人々は、その五キロほどある御幸通りと呼ばれる街道をたどって内宮への参拝に向かったわけだ。
 五キロという距離が長いのか短いのか、その小旅行に配慮したのかどうか、この街道の途中に古市という歓楽の町がひかえていた。そこは、お伊勢参りの定番コースとして、参拝者の誰もがなんらかの形で立ち寄る場所であった。
 神聖であるべき神宮の参拝の道中に用意されていた歓楽街。聖と俗との隣あわせ。そのとりあわせがおもしろいが、お伊勢参りの内実とは、そうしたものであったのだ。
 『東海道中膝栗毛』のなかの弥次喜多も両宮参拝の前に古市で遊んでしまっているところからみると、こういう手合いがかなりいたのだろう。
 参拝の前に遊びほうけて、肝心なことは適当にお茶を濁すといったケースがかなりあったのではないか。
 こうして、伊勢神宮へのお蔭参りでは、おびただしい数の人々が御幸通りを行き来したのである。
 それらの人々が衆をなして、精進落としと称して歓楽の町を訪れ、なにがしかの金を落としていったとなれば、俗の世界はますます繁盛することになる。
 その町の賑わいは、今では想像すべくもないが、内宮に近いところにある五十鈴川に沿ったおはらい町に、かつての町並みが再現されている。そして、そこを訪れる人に往時の片鱗をかいま見させてくれる。
 おはらい町はなんともゆったりした気分にさせてくれる界隈である。通りにそって古風なつくりの切妻屋根の家並みが軒をならべ、意匠をこらした看板が目を楽しませてくれる。 どの家も店舗になっていて、そこでは伊勢名物のあんころ餅を売っていたり、土地のみやげ物を並べたりしている。なかに和菓子や海産物を商う専門店もまじる。 
 車の行き来しない通りをのんびりと、くつろいで歩いているだけで、幸せな気分になるのはどうしたわけだろう。
 ところで、幾度かブームを巻き起こしたお伊勢参り。じつは、その陰には仕掛け人がい たのだ。御師(おし)とその代行をつとめる先達という仲介人がそれである。 
 御師は神職にある人であるが、旅籠業もかねるお伊勢参りの案内人であった。昔は伊勢参りは団体でするというのが相場だった。その団体は伊勢講という講をつくり、毎年お伊勢参りのツアーを組んだのである。それを斡旋したのが御師であった。
 御師は講中から参拝費用を徴収した。これには宿泊費や神楽、幣の奉納代といったものも含まれた。 
 この御師の活動がはじまったのは室町時代頃からだといわれる。彼らは関所の通行特権を与えられて全国をかけまわった。それが功を奏して、江戸時代の終わりまで、お伊勢参りの人気はつきることなくつづいたのである。一方、受け入れる側の一般庶民にとって、お伊勢参りは、日常生活を離脱するまたとない機会であった。
 お伊勢さんにお参りすることで、なにがしかの願いごとがかなえられ、なおかつ、日頃の憤懣を発散できるとなれば、お伊勢参りに熱い思いが託されるのは当然であった。 
 さすがに現代では、そうした熱い思いはなくなったが、今日もおはらい町には、観光客が引きも切らずにバスで押し寄せ、みやげ物を買いあさり、食欲を満たして帰ってゆく。      * * *
 内宮の参拝はまず宇治橋をわたることからはじまる。いかにも雰囲気のある擬宝珠をおいた檜づくりの橋を、心を鎮めながらわたる。橋の中央に立って、周囲を眺めわたすと、深い照葉樹林の森のむこうにこんもりと盛り上がる神路山、島路山が望める。
 そして、足下には五十鈴川(宮川)の清流が浅瀬をなして流れているのが目にとまる。 こうした舞台設定を前にして、橋をわたるものはだれもが、これより神域に入るのだという思いをあらためて強くするのである。川は異世界との境であり、橋は彼岸と此岸をかけわたす通路として理解されるのだ。  
 橋の両端に立つ、直線的な鳥居の立ち姿が、周囲の風景に緊張感を与えている。注意してみると、橋は真新しいのに鳥居は見るからに古びている。 
 じつは、鳥居には式年遷宮で役割を終えた正殿の棟持柱が使われているという。建て替えられた時には、すでに二十年という歳月が流れているわけだ。
 森の深さからみても、内宮の神域はじつに広いことがわかる。外宮の比ではない。
 内宮と外宮という呼び名は、地理的な関係からそう呼ばれるようになったものであるにもかかわらず、内宮が主で、外宮が従であるというイメージがあるのは、その神域の規模の大きさにもあるように思える。
 さらに言えば、伊勢の地に最初に祀られたのは内宮であり、外宮に祀られる神は、内宮の天照大御神に食事を供する神さまとして、のちに遷宮してきた経緯からしても、なにやら主従関係を匂わせるものがある。
 橋の上に立って、しばし目の前にひろがる風景を見わたしながら、私は四季おりおりの、朝と昼と夕べの、時の移りによってもたらされるであろう景色の変化を想像してみた。
 橋をわたりおえるとすぐに玉砂利の敷かれた参道になる。玉砂利の上を歩くのはなかなかの難儀だ。じつに歩きにくいのである。
 そのために参道を歩む人は、つい足元に気を向けることになる。それが結果として、心の集中をもたらす効果をつくりだす。
 参拝客は拝殿に早く行き着きたいと願う。その焦る気持ちをじらすように玉砂利は果てしなくつづき、さらに森の奥深く分け入ってゆく。
 火除橋をわたり、一の鳥居をくぐる。参道が大きく左に折れるところに御手洗場がある。五十鈴川におりる石段があり、そこで手を清める。
 自然の川が御手洗場になっているのも珍しい。これは心の汚れは海に流すという考えからのもので、五十鈴川はやがて二見浦のある伊勢湾に注ぐ。 
 左に折れた参道をさらに進む。二の鳥居をくぐり、左手に神楽殿、右手奥に風日祈宮を見てから、いよいよ本殿にいたる。
 この参道沿いに林立する巨木の杉は、神杉と呼ばれる、いずれも樹齢六、七百年をへた老杉だという。
 品格のある風姿を直立させ、そこを歩む者に神域にいるという実在感をずっしりと与えてくれる。杉林をわたってくる一陣の風に、心が洗い清められるような気分になる。 
 ようやくのことで外玉垣南御門の前に立つ。鳥居をくぐり、石段を一歩一歩踏みしめる。参拝地点の外玉垣南御門前は人であふれていた。
 拝礼をしながら、外玉垣南御門の風にゆれる、帳(とばり)のむこう側にひろがる知られざる神域の世界を想ってみた。すると、ふいに妙な神秘感にとらわれたのである。  
 ふと、「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と詠った西行のことが思い出された。
       * * *
 ところで、一般には見ることができない内宮と外宮であるが、それぞれのつくりはどのようになっているのだろうか。
 まず、両宮に共通する点として----。
 その建物は唯一神明造りと呼ぶ、掘っ立て柱に萱を葺いた、切妻の屋根をもつ、檜の素木造りの建物であるということ。そして屋根には破風がのびて、千木を立て、棟の上には鰹魚木を置いている。
 これから想像するに、それは、ちょうど高床の穀倉造りに近いものといえる。
 それはブル-ノ・タウトをして、「この風土、この日本の土壌から生い立ったもの----いわば稲田のなかの農家の結晶であり、この国とその土壌との力を納めた聖櫃」と言わしめた構造物になっていることがわかる。 
 「唯一」というのは、ここ伊勢神宮にしか見られない造りであることを強調したものだろう。 
 つぎに内宮と外宮のつくりのちがいである。第一に社殿の配置が異なっていることがあげられる。全体として、空間構成の面で外宮の方が奥行感があるようだ。
 つぎに、千木の先端の切り方、鰹魚木の数がちがっている。
 とくに、千木の先端の切り方が異なるのは興味あるところである。
内宮の千木が水平に切られた内削になっているのに対して、外宮のそれは垂直に切られた外削になっている。
 外削の方が雨水の浸透による腐食を防ぐには合理的という見解もある。だが、そうであれば、両宮とも外削であってよいものなのに、そうなってはいない。
 すると、何かをシンボリックに表したものだということになる。たとえば、日本人が古来もっていたという、垂直的な宇宙観と水平的な宇宙観を表現しているというように。  
 別の説では、内宮の祭神が女神の天照大御神であることから千木が内削になっているのだという。とすれば、千木が外削である外宮の祭神、豊受大御神は男神だ、ということになる。だが豊受大御神は女神なのだ。 
 前述のように、豊受大御神は雄略帝の頃に、天照大御神に食事を供するために、わざわざ丹波の国から迎えられた神さまなのである。         
 ここで外宮のある度会(わたらい)の地には、もともと在地の守護神が祀られていた、という言い伝えがあることが思い出される。
 それは、豊受大御神が迎えられる以前に、すでにそこに祀られていた祭神があって、それは男神だったというものである。
 内宮の女神に対して、外宮の男神、千木の切り方が内宮の内削に対して、外宮の外削、また、鰹魚木の数も内宮が十本(偶数)であるのに対して、外宮が九本(奇数)と、あくまで内宮と外宮とは対の関係にあることがわかる。 
 それはまた、内宮と外宮は、たがいに補いあう関係にあるとも理解できる。
 伊勢神宮は、あくまで両宮を合わせて、ひとつの神宮として成り立っているというわけである。
 したがって、神宮参拝も両宮を合わせることで、まっとうしたことになる。
 伊勢神宮の遷宮の経緯については、『日本書紀』に、垂仁天皇二六年、垂仁帝の皇女である倭姫命が、「この神風の伊勢の国は常世の浪の重波のよする国なり。傍国のうまし国なり、この国におらんとおもう」と宣った天照大御神の神託にしたがって、この地に定めたとされる。
 古来から伊勢の地は、海上の彼方に常世があるという海上他界信仰につながる地として、また食料の豊饒な地として特別の意味をもつ場所であったのである。
     



◎日光山--山域にひそむ星辰信仰を探る-

2012-11-20 19:13:32 | 歴史

日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。
東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。
 新装なった朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。
 あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると、正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。
 その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、夜叉のよう な姿をした深沙(じんじゃ)大王があらわれ、手にした二匹の蛇を投げると蛇はたちまち橋に変じ、上人一行は川をわたることができた、という。いわゆる蛇橋(神橋)伝説である。
勝道上人のことはのちにも触れるが、上人一行が日光を訪れ、大谷川をわたったのは、天平神護二年(766)のことだ。世は天平時代、道鏡が権勢をほしいままにしていた頃である。
勝道上人が日光を開山したゆえんについては、ある時、夢のなかに、明星天子があらわれ、「汝はこれから仏道を学び、成人したら日光山を開け」と告げられたからだという。
 明星天子というのは、金星のことで、それを祀る星の宮という旧跡が、神橋のすぐ近くにある。勝道上人が日光開山後に祀ったものであるという。 
 無事、大谷川をわたり、山中に分け入ることができた上人は、そののち、とある場所で紫雲が立ちのぼるのを見て、そこに小さな草庵を結ぶことになる。現在、四本竜寺が建つ地で、日光発祥の地とされる場所である。
 今日、日光というと、ほとんどの人が東照宮を想起するのは自然のことだろう。それほどに、日光は徳川家康にゆかりの深い地となっている。
が、日光は、家康の霊廟がつくられる以前からすでに勝道上人伝説にみるように、聖なる地としてあったのである。家康が、みずからの奥津城として、この地を選んだのも、その聖性ゆえであった。
  * * *
 観光客のほとんどが東照宮の方角に足を向けるのを尻目に、道を右に折れ、人影のない緑陰の奥に分け入ってゆく。すぐに前方に本宮神社と四本竜寺の堂宇が見えてくる。
古寂びた石段をのぼると、まず目にするのが本宮神社である。唐門、拝殿、本殿といずれも端正なたたずまいで建っている。忘れ去られたような建物だが、いずれも重要文化財になっている。貞享二年(1685)に建立されて以来の社殿という。
 この社が本宮とよばれるのは、男体山の奥宮、中禅寺湖の中宮祠に対する名称で、のちに東照宮の隣に二荒山神社本社(新宮)ができ、二荒山神社の別宮となったのちも呼称は変わらないでいる。それだけに由緒ある建物ということができる。
 陽をさえぎる境内は、まことに深奥という言葉がふさわしく、人影のなさが、それをいっそうきわだたせている。
 本殿の裏手に足を踏み入れてみる。
そこは勝道上人がこの地にはじめて草庵を結んだという地である。寄せ棟造りの小さな観音堂と朱塗りの三重の塔(修復中)がひっそりと建っている。 
 勝道上人がこの地に草庵をもうけたわけについては、つぎのようないわれが伝わっている。
上人一行がこの地にたどり着いた時のことだ。とつぜん前方に紫雲が立ちのぼり、紫雲はやがて、四つの雲にわかれ男体山の方角にたなびいていった。上人はこの体験から、この地が霊地であることを悟ったという。
 いまも、三重の塔の前には紫雲石とよばれる、四方が平たい石があるが、それが紫雲が立ちのぼったとされる古蹟である。四本竜寺の名の由来もその言い伝えからのものである。  
 四本竜寺をあとにして、柴垣がつらなる、いかにもリゾート風の雰囲気がただよう小道をゆく。 道は北に向かいながら、やがて小玉堂とよばれる小堂にいたる。緑の公園のなかに朱塗りのお堂が建っている。
 そのお堂は弘法大師(空海)にかかわる言い伝えがあるらしい。
弘仁十一年(820)、日光山内の滝尾の地で修行していた大師が、この地を通り過ぎたおり、そこにあった池から大小二つの白玉が浮かびあがるのを目撃したという。
大の玉はみずからを妙見尊星(北極星)と称し、小の玉は天補星(北斗七星の輔星)と名乗ったという。
 ありがたく思った大師は、大の玉を妙見菩薩に見立てて中禅寺湖に妙見堂(現存しない)を、小の玉を虚空菩薩の本尊とし小玉堂を建てたとされる。
 勝道上人が明星天子の導きで日光開山をなしとげ、一方、滝尾神社を創建した弘法大師は北極星にまつわるエピソードに関係している。いずれも日光山域にひそむ星辰信仰をうかがわせるものである。
小玉堂をあとにし、リゾートホテルが散見される広い通りをゆく。このあたり、不動苑とよばれる一帯で、江戸時代、日光参詣に訪れた大名の宿所が建ち並んでいたところだという。そう言われてみれば、土地の風格といったものが漂っている。年をへた赤松が枝を伸ばし、石垣の残骸があちらこちらに残っている。
せまい通りをたどってゆくと、生け垣にかこまれた別荘風の建物があらわれる。季節の花々が庭を飾っている。道を曲がったところで、大きな犬を二匹散歩させている中年の女性に出会った。
挨拶をかわし、通り過ぎようとすると、その女性が、「時間があったら庭を見てゆきませんか。この先の木戸をくぐったところが私の家ですので、どうぞ勝手に見ていってください」とすすめる。
意外な申し出だった。見ず知らずの人間に自邸の庭の観賞をすすめる純朴さに感激した。都会では考えられないことだと思いつつ、何やらすがすがしい気分に満たされたのである。
  * * *
 東照宮社務所を左に見ながら、さらに北へ向かう。行くほどに左手、木立のなかに朱塗りの建物を見る。 
 山を背にした重層の屋根を置いた宝形造りの建物は開山堂といい、日光開山の祖、勝道上人が祀られている霊廟である。
弘仁八年(817)三月一日、勝道上人は、この地で八十三歳の天寿をまっとうしたといわれる。その遺体は、上人の弟子たちの手により、開山堂の裏手にある仏岩谷とよばれる巌谷で荼毘に付されたのである。
ちなみに、仏岩谷は東照宮のほぼ北に接するように位置している。地図を眺めると、勝道上人の墓所(いまは開山堂に改葬されているが)である仏岩谷と家康の墓所とが至近距離にあることがわかる。偶然とは思えない、ある意図が感じられるのである。
のちの世になって、家康が日光という地にみずからの遺骸を祀るように遺言した、その背景には、日光が古来から聖地として格別の意味をもつ場所であり、風水思想から見ても理想的な地勢であることを認識していたことがあったであろう。
 いわば、家康の霊廟は、古来からの聖性に守護されてある、ということになる。
このあたり、東照宮の社域の賑わいと比べると、まるで忘れ去られたように人影もなくひっそりとしている。
 開山堂の堂内には地蔵菩薩が安置されているというが、内部をのぞいても、それらしいものがうすぼんやりと見えるだけであった。 
 裏手にまわると勝道上人之塔と台石に刻まれた五輪塔、それに添うように弟子たちの三基の墓が並んでいる。先に述べたように仏岩谷から改葬された墓である。
その仏岩谷が切り立った断崖をなして開山堂のすぐうしろに迫っている。崖下に半身を土中に埋めて立つ六部天をかたどった石仏たちが、いまにも動きだしそうな面持ちで並んでいる。
開山堂のすぐわきに、将棋の駒-それも香車-ばかりを並べる一間社流れづくりの小さな社を目にする。
 それは観音堂とよばれる小堂で、香車の駒が奉納されているのは、安産に霊験がある駒と信じられているからだという。
 香車は直進しかできない駒であり、それはすなわち安産につながるというもので、安産祈願に訪れた妊婦が、ここにある香車を借りて帰り、出産後に新たにつくった駒とともに返すという習わしになっている。
  * * *
 開山堂をあとにしてさらに奥所に足を踏み入れてみることにする。両側に杉の並木がつらなる石畳の道がえんえんと山手の方角につらなっている。
 それは、いかにも散策にふさわしい道で、かたわらに「史跡探勝路」の道標が立っている。その探勝路は空海にゆかりのある滝尾神社にいたるもので、「史跡探勝路」は日光観光協会の指定になるものである。
奥域とか、奥所とかいう空間概念は、われわれに非日常的なものを想起させる。そこは神秘性がたちこめ、なにかそら恐ろしいものが潜在する場所としてイメージされる。
それが山の奥であればさらに近づきがたい印象をあたえ、宗教性を帯びることになる。
どこまでもつらなる長く細い参道をゆくほどに、ときおり路傍に史跡を見たりする。
そのひとつ北野神社は左手鳥居の奥に巨岩を背にしてあった。
 北野神社となれば菅原道真公を祀った神社ということになるが、寛文元年(1661)、筑紫の国、安楽寺の大鳥居信幽という人物が、この地に勧請したものという。
さらにゆくと手掛けの石と名づけられた大岩があり、それは滝尾神社の主神である田心姫命が御手を掛けた岩であると説明書きに書かれてあった。
 にわかには信じられない話だが、見なれない大岩がどういうわけか存在していることが不思議がられ、のちの世になって神秘な伝説がつくられたのだろう。
北野神社に参拝し、この大岩の破片を持ちかえり、神棚に供えると、文字が上達するという。
苔むした石畳は昔のままの道なのだろう。いにしえ人の行き来した痕跡は、今や摩滅した石畳にわずかに残るばかりだが、どういう人々が、どのような思いで、この石畳を踏みしめたのだろうかと思うと、ふと不思議な念にとらわれる。 
 人影のない参道はつきるともなく果てしなくつづくようである。
やがて参道の両側にいかにも年をへた巨木の老杉があらわれる。急に周囲の景観が荘厳さを増したように思える。
 これら杉の巨木は、滝尾神社の十五代別当であった昌源という人が植えたもので、今でも昌源杉とよばれているという。以来、数多の杉が、五百年もの年輪を重ねているわけである。
ようやく参道がつき、滝尾神社の神域に達したかのようである。
道の傍らに、「大小べんきんぜいの碑」と刻した石の標柱を見る。それは、これより大小便を禁じる旨を告知した石標なのである。
 誰にでも読めるようにひらがなで書かれているために、かえって、生々しいものを感じる。今も昔も人間の所業に変わりはないということか。
 かつて、そこには楼門があり、下乗石が置かれ、木の鳥居が立っていたという。
稲荷川のせせらぎをわたり、左手に古くから白糸の滝の名で知られる小さな滝を見ながら、少し石段をのぼると、平坦な地に出る。右手草むらになっている辺りが、平安時代から江戸の初期にかけて真言宗密教の道場があったところで、「日光責め」で知られる「強飯式」も、じつはここから発祥したという。辺りにいわくありげな岩があったり祠があったりする。
いまは痕跡すら残らないが、唱和する読経の声が低く、重く、繁みの奥から聞こえてきそうでさえある。
前方に石の鳥居があらわれ、その後ろに楼門が見え隠れする。老い杉が林立し、木立がいちだんと密度をます。
鳥居に近づくと、参拝客が鳥居にむけて、石を投げつけているのを目撃する。見れば、鳥居の額束の真ん中に穴があいている。
聞けば、その穴に小石を三つ投げてうまく通れば願い事がかなうという言い伝えがあるらしい。
運試しの鳥居というニックネームがついているくらいだから、いにしえより、参拝客に親しまれた鳥居なのだろう。
 徳川三代、家光将軍の遺臣である梶定良という人物が寄進したものというが、遊び心のある人物像がしのばれる。
重層入母屋造り、漆塗りの堂々とした楼門をくぐると、いよいよ滝尾神社である。入母屋造りの拝殿があり、三間社流れ造りの本殿とつづく。いずれも江戸期のものである。
 いかにも行き詰めたところに鎮座する社の趣がある。紅葉した木々にかこまれて、朱の社殿がいちだんと神々しく映る。
弘仁十一年(820)、弘法大師がこの地に修行したおりに創建したと言い伝えられる神社である。
 古来から、山岳信仰の霊地として、二荒山神社が男体山の男神を祀るのに対し、滝尾神社は北方にある女峰山と赤薙山(二つの山を結ぶ鞍部の凹形)の二上山の女神(田心姫命)を祀る神社として信仰されたのであった。
 その後、二荒山神社の別宮として新宮(現、二荒山神社)、本宮(神社)とともに日光三社権現のひとつとされるが、それはのちの世になってのことだ。
かつて、神仏混交の時代には、「院々僧坊およそ五百坊」あったとされるほど栄えたとされる神域は、いまはその面影もなく、ただひっそりと静まりかえっているばかりである。 
 本殿裏手にある三本杉からなる神木のある地に足を踏み入れてみた。弘法大師が修行のおり、天つ神であるところの田心姫命(天照大神の子)の降下があったとされる由緒ある伝説の地である。
 そこは滝尾神社の神域のなかでも、もっとも神聖な場所とされ、石柵のなかに老い杉が三本立っている。また、樹間越しに女峰山が遠望できることから、女峰山の遥拝地としても特別な場所とされた。
 空は明るく晴れわたっているが、陽をさえぎる樹林の奥深く眼をこらしてみると、なにやら目に見えない妖気のようなものが立ち込めている気配がする。それはかすかに動くようで動かない。
 ふいに私の身体が重くなったような気がしたのである。





英彦山-修験道時代の院坊跡が残る-

2012-10-23 12:57:25 | 歴史
 福岡県と大分県の県境に英彦山という名の山があるという。その山が以前から気になっていた。修験の山として古来から霊山として崇められてきた山であると聞けばなおさらのことである。一度は訪れたいと思っていた。  
   * * * 
 英彦山川の渓流ぞいの山里には、すでに桜の花が咲きはじめている。東京の開花予想はまだ一週間も先であるというのに、やはり山中とはいえ、九州は暖かいのだろうか。
 JR日田英彦山線英彦山駅から発したバスはのどかな田園風景の中を数十分ほど走ると、英彦山登拝の出発点にあたる銅の鳥居前に着いた。
バスをおり、目の前を仰ぎ見ると、木立を背にして大手を広げたような黒光りする銅製の鳥居が立ちはだかっている。それは私を出迎えているようでもあり、拒んでいるようにも見える。
修験道の霊山にふさわしく、森厳な森につつまれたふる寂びた雰囲気が立ちこめている。期待に違わない神域のたたずまいである。おのずと気持ちが引きしまる。
 さっそく石段をのぼり、鳥居に近づく。堂々たる二本柱である。九州地方の鳥居の柱はおおむね太いものが多い。地方的特色といえるものなのだろうが、質実剛健の気がみなぎっている。
見上げると、英彦山と記された額束がかかっている。霊元上皇の勅額であるという。躍動感のある字体がなかなか味わい深い。
 享保十四年(1729)、霊元上皇の院宣により、「英」の文字を冠されて「英彦山」と霊験もあらたかな文字に改められたとされる由緒ある勅額である。
 英彦山は古くは「日子山」と書いたという。日子とは、天照大神の御子、天忍穂耳命を祀る山であるからで、それが嵯峨天皇の時代に「彦山」という二文字にあらためられた。空海や最澄が真言宗、天台宗をひろめた時代である。
鳥居の向こうにゆるやかな上りになる参道が真っすぐに連なっている。その石畳の敷かれた参道は、この先、奉幣殿まで一キロほどつづいている。かつて八百坊にもおよぶ院坊が建ち並んでいた参道である。
 参道をゆくほどに、それら院坊の跡があらわれる。なかに、かつての院坊の原型をとどめる建物が保存されていた。それは財蔵坊とよばれる院坊で、土壁をめぐらせた茅葺き屋根の建物が垣根の奥にひっそりと建っていた。院坊というのは、先達(山伏)の住まいとして使われたもので、同時に参拝人の宿泊場所になった建物である。
 家屋は、玄関を入ると三室ほどの客間があり、その奥に祭壇がつくられている。それに居住用の部屋が棟つづきにつながっている。鍵屋とよばれる院坊特有のそのつくりは、ちょうど東北地方に残る曲屋を思わせる。修験道さかんな頃には多くの参拝者でにぎわったのだろうが、いまは人気もなく、深閑と静まりかえっている。 
 それにしても、こうした院坊が参道を埋めつくすように連なっていたのである。かつての殷賑ぶりは、今そこに身を置いてみても想像できないほどである。
やわらかな日差しが参道に注いでいる。小鳥の囀りが聞こえてくる。前方はるか彼方になだらかな起伏を見せる山並みが見える。英彦山はあの山並みの中にあるのだろうか。
花の季節には桜に彩られるというこの参道には別名桜の馬場の名があるという。 
 歩くほどに、わけもなく和んだ気分になってくる。不思議なことである。おだやかなたたずまいのただ中にいるせいだろうか。身も心も周囲の自然にすっかり和しているという状態である。
 時折、よく手入れされた植え込みのある、石垣でかこわれた、人の住まう家屋があらわれたりする。
 院坊としての役割は終えたが、かつて院坊を営んだ先達の子孫が跡をついでいるのだろうか。
参道脇に郵便局があったり、小学校があったりするのがおもしろい。このあたりひとつの集落をなしているようである。
ほどなく苔むした石の鳥居があらわれる。そこは英彦山神宮下という地で、ここから歩きはじめる人もいるらしい。バスがここまで来ているのである。
 質素なつくりのみやげ店が数軒あり、天狗の面や土地の名産を並べている。茶色の犬が大儀そうに店の前に寝そべっている。行きずりの参拝者がしばしば餌を与えるのだろうか。修行の山にはふさわしくないほど、はちきれそうに肥え太っている。
 日がな一日、目の前を通り過ぎる参詣者をどんな気持ちで眺めているのだろうか、とあらぬことを考えながら、その脇を通りすぎる。時計を見ると九時を少し過ぎている。これから山頂を目指すには、ちょうど頃合いのよい時刻かも知れない。
 気持ちをあらたにして東の方一直線に連なる石段を一歩一歩踏みしめてゆく。
 左右に林立する老杉。苔むした石畳。時折、古びた灯籠が立っているのを目にする。木立を通して朝の光がさしこんでくる。周囲を見わたしつつ、前方に目を注ぎながら石段をのぼってゆく。
 泉蔵坊、秀学院坊などと記す院坊跡を記録する立て札が参道の左右に散見される。
 苔のはえた古びた石垣が残り、無秩序に雑木の生い繁る、いかにも荒れ果てた風情の院坊跡があるかと思えば、現在も人が生活していると思われる手入れされた院坊跡もある。 
 ふと、諸行無常という言葉が頭の中をよぎる。とどまることのない時の流れのなかで、ひとつとして同じ形でとどまるものはない。それが時の定めとはいえ、目の前にさらされる歴史の痕跡を目にすると、言い知れない無常感が胸にせまってくる。
 いま、私がたどっている参道も同じである。そこをどれだけの人々が行き来したことだろうかと、ふと思いをめぐらすだけでも、万感こみあげてくるものがある。無常感とはこうした時にわきあがるもののようである。
 杉の樹林帯を切り開き、視界の果てまで真っすぐに整然と連なる石畳の参道。そのリズム感が美しい。じつに快い眺めである。
石段にやや傾斜がまし、前方、木立の奥に社殿の屋根が見え隠れする。そのあたりから、朝の冷気をふるわせて法螺貝の音が低く高く切れ切れに聞こえてくる。
* * *
 奉幣殿は石畳の参道がつきたその先にあった。山中の一隅に平らな空間がひらけ、そこに気品をみなぎらせた建物が建っている。
 淡い朱をまぶしたような柿葺きの大屋根が、四囲の緑濃い樹林につつまれて、朝の陽に映えてすがすがしい。
 小ぶりながら、千鳥破風をそなえた入母屋造りの建物は豪壮の気がただよっている。
 その桃山風の建物は、元和二年(1616)、小倉藩主細川越中守忠興公が寄進したものという。
細川越中守忠興公といえば、思い起こすのは、公の夫人玉のことである。彼女は明智光秀の娘であったが、キリスト教に入信し、ガラシャと名乗る。
 本能寺の変のあと、夫が秀吉に味方したために一時離縁されるが、のち復縁。関ガ原の戦いの折には、忠興が徳川方について出陣したため、ガラシャ夫人は豊臣方の人質として大坂城に入城することを強要される。が、彼女はそれを拒み、みずからの命を断った。
 そのことがのちに、細川家の徳川家康に対する忠誠心を示すものとして評価され、お家安泰につながったのである。
 忠興公が奉幣殿を寄進したのは、それから十六年後のことである。同時に千二百石もの知行を寄進してもいる。
 当時、英彦山は秀吉の九州平定で、すべての神領を没収され壊滅状態にあった。そうした事態を憂えての寄進であったのだろう。      
 * * *          
 玉砂利の敷きつめられた広い庭に、白装束に身をつつんだ山伏姿の一団が集合している。彼らはこれから英彦山登拝を試みるのだろう。士気を高める意図もあろうか、奉幣殿の前で法螺貝を吹き鳴らし、今まさに般若心経を高らかに読唱している。この地が修験の山であることをあらためて知らされる光景である。
 私も先を急がねばならない。
 まずは御神水を水筒にたくわえる。かつては入峰の際にかならずたずさえたとされる御神水である。その霊水は、境内すみにある天之水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る祠のわきからわき出る岩清水である。
 山伏姿の一団が動きはじめた。そのあとにしたがうように私も石の鳥居をくぐる。
六根清浄の唱和が山中にこだまし、清々しい気分がみなぎる。
 すぐに急な石段になる。風がわたるたびに、杉の梢が互いにぶつかりあうのだろうか、ぎしぎしと生身のある音を立てる。
 石段が消えると、こんどは大きなごろ石の道にかわる。足を大きく持ち上げながらの登りである。すでに鼓動がはげしくうちはじめている。幾度かくりかえされる六根清浄の唱和。山伏姿の一団の中に女性もいるようだ。なかに黄色い声がまじる。
 冷たい風が頬をなでてすぎる。杉林の奥でチロチロと囀る小鳥の声が快い。参道を歩いていると、時折、大きく湾曲しながら枝を伸ばす怪異な姿をした巨木に出会う。これまた、霊山に似つかわしい光景である。
 道端に小さな石仏を祀る祠を見かける。風雪にさらされて石仏はすっかり摩滅しているが、享保年間建立の文字がきざまれているのがかすかに読みとれる。
 さらに行くと、見晴らしのよい台地があらわれ、その上に小さな社殿が立っていた。
 見るからに真新しい社殿で、それが中宮にあたる中津宮だった。市杵島姫命をはじめとする宗像三女神を祭神とするという。
真新しく見えたのは、平成二年にこの地を襲った台風で倒壊し、のちに再建されたためである。
 そういえばあちこちに倒木が目立つ。山の斜面に沿って数え切れないほどの樹木がなぎ倒され横たわっている。
 ものすごいエネルギーが山の斜面にくわわったことを物語っている。それはあたかも山の神が荒れ狂ったあとのようにも思える。
 切りこまれたような谷を右手に見ながらの歩行である。そこは稚児落としと名づけられた古蹟である。
鍋島藩のさる殿様が、幼少のみぎり、英彦山登拝を試みたおり、ここで足を滑らせ転落したが、奇跡的に一命を取りとめたのだという。
 事実であるかどうかは定かではないが、この奇跡譚は、霊験あらたかな英彦山権現の働きを世にひろめるために大いに喧伝されたのである。
英彦山はいま春霞の中にある。乳白色した大気があたりにじっと動くともなくただよっている。時折、小鳥の澄んだ鳴き声が樹林の奥から聞こえてくる。 
       * * *
つぎに見たのは関銭の跡だった。解説板が立っている。それによると、かつて、ここに木戸がつくられていて、登山者から入山料を徴収したという。
 秀吉によって神領を没収された英彦山が、財政難を乗り切ろうと考えだした入山料徴収であった。
そこはまた下乗の場所でもあった。英彦山登拝に訪れた大名や高位の人々も、ここからは馬や駕籠を降りなければならなかったのである。「下乗」と刻まれた苔むした石碑が大きな岩の上にひっそりと立っている。周囲の展望がひらけ、急にあたりが明るさをましたようである。頂上が近いことを知らせてくれる。
 いよいよ神域の奥所に足を踏み入れることになる。そう思うと、厳粛な気持ちに満たされる。
 前方に平らな空間がひらけ、小さな社があらわれる。小さいながらも素木づくりの、骨格のどっしりとした社である。
 それは産霊神社とよばれる社であった。英彦山神宮の摂社にあたり、聖武天皇の勅願により、天平十二年に建立されたものという。となると、かなり歴史のあるものになる。
ようやくのことで山頂に取りついた安堵感がわきあがる。上宮のある山頂は、もう指呼の間にある。
明るい日差しのなかに立つ木の鳥居をくぐり、上宮にいたる石段を踏みしめる。
 熊笹におおわれた山の斜面に、むしり取られ、なぎ倒された樹木や、葉を失った枯木のような潅木がまばらに立っている。まるでアブストラクトの絵を見るような景観である。 
 最後の登りになるであろう石段がうねうねと頂上にむかって延びている。一歩一歩登るほどに汗がどっとあふれ出てくる。
中岳の山頂に立つ上宮にたどり着いたのは、ちょうど昼少し前だった。石段をもうけた、周囲が板張りの、質素な二棟からなる社殿が姿をあらわした。
 今見る社殿がつくられたのは天保十三年(1842)のことである、と記録にある。昭和六年に大修理がなされたとはいえ時代をへた建造物であることに変わりがない。
 後殿の屋根に千木が見える。平入りの拝殿の入口に引き戸がついているのは風雪に配慮したつくりなのだろう。
 引き戸を開けて、うす暗い建物の奥にある祭壇の前に立つ。柏手を打ち、頭をたれる。
 しじまの中での礼拝は、なぜか、見えざる神と直接相対しているような気分になる。
畏れ多いものに組み伏せられているような心的状態になって、思わず身をかたくする。       
   * * *
 山頂には広い空間がひらけていた。弁当をひろげてくつろぐ、登攀を祝福し合う人々の姿があちらこちらにあった。
 さんさんと陽の降りそそぐ山頂からは四方の眺めがよかった。空の下をふちどる峰々が遠霞みにけむって藍色にそまっている。
 眺めを堪能しているうちにも、強い寒気をふくんだ風が、今まで火照っていた身体を急速に冷やしてゆく。それでも、寒気のなかで達成感にひたる気分は最高であった。 
 上宮のむこうに小高い丘があった。そこに登ると小さな鳥居を配したこれも小さな石の祠が鎮座していた。
 それは、小さいながらも広大な宇宙の気を一点に凝縮しているように思える石の祠であった。





厳島-虚実が融合する聖なる島

2012-08-23 12:15:20 | 歴史
 
 船が島に近づくとともに、前方に、鮮やかな朱色を海面に映しだす大鳥居とその奥に控える華麗な厳島神社の社殿が見えてくる。
船はやがて方向を変え、大鳥居を右手にしながら進んでゆく。さざ波の立つ海面からの光を浴びて、鳥居の下半部がほのかに明らんで見える。
 神域に近づくというよりか、華やかな過去の記憶が熟成された空間世界に足を踏み入れるような、そんな期待感あふれる厳島行きであった。
* * *
船が厳島(宮島)の桟橋に着くと、さきほど見えていた大鳥居は姿を消してしまっていた。
 さすが年間三百万人が訪れるという大観光地である。桟橋そばの広場にはあふれんばかりの観光客の姿があった。彼らはみな一様に目の前にある石の鳥居をくぐり、導かれように神社のある方角めざし歩きだしている。
 その中を放し飼いされた鹿が餌を求めてあちらこちら歩きまわっている。
 鹿が神の使いとして大事にされるようになったのはいつの頃かは定かではないが、いかにも神域にふさわしい光景である。
 いま私が歩いている海岸沿いの通りは、昔ながらの門前町風情が色濃くただよう参道である。地形にあわせるようにゆったりと曲がりながら延びる通りの左右には、潮の香あふれる牡蛎を焼く食堂があるかと思えば、名物の紅葉饅頭や杓子を売る店があったりする。 
 いずれも昔から同じような商いをつづけている店なのだろう。古風な看板に長い歴史が刻まれているのがうかがえる。 
 これから厳島神社に詣でる人、すでに参拝を済ませてもどる人でせまい参道はごったがえしている。
 門前町の賑わいというものは、どこもじつに世俗的であるものだが、それがかえって聖域の聖性を高める手助けをしているから不思議である。
 人の波に押されながら先を行くと、やがて左右の家並みがきれ、ふいに、先ほど海上から見た大鳥居が視界のひらけた前方にあらわれる。
いったんは見えていた大鳥居が、門前町の街路を歩いている間はその姿を隠し、それがふたたび、しかも突然姿をあらわしたのである。その絶妙なタイミングに、私は一瞬、固唾をのんだ。
 青い海原に浮かぶ優美な大鳥居。さきほど眺め見たとはまたちがった、どっしりとした印象の大鳥居がそこに立っている。一度は間近に見たいと思っていた大鳥居である。
 海の蒼さを計算にいれた朱色に塗りこまれた大鳥居は、周囲の風景に見事に調和している。いかにも厳島神社の玄関口にふさわしい威厳をたたえている。
 高さ十六メートル強、四脚の両部鳥居という形式をそのままに、今も昔も変わらぬ姿で立ちつづける大鳥居だが、じつは、たび重なる受難に遭遇しているという。
 風水害に見舞われ、一度ならず倒壊。現在見る鳥居は、明治八年に再建されたもので、創建以来、八代目にあたるという。 
 そうしたことがまるでなかったかのように、大鳥居は四脚を水の中に沈めて静まりかえっている。
 聞くところによると、鳥居の柱は、海底に埋めこまれていないらしい。みずからの重量で立っているのだという。本当のことだろうかと疑われるが、実際、大鳥居は干潮時であっても倒れることがないのである。
それにしても潮の引けた砂浜に立つ大鳥居ほど所在ない印象を与えるものはない。やはり水の上にあってこそ優美さが際立つようにつくられているのであろう。
ふと夢想してみる。満潮時、それも満月の晩である。小船を漕ぎ出だし、朱色を浮かびあがらせる大鳥居をくぐる。鳥居の足元をひたひたと波が打ち寄せている。
 岸辺を見やれば、闇の中に常夜燈がぼんやりと灯っている。ライトアップされた社殿がしだいに前方に近づいてくる。社殿の方角からゆるやかに雅楽の調べが流れてくる。
* * *
 が、それは幻聴ではなかった。たしかに妙なる雅楽の調べが聞こえてくる。その音色に誘われるように先をゆくと、やがて目の前に朱色に明らんだ厳島神社の社殿が見えてきた。一瞬、華やいだ世界に誘いこまれたような気分になる。それは非現実のハレの舞台に足を踏み入れた時の、あの高揚した気分にも似たものである。 
 いま見る寝殿づくりの社殿は平清盛が造営した時以来の様式を伝える建築物であるという。が、じっさいは幾度かの火災や風水害にあい、そのつど再建され、増築もされ、今日にいたっている建物なのである。
水の上に浮かぶ朱に彩られた社殿。視覚の変化を巧妙に計算に入れたその配置がさすがだと思う。単純にして複雑。がらんどうのようであって濃密につまった一大建造物が目の前にある。
 一見するとおぼつかない存在に見える社殿ではあるが、水の上にあることで、かえって、その存在感を確固としたものにしているようにも見える。
 さざ波の反射光を朱色の柱に映し出すたたずまいは、平安の時代の華麗さをいまに伝えるものなのだろう。
独特の雰囲気がたちこめる神殿内に足を踏み入れてみる。
 いま、独特の雰囲気といったが、それはこの建物のどこから醸し出されるものなのだろうか。建築物の構造から印象されるものだろうか。はたまた、朱色に塗りこめられ鮮やかな色彩のためか。
 回廊をたどり、神殿奥域の本社にいたるには屈折したいくつかの屋根付きの回廊をめぐらなければならない。 
 まず南東に進み客神社の前をぬけ、突き当たると右に折れ、さらに右折して、次は左折するといった具合に。 
 しかも、複雑にめぐらされた、床板張りのその長い回廊を進むほどに、目の前にあらわれる景観が様変わりする。 
 東側の回廊からは右手に大鳥居の浮かぶ海が前方に見える。さらに行くと、こんどは東の空を限るように立つ五重塔が丘の上に望める。
 その変化のさまは、新鮮であり、発見もあった。あたかも迷宮のなかをさまよう感さえある。
 このように回廊は、移動することによって生じる視覚の変化を充分に考慮して設計されていることがわかる。
 それはまた、神殿に奥行き感を醸し出す効果もつくり出している。
 建物自体それほど広壮とも思われないのに、床と屋根と左右に林立する朱の柱とに囲まれた空間をたどって行くにほどに、しだいに、いわく言い難い奥行きのある世界に吸い込まれてゆく気分になるのである。
 聖域は近づきがたければそれだけ神秘性が高まる、という定理を憎いほど計算に入れたつくりであることが見てとれる。
この奥行感は、本社本殿前に設けられた高舞台から灯明の灯かりがほのかにゆらぐ本社内陣を眺め見た時も同様だった。
 板敷きの床があり、左右に朱色の柱が並び立つ-そこにも、せまい空間をより奥行きのある空間に見せる仕掛けがあった。
 この奥行感は幾層にもかさなりあいながら社殿全体にゆきわたっているように思われた。     * * *
 厳島神社のハレの中心ともいうべき高舞台に立ってみた。うす暗い本社内陣とは対照的に、その前方に周囲より一段高く仕立てられた高舞台は明るい日差しのなかにあった。ハレの日、そこでは神にささげる舞楽が奉納されるという。舞楽が舞われるその時、周囲の回廊はにわかの観客席になり、人々はそこから雅やかな舞楽を観賞することになる。
 そして、その高舞台の先に、あたかも飛鳥の滑走路のように海に突き出ているのが平舞台である。さらに、その向こうには、明るい日差しを受けて海の中に浮かび上がる大鳥居が望める。
 旧暦六月十七日、この海上を舞台にして厳島神社最大の祭りといわれる管弦祭が執り行われるという。
 この日、厳島神社から運びだされた神霊が御座船に乗せられ、外宮である御前神社に遷幸する。渡御に際して、五色のまん幕や提灯に彩られた御座船では、笛や太鼓をまじえた雅楽が優雅に演奏される。
 厳粛ななかに優雅な雰囲気を盛り上げる祭りとして知られるものだが、瞑目すると、幻影の中に華やかな平安絵巻が浮かび上がるようである。
 私は、大鳥居と本社とを結ぶ軸線上に立って、あらためて社殿の背後にせまる弥山を仰ぎみた。
 なるほど、大鳥居と社殿と弥山とが一直線上に並んでいる。それはたしかに意味をもった配置であるように思われた。
 厳島神社は自然のなかにあってこそ、その存在感をたしかなものにしている、という思いは、大鳥居-社殿-弥山と貫かれた軸線上から神社全体を眺め見るとき、いっそうはっきりとする。
 前面に大鳥居を置き、しかも、適度の間隔をおいて、その背後に、湾曲した地形にそうように東西に翼をひろげた華麗な社殿を配置させる。さらに、それを包みこむように、海岸から急勾配に競り上がる緑濃い弥山が控えている。
 こうして見ると、やはり大鳥居-社殿-弥山を結ぶ軸線の原点になっているのが弥山であることは動かしがたい。
 それでなくとも、弥山は厳島神社が創建される以前から地主神を祀る霊峰とされた地であった。
* * *
 厳島という神域の奥をきわめるべく、私は弥山の山域に分け入ることにした。     
 厳島神社の裏手、紅葉谷川をさかのぼったところにある紅葉谷公園は、折しも、色とりどりに葉を染めぬいた楓紅葉が鮮やかだった。それを目当てにやって来た見物客で園内は賑わっていた。
弥山の山上、獅子岩に通じるロープウエイはその公園の一角から出ている。
 ロープウエイは山腹をはように登って行くが、高度をあげるほどに眼下に瀬戸内の青い海原が開けてくる。
 目を転じれば遠く四国の山々も望める。標高五百数十メートルとはいえ、高度感はなかなかのものがある。
 終着駅の獅子岩に降り立つと、下界とはちがった清涼な風が吹きわたっていた。 
 弥山は古来から山岳信仰の地であった。それを伝える遺跡がいまも山中に残るというが、それらの寺堂をたどり、弥山の山気に触れるのが、いまも弥山探勝の目的になっている。 
 低山とはいえ、栂の原始林におおわれる弥山は深山の気が濃い。うっそうとし樹林の中に通じる山道を上り下りしていると、途方もなく山奥い山中に迷いこんだような錯覚にとらわれる。
 そうしたなか、突然、野生の鹿が木立の中から姿をあらわしたりする。時によっては猿や猪も姿を見せることがあるらしい。
はじめはハイキング気分で分け入った山中であったが、行くほどに、しだいに巨岩が露出し、足元がおぼつかなくなってくる。
 弥山七不思議というものがある、という。この山の神秘性をいっそう際立だたせる伝承であるが、これも弥山信仰を深める一助になっているのだろう。
いわく、消えずの灯、拍子木の音、錫杖の梅、曼陀羅岩、しぐれ桜、龍灯の杉、干満岩。その中にはいまや存在しないものもあるが、いずれも弥山を開山したと伝わる弘法大師にかかわるものが多い。
 弥山本堂近くにある霊火堂には、大師が修行をした折に焚いたという護摩の火が、いまも消えずに燃えつづけている。
その伝承が真かどうかをたしかめる術はないが、長い歴史の流れの中で育まれた言い伝えであることにはちがいない。  
 のちになって、この地は修験道の道場として注目されるようになるのだが、それは、鎌倉時代末以降のことであるらしい。たしかに山頂近くに散見される巨岩怪石は修験の道場にふさわしい趣がある。
 古来、その形の良さを称えられ、神霊が棲む山と人々に信じられて以来、弥山は「神の山」として崇められつづけた。
 この原始信仰に端を発した弥山信仰は、のちに弥山北麓に厳島神社が創建されるにおよんで、しだいに厳島信仰へと転化していった。 さらに厳島神社の社格があがることで、祭神も自然神から人格神へと成長し、瀬戸内の守護神である神々が祀られるようになる。
 それはまた、厳島信仰の現世利益化を意味した。のちの修験山伏の活動に支えられて、厳島にはたくさんの庶民が現世利益を求めて訪れるようになるのである。
 ちなみに、文献上にはじめて厳島神社があらわれるのは弘仁二年(811)のこととされる。 
  * * *
 山頂に近づくにつれて巨岩がむきだしになる。景観が一変するのである。それは、あたかも異界の趣といえるものであった。 
  近世に書かれた道中記はいう。
「麓に滝の御前をぬかづき奉り十八丁の険路をのぼる。此山は三鬼神おはしまして仮令にも不敬不浄の人登山なりがたし」と。
ある時は岩をくぐり、岩を巻き、幾重にも屈折しながら上へ上へと連なる山道は、やがて山頂に達することでついに果てた。
 山頂に立つと、霞にかすんだ瀬戸内の大海原が、黒ずんだ島影を点在させながら、眼下に穏やかにひろがっているのが見わたせた。
 ひんやりした清涼な空気が気持ちいい。ほてった身体が急速に冷やされてゆく。
 ふいに一陣の風が吹きわたると、どこからともなく鐘の音が響きわたってきた。幻聴ではなかった。たしかに寺の鐘だった。 
 それはまるで天上の彼方から流れおちてくるような、厳かで、かつ、久遠の響きを宿らせる鐘の音のように思われた。








霊山ー 幻の山岳寺院の跡を求めて

2012-07-23 17:17:40 | 歴史
 かつて山中に堂塔伽藍が建ち並び、たくさんの信者が訪れたことがあったという霊山。そんな秘められた事実を知れば知るほど、私は霊山への興味をそそられた。
* * *
 霊山は福島市の東方、相馬市に通じる国道115号線沿いにある。福島市からの交通機関としては福島交通のバスがあるものの、そのバス便も日に数本行きかう程度で、霊山はお世辞にも便利がよいとはいえないところに位置する。
 バスは福島市の町中をぬけると、すぐにひろい田園地帯を走る。刈田の中に点在する人家、その周囲にたわわに実る柿の木が見え隠れしている。
 そうした深まりゆく秋の風景を満喫しているうちに、バスは、やがて、阿武隈川の支流である広瀬川に沿う街道を走るようになる。
 山気の濃くなった風景の中を、ある時は右に、また、ある時は左にと曲がりくねりながら、ひたすら東をめざしてゆく。
 小一時間ほどたっただろうか、前方に蛾蛾たる山並みを見るようになったところでバスを降りた。
 山にはそれぞれ雰囲気というものがある。乾いた山、湿った山、それに、樹相に関係するのだろう。色の濃い山、薄い山とさまざまな顔をもっている。
 今、私が目の前にする霊山は、先入観もあるかも知れないが、樹相の濃い、湿った、霊気に満ちた山を感じさせる。これから分け入るにふさわしい雰囲気に満ちあふれている。おのずと期待がふくらむ。
 澄みわたった秋の大気を大きく胸に吸いこんでからさっそく山道を歩きはじめる。紅葉の見頃であるにもかかわらず、平日であるためか、人影が少ないことにほっとする。 
 山はおおむね初めがきつい登りになることが多い。したがって、最初の取り付きで結構体力を消耗することになる。が、今、登ろうとする霊山にはそれがない。ゆるやかな勾配の登り道を行くほどに、しだいに山中の気配が濃くなるという具合なのである。
かつて、京都の鞍馬山を訪ねたことがある。山門をくぐり、緑濃い寺の境内に足を踏み入れた時に感じたあの時の厳粛な気分が、今、よみがえってくる。ここ霊山も同じような雰囲気がただよう山である。 
 ふいに、人声がわきあがる。見ると、白装束姿の集団がはるか前方を登ってゆく。
 子供の黄色い声がする。母親らしき女性もいる。賑やかにお喋りしながら登っている。ちいさな白装束姿がかわいらしい。
近づいて聞いてみると、ここからそれほど遠くない、ある寺の講中の集まりだという。法螺貝を手にする、身体のがっちりした、野太い声の先導者が、寺の住職らしい。歩きながら、あるいは、時折、立ち止まっては、この山の霊験あらたかなことを、いかにも僧職についている者らしい口調で講釈している。
白装束のグループにつき従うように登るほどに、やがて、断崖絶壁が見えてきた。断崖上はせまい台地になっているのだが、それが見るからに危なげに迫り出している。
 そこは天狗の相撲場とよばれる、霊山の全容を眺め渡すにふさわしい場所だった。
天狗の相撲場の由来について住職が説明をはじめる。
 「天狗が相撲を取るにしては、ずいぶんとせまい場所だなあ」と男の子のひとりがつぶやく。「だいいち危ないじゃあないの」と女の子が言う。そう言いながら、恐る恐る深い谷を眺めおろしている。
 高所恐怖症気味の私はこうした場所はおおむね敬遠である。身体が吸い込まれてゆくような脅迫感にとらわれるからだ。
 修験の山では、しばしばこうした場所は、肝を鍛える場所として使われるものだが、霊山ではこれからもこうした蛾々たる様相を呈する景観をしばしば目することになる。
 高い山でないにもかかわらず、懐が深い。あらわに剥き出した岩肌。怪異な岩峰の林立。 しかも、山域が変化に富んでいる。予期しない時に突然目の前にあらわれる奇観に驚かされることたびたびだった。その意外性には思わずあっと声を上げてしまうことがあった。 
 かつて、そこに物見の砦があったとされる甲岩とよばれる場所に立った時も、なだれ落ちるような断崖を目の前にして、私は思わず息を呑んだものだ。 
 この山が修験の山として栄えたのもこうした自然の特性の故なのだろう、と納得できるものがあった。
     * * *
 じつは、修験の山としての霊山には、もうひとつ別の顔がある。それは、この地に城塞があった、という話である。
 伝えられる古文書によれば、建武四年(1337)一月、陸奥の国司であった北畠顕家が、多賀城陥落ののち、義良親王(後醍醐天皇のあとを継いだ、のちの後村上天皇)を奉じて入山、この地に城塞を築いたという。
時代は南北朝の時代である。
 南北朝時代の動乱の様相を著した軍記物語『太平記』にも、その時の様子がつぎのように記されている。
「顕家卿ニ付随フ郎従、皆落失テ勢微々ニ成シカバ、わずかに伊達郡霊山ノ城一ヲ守テ、有モ無ガ如ニテゾヲハシケル」 
 北朝側の足利勢の攻撃にあい、多賀城を落ちのびた顕家一行は、ようやくのことでここ霊山にたどり着いたのであった。そして、顕家はこの地に城塞を築き、仮の国司(政庁)を置いたというのである。 
 北畠顕家は、あの『神皇正統記』を記した南朝の廷臣、北畠親房の子である。父親房とともに、南朝方の柱石となって南朝をささえたことで知られている人物である。この時、顕家、弱冠二十歳。
 霊山に居をかまえた顕家は、ここで上洛の機をうかがった。そして数カ月後、その機をとらえ、京に向かって旅立った。顕家が去ったあとも、城塞は残り、以後、城が陥落するまでの十年間というもの、この地はひとときも平穏な時というものがなかったらしい。戦いに明け暮れる日々であったのである。
現在、山頂近くに、かつての城塞跡を示す碑が立っていて、そこに往時の城塞を復元した俯瞰図が掲げられてある。
 それによれば、山中に築かれた城塞とはいえ、その規模はなかなかのものであったことをうかがい知ることができる。
 城塞は東西に約四百五十メートル、南北に約一キロという、地形を利用した細長い敷地からなり、それを囲むように高さ約一・五メートルの土塁が築かれていた。そして、本丸にあたる詰めの城と呼ばれる中核部分が巨大な岩盤からなる山上のわずかな平地に堅固につくられてあった。 
 さらに、その城塞を守備する物見が、東西南北の蛾々たる岩上に置かれていた。それは、なだれ落ちるような急峻な断崖の岩上に今も痕跡を残している。
  * * *
北畠顕家が、多賀城国府陥落のあと、この地に立て籠もったのは、ここで足利方の軍勢と一大決戦を構えるためであった。城塞はそのような意図のもとに構築されたのである。
 戦いは、顕家がここに急ごしらえの城塞を築いたあとすぐにあった。
 迫り来る足利軍を前にして、顕家指揮する南朝軍は果敢に戦った。戦いは一進一退、回を重ねるごとに、しだいに戦闘は激しくなっていった。ある時は霊山をおりての戦いになった。
そうこうすううちに、顕家の耳に、援軍来るの朗報が届くのである。
 この時の様子を、『太平記』は、「顕家卿時ヲ得タリト悦テ、回文ヲ以テ便宜ノ輩ヲ催サルルニ、結城上野入道々忠ヲ始トシテ、伊達、信夫、南部、下山六千余騎加ル。国司則其勢ヲ併テ三万余騎、白川ノ関ヘ打越給ニ、奥州五十四郡ノ勢共、多分ハセ付テ、程ナク十万余騎に成リケリ」
十万余騎という援軍の規模は、いささか誇大に記されているとはいうものの、顕家にとって、それは起死回生の一大チャンスだった。
 こののち、勢いを得た顕家軍は、霊山を脱して、後醍醐帝の御意にしたがって、念願の足利氏討伐のための上洛を果たすことになる。建武四年八月のことだった。霊山に居を構えてから、わずか半年ほどのちのことである。 
 ところで、顕家が去ったあとの霊山城は、その後どうなったのだろうか。
 城は、それからも南朝方の一拠点として、かろうじて城塞としての役割を果たしたという。が、度重なる足利軍との戦闘なかで、しだいに衰退し、ついに、貞和三年(1347)七月、落城。灰燼に帰したのだった。
* * * 
 それにしても、顕家がこの地を城塞構築にふさわしい場所と決めたのには、何か根拠があったのだろうか。
城塞を築くに適当な場所はほかにもあったはずである。ただ地の利がよい、という理由で選定されたとは思えない。
 実は、霊山には、平安の時代につくられた寺院建築の大伽藍が存在していたのである。寺勢は衰えていたとはいえ、山上伽藍は健在だった。それをリニューアルしたのが霊山城だった。つまり、まったくのさら地につくられた城塞ではなかったわけだ。
敵の影を背後に感じながら、顕家は、時間のないなかで、急ごしらえの砦をつくらねばならならなかった。そこで頭に浮かんだ場所のひとつに霊山があった。
山中にある寺院群がかっこうの防衛の拠点になると思えたのは当然のことだった。
その寺院群の規模とははつぎのようなものだった。
 山頂部分に本坊。ほかに、寺域に薬師堂、阿弥陀堂、大日堂、勢至堂のほか、三重塔、仁王門、鐘楼、護摩堂などの堂宇が建ち並んでいた。また、北方に山王社を祀り、さらに周辺に寺屋敷、東寺屋敷を配していた。大伽藍は霊山の山域全体にわたっていたのである。 
 記録によれば、最盛時には山麓に三千六百僧坊を擁するほどの一大道場をなしていたという。寺領も伊達、宇多、刈田の三郡におよぶほどの広大なものだった。寺院の大伽藍がつくられたのは、出土した遺跡などから推定して十世紀頃のことであったらしい。
 しかも、今に残る『霊山寺縁起』によれば、開山は貞観元年(859)で、僧円仁(慈覚大師)によって開かれたと記録されているので、大伽藍がつくられる以前に、すでにささやかな堂宇(霊山寺)が建てられていたことになる。
 ちなみに、円仁(794~864)は、比叡山を開いた最澄の弟子である。円仁は下野、今の栃木県生まれであるから、この地については少なからず土地勘があったといえよう。 最澄が延暦寺を建立したのが延暦七年(788)だから、霊山が開山したのは、それから七十一年後のことになる。
 円仁については、最澄没後の比叡山延暦寺の山内抗争に嫌気がさして、比叡山をおり、その後、三年余りの間、信州、関東、奥州を転々とし、布教に力をつくしたとされる。
 この三年ほどの放浪の時期に霊山の開山もあったのだろう。以後、関東、奥州に天台密教の基盤が固まったという。密教は山岳信仰と結びついて、以後、修験道をひろめることになった。
 私は、北畠顕家が霊山を選んださらなる理由は、そこが天台宗寺院であったからだと推定している。
 顕家は、天子、王朝を守ることを説いた天台宗の「鎮護国家」という言葉にあやかろうとした。霊山をよりどころにしたのはそれがあったからではないか。 
 今でこそ、容易に立ち入れる山ではあるが、かつてそこは、塵界遠く離れた、奇岩怪石の連なる、要害の地であった。そうした場所こそ、密教の修行をつむにふさわしい地だった。 
 その昔、あの比叡山が「一山大衆三千」といわれた時代がある。その数に勝るとも劣らない宗徒を霊山はかかえていたことになる。奥州の山岳仏教の拠点として、平泉とならぶ仏教文化の中心として栄えた時代があったのである。 
 それにしても 不思議な気分になる。そうした建造物が何ひとつ現存しない山中をたどるというのは。
山頂部分にあったという本坊跡は今はだた広い広場になっていて、潅木の繁みのなかに礎石がわずかに残るばかりである。
頭上に煌々と月が輝き、下界は闇の世界がひろがる。物音ひとつない夜。その夜の底に黒い堂塔がうずくまるようにかたまっている。ふと、そんな世界を幻視してみる。
ふいに私は、山頂からさらに奥にあるという、閼伽清水が湧出する奥域に分け入っみたくなった。そこはかつて、霊山寺奥之院があったとされる場所である。
 建物は存在しないとしても、清らかな水が悠久の時をへだててわき出すさまがぜひ見たかった。
 雑木の林のなかを歩くほどに、しだいに繁みは深くなり、道はとぎれるほど細くなった。そして、ついにめざす閼伽清水をその奥に見つけだすことができた。
 もはや幻と化しているだろう、と思われた清水が、冷たい音を立ててそこにわき出していたのである。











比叡山 -霊気ただよう場所が今も-

2012-06-25 10:00:43 | 歴史
比叡山延暦寺は比叡の山嶺深くに位置している。天台密教の聖地として歴史にその名をとどめる比叡とはいかなる地なのであろうか。
桜の花が爛漫と咲き乱れ、春の気配が濃くただよう京の町中を、バスで北に向かって走ること小一時間ばかりで比叡山中にたどりついた。
 染みわたるような青葉の中に降り立った時の印象は、この山の途方もない山深さであった。それも道理である。標高八四八メ-トルの大比叡を主峰とする比叡山塊の外周は実に一〇〇キロに及ぶというのであるから。 
* * *
 私がまず訪ねたのは、山頂にいたる手前にある無動寺谷だった。
 無動寺谷というのは、「三塔十六谷」と呼ばれる比叡山三塔(東塔、西塔、横川)のうち東塔に属し、別名、南山ともいわれている地である。この無動寺谷は、天台修行の行者が七年間、一千日という長い年月を山中を駆けめぐる、千日回峰行という荒行をおこなう地として知られている。
 その千日回峰行をおこなう場所とは、どんな風景がひろがるところなのか、それを見たかった。
 バス停無動寺で降りると、すぐに「無動寺参道」と刻んだ石標があらわれた。
 さっそく杉林の生い茂る山道を下ってゆく。歩くにしたがい、森閑とした山の雰囲気がどんどん濃くなってくる。
 ほどなく両脇に狛犬をしたがえた石の鳥居があらわれる。そばに「無動寺参道」と刻まれた石標が立っている。
 舗装された参道はきれいに掃き清められていて快適な森林浴の気分である。
 樹間をとおして朝の明るい陽がさしこんでくる。鴬の声が谷にこだましている。枝移りする小鳥たちの小さな影が動く。左側の深い谷を巻くように参道はつづく。
 ふいに、回峰行者の白装束が前方からあらわれたような錯覚にとらわれる。春光のなせるわざであったか。
 やがて参道は二手にわかれた。右、弁財天、左、明王堂とある。まずは弁財天への道をたどる。ここにも「大辧財天宮」の名を刻んだ石標があり、さきほどと同じ大きさの鳥居が立っている。
幾つもの小さな朱の鳥居をくぐってゆく。灯明台が道の両側に立ち並んでいる。せまい参道は曲がりながら、奥へ奥へとつづく。やがて樹林が濃くなると道がつき、鳥居があらわれた。
 弁財天を祀る社は山を背にして、せまい境内の一角にひっそりと立っていた。ここは白蛇出現の霊地とされる場所で、それを信仰する「白蛇講」があり、その本部が置かれているという。
 人気のない薄暗い境内に佇んでいると、白蛇出現の伝説が妙になまなましく感じられてくる。早々に、その場を離れたくなり、背を押されるように先ほどの分岐点までもどる。
 ふたたび無動寺参道である。さきほどまでの身体を押さえつけられたような緊張感がほぐれているのに気づく。下り勾配の道をしばらく歩く。
 やがて、城塞のように積み上げられた高い石垣があらわれる。見上げると庇の深い建物が複雑に入り組んで石垣の上に立っている。 千日回峰修行の道場ともなっている明王堂もそのような石垣の上にあった。
石段を上ると棚のように突き出たせまい台地があり、そこに小体なお堂が立っている。唐破風を張り出した白木のお堂は質実の気がみなぎっている。
 朝の勤行のさなかなのだろう。清冷な山の朝にふさわしい、腹に響くような読経の声が障子の向こうから流れてくる。思わず気持ちがひきしまる。
 無動寺谷は平安初期の貞観八年(865)、相応という名の僧が不動明王を信仰して開いた谷である。相応は谷を開いたあと、明王堂をこの地に建て、山中をひたすら歩いて修行をした。それが千日回峰行のはじめであるとされる。
 回峰行者が不動明王の化身とされ、人々に尊ばれるようになるのは、そういう由来からである。
 ところで、その修行とは、山中に設けられた一周七里半の道程を毎日、五時間ほどかけてめぐることを勤めとする。蓮華笠をかぶり、白装束に草鞋という身支度での歩行である。
 ちなみに、千日回峰をするということは、じつに四万キロを歩くという計算になる。四万キロというのは地球をひとまわりする距離になるというから、やはり大変な修行なのである。尋常なことでは達せられない行であり、白装束に身をつつむというのは、まさに死をも覚悟した姿勢のあらわれといえる。
紅梅がかすかに匂う明王堂の崖上から前方を見やると、霞みの中に琵琶湖が横たわっているのが眺められた。山中深くたどって来たあとに、ふいに海のような広大な湖を見るとは思わなかった。その風景の変化に少なからず驚かされた。
 琵琶湖が近いということに促されたわけではないが、私はさらに無動寺谷の谷道を下ってみる誘惑にかられた。
明王堂の石段を下りて、まず目にしたのが法曼院政所という表札のかかる大きな伽藍の僧坊だった。さきほど下から眺めた庇の深い大屋根の建物である。
 法曼院は無動寺谷の総本坊とされる寺で、千日回峰を修了した僧が住職となり、回峰行者の身辺の世話をしているという。洗濯物が干されていて、人が生活していることをうかがわせた。
さらに急坂の谷道を下ってゆく。
 じつは、この谷道、歴史に名を刻む道なのである。
 時は元亀二年(1571)九月十二日のことだ。織田信長の命で、比叡山の焼き打ちが決行された時、配下の明智光秀が大軍をしたがえて琵琶湖側の坂本口から押し登った道なのである。
 今、その道には当時の痕跡などどこにも見当たらないが、ここを兵士の大集団が通ったということを想像するだけでも感慨深いものがこみあげてくる。
 押し黙って登る彼らの胸の内には、さまざまな感情が揺れ動いていたことだろう。残してきた妻子を思いながら、ただ義務感で登る者、叡山にこもる僧兵の横暴に怒りを燃やす者、ひたすら手柄を得ようと功名心に猛る者、----そうしたさまざまな思いを抱いた人間の集団が通り過ぎた道なのである。が、いまその道は深い静寂のなかにある。
 やがて、谷の底と思われる場所に玉照院、 大乗院、宝珠院、護摩堂など幾つかの僧坊があらわれた。が、すぐ近くにあると思えた琵琶湖はまだ先のようだった。
  * * *
 無動寺谷をあとにして、次に私が訪れたのは根本中堂だった。
その名前が示すように、比叡山の中核にあたるこの建物(総本堂)は、やはり叡山山中の堂宇のなかでも、群をぬいて規模壮大な伽藍を備えていた。
はじめて眺めたのが、杉林の間から見下ろすような角度であったためか、大地を押さえつけるような大屋根がじつに印象的だった。
伽藍の大なることは近寄るにしたがって実感させられた。まず、境内に足を踏み入れてそれを知る。つぎに、正面の石段をあがって見上げた時、再度、実感する。
 大きさきさばかりではない。淡い藍色を帯びた、四方に優美に裾をひろげる大屋根と鮮やかな朱に塗り込められた外壁が周囲の杉の林と見事に調和している。
 信長の比叡山焼き打ちや、幾度かの雷火で焼失したあと、今見るような姿になったのは徳川三代将軍、家光の時代だという。
 天台宗独特の仏殿様式でつくられているといわれる建物は世界遺産に登録されてもいる。 が、それは木造建築というあやうさを宿命的に背負う遺産である。過去の歴史がそれを証明している。
 にもかかわらず、これからもありつづけなければならないのである。薄暗い内陣の奥に灯されている不滅の灯が、それを意思しているように私には思えたのである。
 根本中堂をあとにして、つぎに訪れたのは
横川だった。横川と書いて「よかわ」と読む。横川は南北にのびる叡山の稜線の北端のその東側、つまり琵琶湖側に位置する奥域である。 横川といっても川が流れているわけではない。地形的にはちょうど尾根から谷に下る斜面に位置する。斜面であるが、そこにはいくつかの平坦な台地が開けていて、かつてそれら台地に多数の堂塔が立っていたという。  根本中堂から山中をマイクロバスに揺られること二〇分ほどで横川に着く。
雑木林の中をぬうように参道をたどるほどに、涼しげな小鳥の声が聞こえてくる。ときおり、鴬の声もまじる。
 参道沿いに解説版が並んでいる。それは、この地にゆかりのある高僧たちの事跡を絵解きしたもので、法然にはじまり、栄西、親鸞、日蓮、道元らの若き修行時代のことが描かれていた。
 かつて、比叡山が宗派を問わない日本仏教の一大センターであり、誰もが一度は修行に訪れる場所であったということが、それによって分かる。 
 やがて、前方、杉木立の奥に朱色の建物が見えてくる。それは忽然とあらわれた。せり上がる屋根が陽を受けて鮮やかに映えている。 
それが横川の中心にある横川の中堂だった。斜面を利用してつくられた、懸掛造りのその建物は華やかな印象だった。なかでも、迫り出した部分の橋脚の朱が鮮やかに浮きあがって、周囲の緑と好対照をなしている。規模は小さいが根本中堂にはない、華奢な美しさにあふれている。
さらに、緑陰をくぐりぬけるようにして奥域にすすむ。
 参道沿いに幾つもの苔むした石碑が目撃される。「横川元三大師道」と刻まれた道標が立っている。その参道が歴史ある古い道であることをあらためて知らされる。
 しばらく行き、道がつきたと思える頃、前方に一面に砂利の敷かれた明るい空間がひらけた。左手奥に瀟洒な山門があり、その奥に大屋根の美しい僧坊が見える。
  *  *  *
 それは元三大師堂とよばれる建物だった。元三大師とは叡山中興の租として知られる元三慈慧大師のことで、大師はこの地に住まい、修行したことで知られている。信者の間では「横川のお大師さん」の名でも親しまれ、厄よけ大師、おみくじの大師の異名ももつ。元三の名は、正月三日に亡くなられたところからそう呼ばれるようになったという。
 叡山を開基した最澄の時代に、人跡未到であったこの地を開いたのは、最澄を継いだ弟子の円仁という僧だった。この人は、一般には慈覚大師の名で知られている人物である。 慈覚大師の足跡は、この叡山だけでなく、東北や関東の地にも多く刻まれ、開基を慈覚大師とする寺をよく見かける。円仁が各地に寺を建て、天台宗の布教に専心した功績は大きい。
その後、円仁の遺志をついで横川に本拠を置いたのが良源、すなわち元三慈慧大師である。
 良源も円仁と同じようにこの地を愛し、終生この地に住まった。天台学に熱心で、四季おりおり弟子たちを集めては法華経の講義に事欠かなかったという。
 二十年にわたり、天台座主として叡山のすべてを取り仕切り、横川を東塔、西塔と並ぶ修行の地にしたのも大師だった。
 その間、横川教学ともいわれる教学をひろめ、数多の弟子を育てたという。門下三千人というのも、あながち誇張した数ではないかも知れない。
 大師については次ぎのような逸話が伝えられている。
当時、疫病がはやっていた。大師は民を救うべく鏡を前に禅定に入った。瞑想しつづけると、やがて大師は、骨と皮ばかりの姿になった。鏡に写るその姿はまるで鬼の姿だった。 ある時、絵心のあるひとりの弟子が鏡に写る大師の姿を描き、大師に見せると、版木にそれを写しとれ、と命じられた。
 やせ細り、鬼のようになった顔に長い角を生やした魁偉なその座像は、大師の死後、大師堂の本尊として祀られることになった。
 それは「角大師」とよばれ、厄よけ、疫病のお守り札とされることにもなる。
 また、この座像についてはつぎのような話が残されている。
あの信長の叡山焼き打ちの最中のことである。大師堂も戦火に遭遇し、本尊である「角大師」もあわやという危機に見舞われた。
 執事の福定坊という僧がその座像を背負って逃れようとした。が、信長は先刻、叡山のすべて僧の殺害を命令していた。押し寄せる信長軍に囲まれた今、逃れる術はもはやなかった。が、大切な御本尊は何としてでも守らねばならなかった。
 福定坊は逃げまどっていた。その時だった。行く手に信長軍の一団が立ちふさがった。もはや万事休すだった。
 すると、軍勢を統率するひとりの武将が前に進み出て、「背負っている座像を一目拝ませてくれまいか」と懇願した。意外なことだった。
 福定坊が頼みに応じると、武将は座像を前に深々と拝礼した。そのあと、琵琶湖の堅田の彼方を指さして、あの方角に逃れよ、と告げた。
 福定坊は感謝の礼を述べ、別れ際に、「あなた様には仏の報恩があるでしょう」と告げて去って行った。
 この話のなかの武将こそ、のちに天下を取った羽柴秀吉だというのである。真偽のほどは定かではないが、叡山に伝わる伝承である。
* * *
元三大講堂を辞したあと、横川の山中を漫然と歩いてみた。
 老杉の林のなかに恵心堂という名の瀟洒な建物があった。恵心僧都(源信)が念仏三昧するために建てたとされる庵で、かの有名な『往生要集』はここで著されたという。彼は大師の四哲の弟子のひとりでもあった。
日蓮が修行したとされる白木造りの定光院という寺もあった。道元が得度したという事跡もあった。如法堂という名の朱も鮮やかな二重塔が木立のなかに隠れるように立っていた。
 最後に、大師の霊廟を訪ねてみたいと思った。
 霊廟は山道を分け入った杉とブナの林のなかに静かに鎮まっていた。鳥居をくぐり、小さな堂宇の奥に墓所はあった。雑草の生い茂るなかに傘をかぶったような石塔がひっそりと立っていた。
 そこは霊気が凝縮しているような場所だった。ちなみに、この地は京の町の北東、つまり鬼門にあたり、叡山の最奥にある場所であるという。
 その証拠に、墓所の奥は切り立った崖になっている。いかにも山が尽きたという感じがする場所である。
 山に事があるたびに鳴動すると今も信じられている霊廟。そうした怪異譚にも真実味が感じられるほど霊気がただよっていた。
 大師は鬼門の地をみずからの墓所と定め、魔を封じる役目に任じたということなのだろうか。
 

















荷風旧居、偏奇館界隈風景の今昔

2012-04-25 16:59:57 | 歴史
 
麻布市兵衛町一丁目、現在の地番でいうと六本木1の6の5、そこに永井荷風の住んでいた偏奇館はあった。
 生前、荷風が幾度かその住まいを替え、移り住んだ場所のなかでも、いちばん長く居を構えることになったところだ。大正九年から昭和二十年の、およそ25年もの間、荷風はそこに住み、「墨東綺譚」などを著した。
 今そこには、マンションが建ち、その建物の前に過去の記録を伝える小さな立て札がひっそりと立っているばかりである。
初冬のある日、私は妻と連れ立って、赤坂方面から六本木通りを越えて、偏奇館跡を訪ねることにした。
 実は、そこを訪ねるわけがもうひとつあった。妻の祖父母がかつて、荷風と同じく麻布市兵衛町に住んでいたことがあった事実を知ったからである。
 その場所がどの辺にあったのかも確かめたかった。伝え聞くところによると、祖父母と荷風との家は近隣同士で、付き合いもあったというから奇縁というほかない。
妻の祖父母がそこに住んだのは昭和十五年から二十年のわずかな間であったらしいが、ある理由で、荷風も祖父母も昭和二十年三月九日をもって、この地から去っている。
 ある理由というのは、東京空襲によって、この一帯がすべて灰燼に帰してしまったため、やむを得ず他所に住まいを替えざるを得なかったためである。
     * * *
 ところで、荷風の時代の麻布市兵衛町一丁目あたりの風景はどうだったのだろうか。それを再構成するためには、江戸期に展開していたこの界隈の原風景にまでさかのぼってみる必要がありそうである。
 江戸末期の文久年間に作られた地図を覗いてみると、市兵衛町の通りが、ちょうど、尾根沿いの高台にほぼ南北に切り開かれているのが分かる。その通りに沿って、大久保長門守、酒井但馬守、その南に隣接して南部遠江守といった大名の屋敷の名が見える。
 また、その尾根沿いの通りから屋敷の間を縫うようにして幾つかの道が通じている。それらは谷に向かって下っている坂道で、その坂の下には町人地が、通りに沿うようにして細長くつづいている。
 こうして見ると、荷風も行き来した坂は、武家の住まいと町人地を結びつける役割を担っていた交流路であったことが知れる。こうした町割りは、山の手の江戸の町でよく見うけられる構図である。 
 ところで、当時の地図に見える、大名の屋敷とはどんな構えであったのだろうか。
 江戸時代の大名は、その石高の大小はあったが、いずれも江戸詰めのための屋敷を幕府から拝領していた。屋敷は、その機能に応じて、上、中、下屋敷に分かれ、それらは江戸の市中や郊外に散在していた。
 なかでも、東京の山の手には立地の有利さを利用して各種の屋敷が多く造られた。それらは、いずれも緑に包まれた広大な庭園を擁していた。
起伏に富んだ山の手の地形を巧に利用した大名屋敷は、たいてい、高台の尾根道、ないしは尾根道に連続する支道に面して造られた。しかも、敷地は南面しているのが理想とされた。そして、敷地内の尾根道側の平坦部分に母屋を、その南斜面を利用して、池を配した変化に富んだ回遊式庭園が造作されたのである。 
 このように、地形、道路、敷地、さらに、そこに位置する建物や庭がすべて一体になって構成された大名屋敷が、山の手地区に次々と建てられていった。
そもそも、大名の屋敷地が造成される以前、--それはちょうど江戸期の初め頃になるのだが--一帯は雑木林の山林であった。
 林の間からは、西に富士山が見えたであろう。また、東には江戸湾が望めたはずである。雑木の林を下れば、谷あいに田や畑が点在するというような風景の広がる郊外地であった。荷風の時代になっても、村園の趣はまだ生きていて、辺りには柿、無花果、石榴などの古木が多く残っていたらしい。
* * *
 今改めて、荷風の偏奇館があった場所を文久年間の地図でたどると、そこは御組坂と明記された坂を下って行った先の、大井左近邸の敷地辺りであることが推察される。
 表通りから坂を下るちょうど角に、伊藤左源太邸と記された屋敷の名が見える。その脇を下る御組坂の名は、その坂を下り切った、地形的にはちょうど谷底にあたる地域に、当時、御先手組の組屋敷があったことから、そう呼ばれていたものである。
 地図には御先手与力同心大縄手と記されている。縄手というのは、幕府から拝借した土地をいい、いわば、そこに官舎としての組屋敷があり、その屋敷には、武装した武士集団が住まっていたのである。
 先手組というのは、幕府の御家人階層からなる戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取り締まる役目を負っていたものだ。
 東京の城南地区の起伏に富んだ谷あいの細い窪地を利用して、この種の居住地が開かれていた例はほかにも多く見られる。
 時代は下って、明治になると、地図に見られるような大名屋敷は、時の政府によっておおむね上地される。
 それらは敷地規模はそのままに、政府の公共施設に転用されるケースが多かった。あるものは外国の大使館に、またあるものは華族や皇族の屋敷、あるいは政府の高官の屋敷に変わっていった。
 その例を、麻布市兵衛町の、現代に至るまでの変遷のなかで見ると、本多氏の屋敷は溝口邸から現スペイン大使館に、大久保邸が現住友会館に、曽我氏の屋敷が大村伯爵邸から現スウェーデン大使館に、そして、南部藩の上屋敷は、静寛院宮邸から東久邇宮邸、それが、さらに林野庁の公有地に転用され、現在は民間の再開発地という目まぐるしい転変ぶりである。
 ここで、荷風がこの地に移り住んだ大正九年という時代に視点を合わせてみよう。
 現在もそのまま名前が残る御組坂と呼ばれる坂は、住友邸に南接した田中邸と記された屋敷の敷地の脇を下っている。
 荷風の日記にも時折出てくる田中邸である。現在は外人用のマンションになっている石垣で囲まれた敷地がそれである。その坂を下って行くと、坂は二つに分かれる。それを右手に進むと、坂が突き当たり、道は一層狭くなって右に折れる。
 当時は、住友邸のちょうど裏側にあたっていた。荷風の住んだ偏奇館は、その辺りにあったのである。
 記録によると、偏奇館は37坪ほどの敷地に建つ瓦葺き木造二階建ての西洋風の建物で、板張りの外壁はペンキで塗り込められていたという。そもそも偏奇の名は、ペンキをもじった名前であった。
 庭のある家の回りは生垣(カナメモチか)で囲まれ、すぐ後ろの崖下には竹薮があった。その地所は広部銀行の所有で、それを借地したものであった。 
 荷風は記す。「貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり」(断腸亭日乗)と。それほどに閑静、迷宮の地であったのである。
 今は建物が建て込んでいて、その辺の地形を見わたしにくいが、荷風の住まいがあった場所は、崖の上に広がるちょっとした空間であった。
 現在もその辺の事情は変わりがない。家の窓から外を眺めると、崖下を見下ろすように、谷底に広がる谷町、すなわち、江戸期の先手組の組屋敷の敷地跡が見わたせたはずである。 
 大正九年、この地に移って間もなく、荷風は窓外の風景を、日記の中で「空地は崖に臨み赤坂の人家を隔てて山王氷川両社の森と相対し樹間遥に四谷見附の老松を望み又遠く雲表に富嶽を仰ぐべし」と記し、さらに、夕暮れともなると、暮靄蒼然として、崖下の町の様子は、あたかも、英泉の版画を見る思いであると感想を述べている。
 決して広いとはいえない家の庭には、各種の潅木が植わっていた。
 西向きの窓の外にプラタン樹が三本、門前には夾竹桃。ほかにツツジ、藤、山吹、秋海棠、卯の花、ビワ、柿、椎、百日紅、石榴、椎、樫、松、ドウダン、石榴、カナメ、桐、楓、山茶花、八ツ手、薔薇などが、時には花を、時には実を結んだ。 
 なかでも、秋海棠は大久保余丁町の実家にもあった因縁でこれを愛した。秋海棠はまたの名を断腸花とも言ったことから、大久保の実家を断腸亭と称し、自らの日記も『断腸亭日乗』と銘々したほどであった。
 荷風は草花も慈しんでいた。苔むす庭には春の福寿草、胡蝶花、夏の紫陽花、紅蜀葵、ムベ、秋の菊、萩、鳳仙花、コスモス、石蕗と季節に応じた草花が花を咲かせ、それを楽しんだ。西日を避けるために、家の西南に夕顔の棚を設けもした。
 時折、庭の草をむしり、秋には散り敷いた落葉をかき集め、焚き火をすることもあった。春には鴬の囀りも聞かれた。そして、夏には蝉時雨、秋は百舌鳥やコオロギのすだく声が無聊を慰めてくれた。一時期、セキセイ・インコも飼っている。
 時折、荷風は近隣の家の様子も日記に書き付けている。向こう隣にはトタン葺きの小家が三軒並んでいた。「一軒は救世軍の人にてもあるにや、折々破れたる風琴を鳴し、児女数人賛美歌を唱ふ。そのとなりは法華宗の信者にて、朝夕木魚を打鳴して経を読む。そのまた隣りの家にては、猿を飼ふ、けたたましき鳴声絶間なし」という具合であった。
 また、隣接した家は大工であった。その庭には柿、桃、梅などの果樹があった。鶏も飼っている。
 紅葉の頃ともなると隣家の落葉が風に舞い落ちては庭を埋めた。
御組坂を上がり、市兵衛町の表通りに出ると、通りの向こう側に赤煉瓦塀に囲まれた東久邇の宮の屋敷が見えた。
 震災の頃まで、そこには、南部藩以来の向鶴の定紋の付いた長屋門が残っていた。塀の際には老桜が数株あり、花の季節になると一斉に見事な花を咲かせた。
荷風は二十有余年という間、山の手の隠れ家、偏奇館を根城に、下町の陋巷へと遊行した。それは彼の日記を紐解けば、自ずから頷けることである。毎日のように、銀座、浅草、吉原、玉ノ井、深川へと出かけた行動が記されている。
その際、荷風はたいてい家から狭い崖道伝いの坂道を下り、谷町の電車通りに出ている。現在の六本木通りである。
 そこでタクシーを拾い、あるいは、市電に乗って、銀座方面に向かったのである。時折、溜池まで歩き、虎ノ門駅から銀座線に乗ることもあった。
谷町に下りる坂を道源寺坂という。現在もその坂の名と寺は健在で、坂の名称は、その途中にある道源寺という寺名から由来していることが分かる。
 また、坂下には西光寺という、これまた現存する梅花星のごとく咲くと荷風も記した小さな寺がある。その坂沿いに茅葺き屋根の家が並んでいた。  
下町からの帰路は、この谷町コースの来路をとることもあったが、新橋経由、愛宕下から江戸見坂、あるいは溜池側から霊南坂を上ることもあった。
 それにしても、荷風は、なぜこうした坂を登った台地に住まいを選んだのだろうか、とふと疑問がわく。
そう言えば、荷風が生まれ育った家は、確か、東京の高台であったことを思い出した。それは、ちょうど武蔵野台地のはずれの小石川に位置し、いわば、自然山水の景の優れた場所であった。
 その屋敷というのは、元旗本の屋敷を買い上げたもので、古びた庭がだだひろく広がり、ところどころに、古木が暗い陰をつくっているといった風情のところであった。敷地450坪というから現在からすれば、かなりの広さであったことが分かる。
 その屋敷の建つ台地の下には江戸川の水景が望め、台地から谷地に下る坂の斜面には、由緒ある寺の数々が散在していたのである。荷風はその家に住み、当時はまだ、一般の東京人はそうしなかった洋風の生活をそこでしていたのである。
 幼い頃、こうした台地の家に住み、洋風の生活をし、台地の上から、東京を見つめていた荷風にとって、同じような環境の麻布市兵衛町の高台は、思いつきで選んだ場所ではなかったといえそうである。
 荷風は、前述したように、偏奇館の建物を西洋風に仕立て、壁にモダンなペンキを塗りたてて、そこで洋風の生活を送ったのであった。
* * *
ところで荷風の偏奇館があった市兵衛町は、実は一、二丁目とあったのである。というのも、私の妻の祖父母の家は市兵衛町の二丁目にあったからだ。
 二丁目は、現在の地番でいうと六本木三丁目にあたる。地図で見ると、一丁目通りが、大きく西へ屈折する辺りからが二丁目であったことが分かる。首都環状線によって、今は通りは分断されているが、かつては二つの通りは繋がっていたのである。
 この市兵衛町の名は、ここの名主であった黒沢市兵衛の名からとったもので、明治になってから一丁目と二丁目ができたという。現在見る旧市兵衛町二丁目は、民家や商店の多い、やや庶民的な雰囲気が漂う。通りから下の六本木通りに下る坂がそこにもあった。坂の名は長垂坂とも市兵衛坂とも呼ばれていたらしい。
 妻の祖父母の住まいは、多分二丁目の通り沿いにあったのだろう。伝え聞くところによると、その家は、和洋折衷の二階建てで、間口のわりには奥行きのある造りであったらしい。が、今となっては、それを確認するすべは何もない。残念なことである。
 






広沢真臣暗殺-神域の闇の淵で-

2012-04-02 22:30:04 | 歴史
          
 深い闇の中で、明治政府高官のひとりであった人物が、何者かの手によって暗殺された。 
 場所は、聖域ともいえる招魂社(後の靖国神社)に隣接する麹町富士見町三丁目二九番地の自邸内。犯行のあと、犯人たちは招魂社の深い闇の中にその姿をあとかたもなくかき消した。 
 被害者の名は参議広沢真臣。明治四年一月九日の厳冬、深夜零時過ぎのことである。広沢は寝室で妾の福井かねと寝ていたところを襲われた。死体には一五カ所におよぶ刺し傷があったという。
 広沢は「骨太く肉付堅く、体重三六貫目にして、銅像的大人なり」という風貌をもった人物であった。この魁偉な男が殺されたのである。よほど寝入っているところを急襲されたのであろう。
 賊の遺留品は何もなかった。
 唯一、賊が逃走するさいに残していったと思われる足跡と放尿の跡が五つ邸宅の東の板塀に残っているだけであった。
 また、同衾していた福井かねも恐怖のあまり賊の顔を見ていなかったという。
同日付けの『太政官日誌』は報じた。
「今九日晩、何者とも知れず広沢参議邸へ忍入り、同人へ深手を負わせ、逃去り候趣き天聴に達し深く御震怒在らせられ候」
 ただちに諸門の警戒が厳しく敷かれた。暮六つ以降は、鑑札を所持していない者は見附門の通行を一切許可しないというお触れが出た。さらに、覆面や頭巾をかぶっての通行はまかりならぬという達しも出た。
 五つの影が富士見坂の深い闇にまぎれて上って行く。いずれもすっぽりと黒覆面を顔に被っている。目指す広沢邸は坂を上りつめた一角にある。広い邸宅は黒い樹木に覆われて、中の様子は知れない。男たちは身軽に塀を乗り越える。あらかじめ手はずをしておいたように、ひとりの男が屋敷の離れの雨戸を開ける。 
 そこは八畳間で障子がめぐらされていた。男は障子に穴を開け部屋の中の様子をうかがう(障子には穴が残されていた)。が、そこには人の気配はなかった。
 今度は廊下づたいに隣の六畳間へ。再び障子に穴を開け、中の様子を探ると、はたして目当ての広沢と女が添い寝していた。
惣十郎頭巾の男がひとり、そっと障子を開け、部屋に忍びこむや、やおら広沢の頭をめがけて一気に白刃をふり下ろす。一瞬のできごとであった。
広沢参議はほとんど眠った状態で絶命した。 
 賊の手慣れた刀さばきが的確に参議の生命を奪ったのだ。とどめの突き傷が喉頭部中央にあるのも玄人のしわざと知れた。
 警察はまず家人全員を取り調べた。当時、屋敷内には広沢参議のほかに、妾の福井かね、家令の起田正一、それに女中と書生がいた。なかでも、怪しいと疑われたのは福井かねであった。彼女は広沢と同衾していたにもかかわらず、額に軽い傷をおっただけであったからである。それに、何よりも、その夜のできごとに関する証言が曖昧であった。
 警察は福井かねを拘留し、苛酷な拷問を開始した。かねは当初、犯人像について次のように証言していたのである。
 闇の中で物音を聞きつけ、起き上がると、覆面姿の賊が抜刀してぬっと立っていた。驚いて声を出そうとすると、騒ぐと殺すぞ、と言われた。恐怖のあまりうち伏していると、賊は広沢を布団から引きずり出し斬りつけたという。 
 そのあと賊が自分に向かって金を出せと命じたが、ここにはないと言うと、それなら要らないと言って立ち去ったという。
 さらに、犯人像について問われると、年齢三十歳前後、細面の色白、目細く、口小さく唇薄い中肉中背の男で、肥後なまりがあったとも言った。
 だが、この供述は後になっていつわりであることが分かった。
 一緒にいながら何も知らないではすまされないと思い、かってにこしらえたつくり話だった。本当は恐怖のあまり何も見ていなかったというのが事実らしかった。
 ところが、福井かねの転々とする証言を追ってゆくうちに、広沢邸に隠されたひとつの秘密があぶり出されることになった。
 広沢家の家令である起田正一という人物と福井かねとが以前からねんごろの仲であったことが判明したのだ。しかも、かねは起田の子をはらんでいたのである。
 広沢が殺害された当日も、起田とかねは密かに会っていたという。警察はこの事件を二人の共謀による犯行と推定した。そこで、次に起田が逮捕され調べられた。
 起田の自供によると、福井かねとの日頃の仲を知られてしまったので、広沢を殺し、二人で暮らそうと思った、というのである。
 かねの額に傷をつけたり、庭の板塀に九文八分の足袋の跡を残したのは、実は自分であると白状した。犯人が外部の者であると思わせるための偽装であったと自白した。
 だが、この自白も裁判の過程で結局ひるがえされた。
 さらに、福井かねの身辺を洗いだしてゆくと、家令の起田正一との関係ばかりか、広沢邸に出入りしていた幾人かの男との関係が明るみに出た。
 当時一九歳のかねは評判の美人であったが、少し知恵おくれの女であった。旦那の目を盗んで男との情事を楽しむというふしだらなところがあった。
 時の参議邸の奥深い場所でくり広げられていた情痴。そして、妾と同衾中の広沢参議の謎の死となれば、痴情事件とも思える。招魂社の隣接地で起こったあまりにもスキャンダラスな出来事に世間はわき立った。
 こうしたなか、明治四年二月二五日、天皇の名による「其天下ニ令シ厳ニ捜索セシメ賊ヲ必獲ニ期セヨ」という異例の詔勅が発せられる。新政府誕生以来、横井小楠、大村益次郎ら要人を暗殺の禍にさらした政府のショックは甚大であった。
 必死の探索にもかかわらず、捜査当局である弾正台の捜査は難航した。雲をつかむような探索がくり広げられていた。
 この事件に関係して取り調べられた者は、反政府活動をしていた人物を中心に、実に八十余名におよんだ。だが、いずれも決め手のないまま放免となった。
 福井かねと起田正一の両名の嫌疑も証拠不十分のままうやむやになった。 
* * *
 広沢真臣の邸宅があった場所は、現在、白百合学園中・高等部のある敷地の一部になっている。広沢邸は総面積千二十二坪。その敷地内に、建坪三百二十五坪の屋敷とふたつの土蔵を構えていた。
 この土地は、幕末期には旗本屋敷が、また、明治に入ってからは公家の久我通久三位の住まいとして使われていた。それを広沢が兵部省から四百七十三両ほど借り受けて購入したものである。
 以前の住まいは、市ケ谷見附に近い表四番丁に所在する借家であった。
 参議という重職についている身分でもあり、借家住まいでは外聞もはばかるというわけで、新居を購入したものだ。明治三年十二月二十三日のことである。
 広沢邸のあったあたりの雰囲気をわずかに残すと思われる場所として、今は、靖国神社の境内になっている遊就館と呼ばれる記念館が建つ一角がある。鬱蒼と樹木が茂り、都心とは思えぬほど閑静な場所である。
 当時は昼さえ寂しいくらいのところだったろう。いわんや、夜の暗さは尋常ではなかったはずだ。
その靖国神社の裏手にある坂を富士見坂という。富士をのぞむ方向に、ぴたりと合わせてつくられたためにその名がある坂である。靖国神社と法政大学の敷地にはさまれた坂で、広沢邸のあった方向に真っすぐに延びている。 
 この坂の途中、現在、法政大学八十年館が建っている地に、幕末期活躍した英国大使館付き通訳(後に公使)、アーネスト・サトーの邸宅があったという。サトーは旗本屋敷を借りうけ、ここに住んでいる。 
富士見坂を上りつめ、かつて広沢邸のあった白百合学園の敷地を左手に見ながら、靖国神社の神域に沿うように、さらに東に歩くと、都立九段高校の校舎が見えてくる。
 この敷地の一部が、広沢暗殺にかかわったと噂された木戸孝允の邸宅跡だ。
 だが、広沢が新居を招魂社に隣接する地に移す気になったのは、同郷の木戸の屋敷が近いこともあったのではないか。二人の交流が親密であった証拠を見る思いがする。
そして、木戸邸の前は、森閑とした招魂社の森である。当時ここは、招魂社と呼ばれ、嘉永六年以降明治維新までの間に国事に奔走して倒れた人士を祀っていた。
 招魂社の創建は明治二年六月のこと。それが靖国神社と改称されるのは明治十二年になってからだ。
 明治五年六月の『郵便報知』は、九段招魂社の新社が落成した旨の記事を次のように伝えている。
「おもいみるに、今を距る二三年前は、都下の形勢寒々として、この社に参るものもなく、かえってこの社を蔑視するに至れり。かくてここに参するものはわずかに西国各藩有志のもの、昔を追思して涙を払うのみなりしが、頃日新社既に成り、官人庶民を問わず、歩騎陸続して通衛紅塵を越し、その景況往時の比にあらず」
 正面の階段を上るとすぐに目に飛び込んでくるのが大鳥居だ。高さ二五メートルの鳥居は、実は昭和四九年に再建されたもの。この鳥居から砂利の敷かれた広い参道が真っすぐに本殿に向かってのびている。
 参道中央に、これもこの神社のシンボルのひとつになっている大村益次郎の銅像が立っている。左手に双眼鏡を持ち、遠くを眺めるポーズは、幕末の上野の戦争を指揮する勇姿だ、という。
 その大村も明治二年九月、彼の考え方に反感を持つ同じ長州藩士によって暗殺されている。
さらに時代は下るが、『東京の三十年』の著者田山花袋は、明治二十年代初めの靖国神社の光景を次のように描写している。 
 「その頃は境内はまだ淋しかった。桜の木も植えたばかりで小さく、大村の銅像がぽっつりと立っているばかりで、大きい鉄の華表(とりい)もいやに図抜けて不調和に見えた。私は朝に夕にその境内を抜けて行った。考えると細かい気分が浮み出してくる。正面に社殿に向かって四方を取巻いた塀、その左の塀の下の石の上を、若い私は毎日毎日伝って歩いて行った」 
 花袋十八・九歳の頃の印象記である。
 参道を歩むと、両側に並ぶ灯籠にまじって梅や桜、楓などの木々が植樹されているのに気づく。
 よく見ると、これらの木々は献木されたものが多い。いずれも先の戦争を戦った旧日本軍の各部隊名が記されている。
 靖国神社といえば桜の名所で知られるが、そもそもこの地に桜が植えられたのは、明治三年にさかのぼる。
 時の参議であった木戸孝允が神苑内に染井吉野を寄贈したのがはじまり、という。今では、境内に染井吉野をはじめ、山桜、寒桜など千本ほどの桜が林立し、春の開花期には美しい花を咲かせる。
ところで、江戸期ここは幕府の御用地であり、馬場として使われていたものである。細長い参道は馬場の跡で、明治に入ってからも、招魂社の祭りの際には、ここで競馬が行われたという記録が残る。
 広沢参議が暗殺されたその年の五月一五日にも、日本人と外国人による競馬が行われ、日本人が勝つ、と当時の新聞は伝えている。
 * * *
 広沢参議暗殺事件の捜査が行き詰まっている頃、奇妙な噂が立ちのぼりはじめた。参議暗殺は謀殺だというのだ。そうなれば政敵による殺害ということになる。 
 嫌疑の第一に挙げられた人物は、こともあろうに、広沢と同じ長州出身の木戸孝允(桂小五郎)であった。
 世間は次のように推理して木戸を怪しいと疑った。木戸は以前から広沢参議の失脚を企んでいたというのである。
 これを解き明かすには、広沢を取り巻く当時の政府部内の権力構図をつまびらかにする必要がある。
 明治政府は、明治二年六月、版籍奉還ののち、専任官僚組織ともいえる参議制を発足させた。これが実質的に当時の内閣を構成したのである。
 当初、この参議の定員は三、四名で、薩長の実力者で占められていた。のちに参議の数は増員されるが、いずれにしても薩長を中心とする藩閥の専制であった。
 政府の重要問題は岩倉具視、三条実美の両大臣のもと、参議会議であらゆることが決定されていった。
 明治三年時の参議は七名いた。長州出身では木戸孝允と広沢真臣が、薩摩出身では大久保利通がいた。ほかに、土佐の斎藤利行、佐々木高行、佐賀の大隈重信、副島種臣が名をつらねていた。
 木戸は民部、大蔵省をバックにした急進改革派に属し、一方、大久保をはじめとする薩摩系の人脈は改革漸進派に属していた。
 広沢はちょうどその中間に位置していたといわれるが、どちらかというと大久保の意向にそった立場に立っていた。
 このように、長州藩内部にも急進派、漸進派の対立があった。人脈的にいうと急進派の木戸を中心に民部、大蔵省に属していた伊藤博文、井上馨らがいる一方、その対極に兵部省に籍を置いていた米原一誠、それに近い広沢真臣がいた。
 この両者の拮抗関係の中で、漸進派の米原一誠が、やがて閣外に去る。そうなると急進派にとってあとに残る課題は広沢の排除である。広沢の暗殺はこうした長州藩内部の覇権争いの結果である、とする考えがあった。
 そう思って疑わなかった人物に米原一誠がいる。彼は木戸と対立した漸進派の代表であり、守旧派におされて明治九年に萩の乱を起こしている。
 偶然の符合か、広沢真臣が襲われたと同じ日の明治四年一月九日の未明、自宅にいるところを何者かによって狙撃されたのだ。
 生命に別条はなかったものの、この一件で米原は、広沢暗殺は木戸のしわざだと確信するにいたった、と語り伝えられている。
 ところで、噂の主である当の木戸は、広沢が殺されたその時、山口に帰郷していた。
 薩長土肥三藩の協力体制を固めるために、同じく山口に派遣されていた勅使岩倉具視を側面から助けるためであった。
 帰途、神戸で広沢の訃報に接した時の心境を『木戸孝允日記』の中で木戸は次のように記している。 
 「余等驚愕悲憤暫絶言語せり 広沢 去冬余に一書を送る。余又其書を筒中に出し、永訣を思 数読 不堪流涕 惨憺也 王政一新之際 只広沢の一人 政府上に余を助くるものあり 今日之事を聴 実に兄弟の難に逢ふと雖 如比の悼悟如何と思ふ」
 広沢の死は兄弟の死以上に悲しいと書きつけているのである。この感慨は本当の気持ちであったろう。
 生前、広沢は同郷のよしみもあったのか、しばしば木戸邸を訪れている。
 それは公的な場合に限らず、木戸が病に伏している時には見舞いに出向いたりもしている。『広沢真臣日記』にはそうした個人的な交誼が記されているのである。
 噂にされるような政治上の意見の違いというものが確かにあったのだろう。が、それが殺意におよぶまでのものであったかは計りがたいものがある。
 長州藩内部の対立が理由で木戸が疑われるとするならば、一方の薩摩藩を代表する大久保利通も疑われておかしくない。
 明治初年以来の薩長対立関係を思う時、大久保が、自藩の主導権を確立するために、長州藩の勢力をそごうとした。そのために長藩出身の有力参議のひとり広沢の生命を狙った。さらにその死を利用して、反対勢力の一掃に乗り出そうと野望した、という推理が成り立たないわけではない。 
このように広沢参議の暗殺は、当時の複雑な政治状況のなかで、さまざまに憶測された。疑えば誰もが怪しいと思えた。
 こうしたなか、広沢の生命を狙う動機を最も強く持っていたはずだ、と思われる勢力があった。
 そのひとつは、米沢藩出身の雲井龍雄につらなる男たちである。
 実は、当の雲井は、広沢が暗殺される日の十二日前の明治三年十二月二八日、小伝馬町の牢獄で斬首の刑に処されている。罪名は政府転覆と旧体制の復活をもくろんだというものであった。そうした計画が実際にあったかどうかすら必ずしも証明されていない状態での断罪であった。
 雲井龍雄は当時、失業士族の救済を目的に「帰順部曲点検所」の設立に奔走していた。政府要人のなかにもそうした動きに理解を示し、資金援助をする人物がいた。広沢と土佐出身の佐々木高行の両参議である。
 ところが、広沢は雲井の活動が具体的になるにしたがって、次第に、雲井らの動きを牽制するようになる。政府部内に雲井らの動静を危険視する考えが表面化したのだ。
 広沢はそれを察知し、雲井から離れ、むしろ雲井らを捕らえる姿勢に変質してゆく。
 これは明らかに雲井一派から見れば広沢の裏切りである。それが事実として現れたのが雲井龍雄の捕縛であり、その処刑であった。 
 雲井の同志からすれば、彼の死をいたみ、その死の原因をつくった広沢を暗殺するというのは、まさに大義名分のたつ行為であった。広沢の身体に加えられた一五カ所に及ぶ執拗な斬り傷は、怨念を刻みこんだものとも思わせた。
広沢を狙う勢力のもうひとつは、当時、九州地区にあった反政府集団である。
 広沢は木戸の意を体して、日田藩や久留米藩の弾圧の陣頭指揮にあたっていたのだ。彼らの間から、広沢を誅殺すべしという怨嗟の声があがったとしても不思議ではない。
 とはいえ、犯人像が明らかにされないまま、広沢参議の横死が、その後、政治的に最大限に利用されたことだけは間違いない。
 広沢参議の死後まもなく、政府は九州地区にくすぶりつづけていた反政府勢力の弾圧に踏みきる。さらに、外務省内部にはびこっていた征韓論者を断罪し、全国に散らばっていた諸藩の不平分子を一掃することに成功する。
 広沢参議の暗殺は、政府要人のなかで画策されたものだという噂は、こうした結果からみる時、あながち見当はずれのものとはいえなかった。
 いずれにしても、明治政府の高官を闇の中に葬った謀殺事件は、招魂社に隣接する地で起こったものだけに、それは聖域を汚すできごととして世間からは受けとめられたのである。















彰義隊無惨

2012-03-20 19:52:53 | 歴史
 三ノ輪の円通寺には彰義隊にちなんだ史跡がある。彰義隊士二百六十六名の遺骸を埋葬したとする墳墓がそれだ。
その関係か、ここには幕末期、上野の山の出入り門のひとつであった木戸が移築されている。それは通称、黒門と呼ばれる黒塗りの門で、時は経ているものの、今も堂々とした風格で立ち尽くしている。
上野戦争の際、この門を盾にして、彰義隊と官軍双方が戦闘を交えたといういわくのある門である。近寄ってよく見ると、門柱のあちこちに今も弾痕が生々しく残っているのが分かる。
  * * *
上野の山の西郷さんの銅像が立つ裏手に、彰義隊士を祀る大きな慰霊碑がある。その慰霊碑は明治八年、幕臣山岡鉄舟が有志と共に建てたもので、碑の正面には「戦死之墓」の力強い文字が刻まれている。
 中学生の頃、初めてそこを訪れて、幕末のある時期、上野の山で戦争があり、沢山の人が命を失ったことを知った。辺りはいつ訪れても、どこか暗鬱な気分の漂う場所であった。 
 碑のある場所には、上野戦争の戦闘場面を描いた一枚のリアルな絵と錦絵が展示されていたことを覚えている。その絵に描かれていた戦闘場面は、子供の目にもすさまじい迫力をもって迫ってくる内容であった。
 長い時の経過を伝えるように、画紙は皺より、古色蒼然としていた。時代がかった絵の雰囲気からして、私には、その絵が、上野戦争の戦火をくぐり抜けて保存されてきた、あたかも一葉の写真のように思えたのである。それほどに写実的に描かれていたのだ。 
 黒門を前にして、鉢巻きをした髷も乱れる、稽古着に袴姿の少壮の武士が、正眼の構えで立つ一方で、長い髪を垂らした、黒ラシャのダンブクロに身をまとった異様な風体をした、形相すさまじい男が三人、それぞれ大上段の構えで、これに対している。
 前者の武士は、彰義隊士であろう。そして、後者の男たちは、いわゆる官軍の兵士らしい。四人の男の周囲は、今や、敵味方入り乱れての白兵戦のさなかである。
 かたわらには、斬られて倒れている者がいる。あたりには硝煙が立ち込め、今にも人の叫喚や苦悶の声が聞こえてきそうでさえある。絵の様子からして雨も降っているようだ。  
 絵の中に描かれている黒門のコピーを、のちに上野の山で実際目にしたことがあった。門に近づくと、そこには弾痕が刻まれているではないか。その時、あの絵の戦闘場面が彷彿してきたことは言うまでもない。
 柱のひとつに耳を当てれば、銃声やら刀の鍔ぜり合いが聞こえてきそうであった。
 その時、刀折れ、傷つき、黒門の柱を支えにしてかろうじて立ち上がろうとする武士の姿を見たような気がした。
 すでに遠い過去になった出来事の痕跡を、改めて目にする時にわきいずる感慨。人はその時、さまざまな想像の翼を広げて、歴史の追体験を楽しむことができるのである。   
  * * *
 上野戦争の名で呼ばれたその戦いは、日本が江戸から明治という時代に大変貌とげるはざまに起きた、ひとつの小さな戦争であった。が、当時の江戸市民にとっては、大変な関心と驚愕をもって捉えられた戦いであった。それは、徳川三百年という長い平和な時代にあって、江戸が戦場となった唯一の戦いであったからである。
それだけでなく、江戸市民にとって、上野の戦争を戦った彰義隊の名は、江戸を、薩長の田舎侍から守ってくれる、頼りがいのある武士の集団として、ある種の共感と信頼をもって受け止められていたためである。
 神田上水の水を産湯に浴びて、乳母日傘で人となった誇りは、武士も町民も隔たりなく、共通したものであった。
 慶応四年四月に入ると、徳川直参の旗本、御家人を中心とする旧幕臣、佐幕派の諸藩の浪士らは、徳川幕府の最後の抵抗集団として、東叡山寛永寺のある上野の山内に立て籠もった。
 聖域であるその地を根城にして、薩長の、今は官軍となった軍勢に一矢を報いるがためにである。
 そもそも彰義隊がそこに拠った表向きの理由は、寛永寺にある将軍家の宗廟を守ることと、その管領である輪王寺宮能久親王(後の北白川宮)の警護のためであった。
 輪王寺宮は、出自が宮家であり、朝廷に血縁のある宮を擁して立ち上がれば、官軍も攻撃しにくかろうという読みである。また、上野台に官軍の目を集め、そのうちに援軍を待つ作戦でもあった。
 さらに、寛永寺のある上野の山には、沢山の塔頭が散在していて、深い森に包まれた地は事を構えるには絶好であるという判断があったと思える。
 天野八郎を中心に、その名も、彰義隊と命名された千名にものぼる武士団。彼らは十五隊に分けられ、それぞれの配置についた。そして、本営を今の動物園がある寒松寺に置いた。
 が、その出で立ちはと言えば、意気は盛んであったが、どことなく時代錯誤の風が、その身繕いに感じられた。
 小具足に身を固め、陣羽織、義経袴姿で、長い槍を持って馳せ参じた者さえいた。彰義隊に銃火器がなかったわけではない。先込めの砲ではあったが、大砲は確かにあった。
 だが、戦国時代以来、本格的戦闘というものを経験することなく過ごしてきた武士階級にとって、実戦への備えは、ほとんどなきに等しいものだった。
 とはいえ、江戸市民は、戦争が始まれば、彰義隊が華々しく戦ってくれると本気で思っていた。
 いよいよ戦いが始まるという噂が広がると、武士はもとより町人までが、大八車を借りだし、郊外へ避難を始めた。江戸の町は上を下への大騒ぎとなった。
 そうしたなか、五月十四日、いよいよ下谷一帯に避難命令が出された。
 そして、翌十五日の六ツ半、今の七時頃を期して、ついに戦闘の火ぶたが切って落とされたのである。
 その日は朝から沛然たる雨が降りつけていたという。彰義隊のほとんどの者は刀剣を携えての戦いであった。ところが、実際は、火器の戦いであった。 
 大村益次郎を総指揮者とする二万の官軍は、まず遠方からアームストロング砲を放っての攻撃を開始。さらに、接近戦では、銃による攻撃であった。
 肉薄しての戦いができたのは、官軍側の大砲や銃による攻撃で、ほとんど戦闘能力を失った時であった。
 刀剣を使っての戦闘を想定していた彰義隊は、なすすべもなく、戦い半ばにして、あえなく壊滅していったのである。戦いは半日と続かなかった。単なる士気の昂揚だけでは戦えない近代戦の実態を知らされた戦争であった。
この戦いは、そもそも勝ち負けが初めから明白な戦闘であった。彰義隊は、江戸を薩長から守ろうとするために戦いに立ち上がったわけではなかった。 
 戦いの意義は、彰義隊の名が語っているように、それは徳川直参の武士の大義を示すための決起であったのである。
 従って、士気の高さのわりに壊滅も早かった。義のために立ち上がったということが示せれば、それで所期の目的は達成されたと考えたのである。建前で行動する封建武士の最後の姿であった。
 本当のところは、西国の田舎侍に屈服するのを潔しとしない、江戸っ子武士の矜持が駆り立てた戦いだったのである。
 当時すでに、政治の大勢は決していたのである。慶応四年はそういう年であった。
 彰義隊が決起した時の状況を言えば、西郷吉之助と勝海舟との会談で、江戸攻撃が中止され、その結果、有栖川宮に率いられた東征軍がすでに江戸に無血入城していたのである。これに先立ち、前将軍、徳川慶喜はすでに江戸を退き、水戸に蟄居していた。
 上野の戦争があっけなく終わり、翌々月の七月十七日、江戸は東京と改称された。
  * * *
 当時、上野の山には、徳川家の菩提寺であった寛永寺寺を中心に末寺が三十六坊あり、ふだんは、用のない人は、そこに出入りできなかった。
 三十万坪の広さをもつ山を取り囲むように、東西南北八カ所に門が設けられ、出入りを取り締まっていた。
 黒門もそのひとつで、それは上野広小路口にあった。いわば、そこが上野山内への正面口であり、それを潜った広い通りを黒門通りと呼んだ。また、黒門から南には御成道が通じていた。
 御成道は寛永寺に参拝する将軍が通る道で、黒門に並んで将軍専用の御成門が立っていた。 そして、黒門の脇には番所が置かれていて、あたりは鬱蒼たる樹木が覆っていた。
実は、黒門にはもうひとつ、新黒門というのが今の山下口の方にあった。そこから西郷さんの立つ山王台に通じていた。もちろん、当時は西郷さんの銅像はなかったが。 
 開戦時、黒門周辺には、彰義隊によって古畳や土嚢が幾重にも積み上げられていた。そこが激突地点になるということが、あらかじめ予測されていたためである。
上野戦争を描いた錦絵を見ると、この黒門を境にして、激戦が繰り広げられた様子が詳細に描かれている。
 彰義隊士の服装が前近代を表しているとすれば、官軍兵士の服装は近代そのものである。刀と銃の対比にみる武器の相違も鮮明に描かれている。
 上野戦争のおり、官軍は今の松坂屋前辺りに砲列を並べ、その主力は広小路方面から攻めてきた。そして、黒門の先にあった寛永寺の仁王門跡にあたる御橋との間は白兵戦の戦場になった。 
 ちなみに、御橋と言うのは不忍池から流れ出る忍川に架かる橋で、将軍専用の橋であった。
 黒門に今も残る弾痕は、広小路方向から撃った銃弾の跡なのであろう。事情を知らない人が見たら、それはあたかも、虫が食った跡のように見える。 
 例の写真のような絵は、円通寺にある黒門の位置関係から判断して、ちょうど、黒門の内側での戦闘を描いているように思える。
 となれば、彰義隊の防備が破られて、今や、黒門の内側での肉弾戦という状況が描かれていることになる。
  * * *
 戦い敗れて敗走した彰義隊士は、その後どうしたのだろうか。
 彼らは黒門口の戦いに敗れると、上野の山の奥に入りこみ、それから台地下の日暮里、三河島方面に逃げのびた。そこには官軍の姿はなかった。
 官軍はあらかじめ逃げ口をつくっておいたのである。そこを抜ければ、最終的には川越や水戸へ出られるという配慮があった。
この戦いで戦死した彰義隊士の数は、実際のところよくつかめていない。三百人近い人が死んだともいう。
 戦いの後、上野山内のあちこちには骸が放置されたままになっていた。後日、それらはまとめて、現在の彰義隊慰霊碑の立つ地で火葬に付され、その一部が円通寺に埋葬されたのである。
 それについては、伝聞があり、神田旅籠町で飾職問屋を営んでいた三河屋幸三郎という商人が、義侠心を働かせて、円通寺の住職に埋葬を依頼したのだ、という。その際、記念碑も建てられたというのである。現在見る墓がそれであろう。さらに、明治四十年になってから黒門が現在地に移されたのである。
 ところで彰義隊士の墓は、このほかに蔵前の西福寺(蔵前四丁目一六-一六)という寺にもある。ここにある墓には、彰義隊士百三十二人の死骸が埋葬されていると言われる。伝聞によれば、芝の増上寺に祀ろうとしたところ断られたため、増上寺の末寺であるこの寺に密葬したという。大きな墓碑の表面に「南無阿弥陀仏」、台石に「供養塔」と刻まれている。西福寺が増上寺の末寺であるところをみると、徳川家にゆかりのある寺なのだろう。その証拠にここには家康の側室だった於竹の方の墓がある。














金閣寺炎上-望郷と厭世のはざまで-

2012-03-19 19:30:44 | 歴史

 日本海に臨む一寒村から、夢と希望をいだいて都会に出て来たひとりの男が、やがて、それらをことごとく失い、破滅してゆく。
 ここにその典型とも思われるひとつの事件の記録が残る。
 昭和二五年七月二日の深夜三時少し前、京都北山にある鹿苑寺金閣が、何者かの手によって放火され焼失した。五百年以上もの歴史をへた国宝級の建築物が、一瞬にして灰と化したのである。
七月三日の『朝日新聞』は伝える。
「二日午前二時五十分ごろ京都市上京区衣笠金閣寺町臨済宗相国寺派別格地鹿苑寺(通称金閣)庭園内の国宝建造物、金閣から出火、全市の消防署から消防自動車十台が出動したが、コケラぶき、クスノキ造り南北五間半、東西七間の三層楼はすでに火炎につつまれて手のつけようがなく、初期足利時代の代表的建築と知られた国宝の三層楼は内部の古美術とともに、一時間後に全焼、境内にある夕桂亭など三十余りの他の建物は類焼をまぬがれた」と。
 世間は驚き、その犯人像に関心が集まった。ところが、警察が火元を調べていると、寺僧のひとりが行方不明になっていることが判明した。男の名は承賢、本名を林養賢と言った。 
 林の部屋を調べると布団、蚊帳、机、本箱、衣類を入れた柳行李などがなくなっている。焼失した金閣を調べていた警察は、やがて、これらの燃え殻を現場から発見。そうなると、行方不明の寺僧がますます怪しいということになり、ただちに逮捕状が出されることになった。
警察の捜索は京都市中はおろか付近の山にもおよんだ。すると一時間ほどのちの午前四時頃、寺からすぐの左大文字山と呼ばれる山中の林の中で、カルモチンを服用し、左胸から血を流し、意識が朦朧とした状態でうずくまる男を発見。男は明らかに自殺を図ったらしかったが、死にきれないでいたらしい。
 警察は男を保護し、すぐさま西陣署に連行した。ただちに取り調べをはじめると、男はあっさりと金閣寺に放火したのは自分であることを認めた。
 捕らえてみれば、放火犯はなんと金閣寺に務める承賢という寺僧であったことが知れて、またまた世間を驚かせた。何ゆえに彼は金閣寺に火をつけたのか。
 逮捕されてのち、犯人の寺僧は放火の動機について、世間を騒がせたかったからとも、社会に復讐したいためだったとも言った。男は終始興奮状態であり、薬物中毒の兆候もあった。そのため警察では、もう少し時間をかけて取り調べをすることにした。
 のちに男は「金閣があまりにも美しかったので嫉妬した」とも語っている。人間に対してではなく、一個の建築物に嫉妬するとはどういうことか、この発言の内容が不可解で、これまた世間の話題になった。
* * *
承賢こと林養賢は、京都府舞鶴市から北へ行った大浦半島の突端、成生岬と呼ばれる岬に近い寒村、戸数二十二戸ほどの成生集落の禅寺で生まれた。
 日本海の荒波が押し寄せる海岸地方は、特に冬場は厳しく、変わりやすい天候が何日もつづくといったところである。その岬に出るには、尾根伝いの杣道を辿るしかない辺鄙な地であった。
 養賢の父はその地にある西徳寺という寺の住職であり、名を道源と言った。道源がこの寺の住職になったのは大正十三年ことである。 
 生来、病弱であった父の道源は、長い修行生活に耐えられなかったために、途中でそれを切り上げざるを得なかった。その結果、この辺鄙な場所にある末寺に赴任させられたのであった。
 赴任してみたものの、道源の生活は、寝たり起きたりの病人のような毎日であったという。そんな状態で、翌年、道源は妻を迎えている。人を介して妻となった女の名は志満子と言い、二つ年下の二四歳だった。
意を決して、手荷物ひとつでこの地にやって来た志満子ではあるが、新しい生活に踏み出してみれば、夫は病身で、その看病の明け暮れであった。これでは何のために一緒になったのか分からないといった状態がつづいた。それでも妻は知り人のいない村の人たちと何とかうまくやってゆこうと努力したのであった。そんな五年が過ぎてから養賢が生まれたのである。昭和四年三月一九日のことだ。
誕生後、養賢は成生の慣習に従って、村人のどこの子供とも同じように育てられたというが、どう                したわけか三歳になる頃から吃りはじめるのである。
 そんなこともあって、養賢は幼い頃からいつも家に籠もる鬱性の少年になった。しかも、養賢は、父に似て生れつき身体が弱かった。 
 子供は残酷である。そうしたハンディを背負う子供をからかい、いじめるのが常であった。そんな暗い毎日を繰り返すうちに養賢はしだいに何かをつねに夢想するような少年になっていった。
 部屋のなかで過ごす毎日であったこともあって、父は子の養賢に小さい時から経文を読むことを教えた。いずれ息子を僧侶にしようという考えがあってのことであろう。
 そのため、かなり早い時期から、養賢は父の名代で葬式に出たりして経を読むようになるのである。しかも、経を読む時は不思議と吃らなかったという。
 もうひとつ養賢がひとりで楽しんだものに尺八があった。同じように、父の道源が教えたのだろう。この尺八は、のちのちも彼の心を慰めたらしく、留置所や刑務所に収監されている時も唯一の楽しみにしていたふしがある。
 こんな幼少期を過ごしたあと、養賢は、父の故郷でもある舞鶴市東郊の安岡という地にある叔父の家に預けられる。そこから中学に通うためであった。昭和一六年五月のことだ。
* * *
父の道源が息子を金閣寺の徒弟にしようと意思したのはいつ頃であったのだろうか。父は金閣寺の前の住職とは懇友で、京都相国寺僧堂で修行していた頃、互いに釜の飯を同じにした仲であった。そんな因縁もあって、金閣寺にはそれなりの親近感を抱いていたらしい。 
 が、現住職とは一面識もなかった。にもかかわらず、若狭の一寒村の寺の住職は、わが子を修行のために金閣寺に入れることを強く望んだ。そして、格のちがい過ぎる金閣寺の住職に、そのことを手紙で懇願したのである。 
 その願いはとうてい適えられるようなものではなかった。が、意外にもその願いが実現することになるのである。父と母の感激はたとえようもなかったにちがいない。
ところが、それが実現する前に、父道源は、長い間患っていた不治の病の結核が悪化し、昭和一七年十二月二十日にこの世を去ってしまう。
養賢が金閣寺に行くことに決まったのは、それからしばらくたった、昭和一八年三月のことである。養賢は母と連れだって、緊張したなかにも、晴れ晴れした気持ちを抱いて京都を訪れ、金閣寺に姿を現したのである。
 その日、金閣寺住職慈海ははじめて林養賢母子に会った。いろいろと世間話を交じわしたあと、慈海は、今は戦時でもあるし、得度式を済ませたあとは、中学校を卒業するまで安岡に戻り、今までどおり学校に通うことをすすめた。 
 そして、四月十日、得度式がおこなわれる。その日を期して、林養賢は僧名を天山承賢と名乗ることになるのである。そして、得度を済ませると、慈海がすすめたように、養賢は再び安岡の中学校に通うことになる。
ところが、どうしたわけか、中学を卒業する前の昭和一九年四月二日に、養賢はとつぜん金閣寺に入寺することになる。
 この間の事情について、詳らかなことは分からない。が、金閣寺住職との取り決めであった、中学卒業までは故郷で勉強すること、という約束事が反故にされたことだけは間違いがない。
 当時、金閣寺には徒弟として寄宿している者がみな故郷に帰ってしまったり、軍隊に入隊してしまっていたため、人手不足であったことも幸いしたのかも知れない。
 養賢はこうして、市中の臨済宗系の中学校に通いながら、修行生活をはじめることになった。
 その頃、徒弟として寺で起伏していたのは養賢と、預かり弟子の、教員をしていた二四歳の青年しかいなかった。あとは賄い婦と秘書のような仕事をしていた年配者だけであった。
 ほかに執事がいたが通いであった。通いの者は執事以外にも何人かいたが、戦争さなかのことであり、金閣寺といえども人手不足だったことがうかがえる。 
 昭和一六年の十二月八日にはじまった太平洋戦争は、この頃、日本にとって極めて不利な状況で推移していた。一九年六月になるとアメリカ軍はサイパン島を陥落させ、日本の上空にはB29が飛来するようになっていた。各地の都市が破壊されてゆくなかで、京都の町がいつ空襲でやられるかが心配された。古い歴史と文化財に恵まれた古都が、爆撃の対象外にされているという保証はなかった。当然のことながら、金閣寺を訪れる観光客の姿もめっきり少なくなっていた。暗澹とした戦争下にあって、人の訪れなくなった、いつ空襲で焼きつくされるかも知れない金閣寺がひとり妙に輝いていた。
そうしたなか、養賢の寺での日々の生活は規則正しく果たされていった。朝七時には寺を出て学校に向かった。授業が終わって帰ると、午後の勤めが待っていた。就寝の時間まで養賢は作務衣を身にまとって忙しく動き回る毎日を過ごした。
 だが、その頃はもはやのんびり学校に通えるような状況にはなかった。学生も勤労動員で駆り出される時代になっていた。養賢が通う学校の生徒たちも、近くの工場に勤労動員されることになった。
 そうした状況下の昭和二十年五月、養賢は突然、故郷の成生に帰っている。敗戦間近い頃である。
 これには理由があった。養賢の身体に異変が起きていたのである。勤労動員での労働でも微熱が出たりして、休む日が多かったという。父の病気が彼にも罹っていたのだ。故郷で養生するので、一時、帰省したいという理由を住職に述べている。
   * * *
昭和二十年八月一五日戦争は終わった。敗戦の報を聞いた時、養賢はひどく喜んだという。故郷の成生で過ごしていた養賢は、身体の具合が少し落ち着きをみせたこともあって、再び、金閣寺に戻っている。昭和二十一年四月のことだ。
 寺の生活に戻ってから一年後の四月、養賢は大谷大学に入学している。本人の強い希望を認めて住職が許可したことであった。金閣寺の徒弟僧がにわかに増えたのもこの頃である。
 養賢は大学に通いながら、後輩の徒弟僧の面倒を見るという、忙しくも充実した毎日を送っている。
戦争が終わり、少しずつ社会が落ち着いてくると、金閣寺を訪れる参観客の数も、以前のように増えてきていた。当然のことながら、寺の収入も増していった。それにともなって、寺の秩序もしだいに戦争前の状態に戻り、徒弟僧たちの課業が厳しく要求されるようになるのであった。  
 それと関わりがあったのだろうか。この頃養賢の大学での成績が急速に悪化している。三年次になるとクラスのなかでも最下位に落ちてしまう。成績ばかりではなかった。欠席が目立つようになった。この変化は重大である。養賢の心のなかに、何かの変化が起きていたのである。
 さらに、この心境の変化と前後して、母が成生の禅寺にいられなくなったという事態を養賢は知ることになる。母が成生を去ったのは昭和二四年十月だったが、養賢はそれを翌年になってから聞いている。
四年の新年度に入ってから、養賢は再び大学に通うようになった。住職に成績の悪化を注意され、それで気を取り直して迎えた新学期であった。が、それも五月頃までで、その後は再び休学しはじめる。
 六月になると、遊郭に登楼する金を工面するために、古物商通いをはじめたりした。金をつくり、それで登楼するという、この一連の行為は、養賢の心が急速に崩壊してゆく兆候でもあった。
この頃、養賢はすでに金閣寺を焼くための準備をはじめている。金閣寺の内部に入れるように鍵をぬいておいたり、自殺するためのカルモチン百錠を購入したりしている。
* * *
昭和二五年七月二日の深夜、午前三時少し前のことである。突然、鏡湖池のほとりに建つ金閣が紅蓮の炎をあげた。この夜はしとしとと小雨が降っていたが、火の勢いは強く、風を巻き起こしながら三層の舎利殿を包みこんでいった。
備え付けられていたはずの火災報知機は作動しなかった。故障していたのである。住職をはじめこの寺に起伏していた者たちがとび起きた時には、すでに金閣は大きな火柱をつくりながら、燃え尽きようとしていた。
逮捕されたあとの林養賢の供述が残る。
逮捕直後の第一回の取り調べの際の供述では、放火の動機について、「無意味にやりました」と述べたうえで、悪いことをしたとは思っていない、と語っている。
これが第三回の供述では、その動機について「美に対する嫉妬の考えから焼いたが、真の気持ちは表現しにくい」と変化している。 また、放火した責任は負うが、悪いことをしたとは思っていない、と第一回の供述と同じような気持ちも吐露している。
世間はこの反抗的とも思える放火僧の態度を非難した。新聞もそのような姿勢で記事を書き立てた。国宝を焼いた大罪ということもあってか、犯行から十日後の七月十三日にははやばやと起訴されている。
起訴状は「かねてより自己嫌悪の念にとらわれていたに加え、社会に対して反感の念を抱いて」と、放火の動機を断定している。
ところで、この起訴状は林養賢が供述書のなかで「美に対する嫉妬から火をつけたが、真の気持ちは表現しにくい」と述べている、その不可解とも思える心のあやについては触れていない。
取調官とのやりとりのなかで養賢は、金閣寺が観光収入で支えられている観光寺院であるために、そこが本来の修行の場所ではなくなり、住職を含めてみなが堕落していたことを非難している。そして、それに反省を促すために放火したとも述べている。
 さらに、自分が住職からしだいに疎んじられ、果ては京都の格式ある寺で出世する望みを失っていった心の幻滅についても語っている。挫折感は深かったのであろう。
 そのために、いっそのこと寺を焼いてしまえば、こうした失意や禍根を断てると短絡したのだろう。養賢のこの心の変化は、大学三年の成績が悪化してゆく時期と軌を同じにしている。
 判決は昭和二五年十二月二八日に出ている。林養賢は国宝保存違反容疑で懲役七年という刑を下されるのである。判決文は、犯行の動機について「昭和二四年頃から住職の態度が冷淡となり、且つ他の徒弟に対する態度に比し偏頗であると感じ、住職並に周囲から擯斥せられているように思い、不満と反抗の念を抱くと共に、勉学を怠ったため、他の徒弟にも劣り、住職の後継者となる望みの薄くなったことを悟り、自己の将来に絶望した」結果だと分析している。犯行の動機の真相に近い内容だろう。
 受刑中の林の様子が伝えられている。
 収監されてからの林は、模範囚として刑に服するが、ここでも人間関係に失敗している。吃音のうえに肺結核に冒された人間は、しだいに周囲から疎まれて心身ともに破壊していった。精神に異常をきたすようになるのである。 
 この間、林は、住職に幾度か懴悔の手紙を出している。手紙は自分のやった行為についてひきりに詫びているのが目立つのだが、なかで望郷の思いを募らせて「故郷西徳寺に眠れる曾て私の葬りし精霊の遺族の誰方かに一思ひにこの心臓をえぐり取られ安養の仏のふるさと成生岬の逆巻、怒涛の慈海に還源したいです。この思いに時に駆られます」と書きつけていることに注目する。
 養賢にとって、やはり最後に行き着くところは生まれ育った成生であったことがうかがえる。故郷とは母のいる場所であった。それが心を慰ませてくれる。
 逮捕されたあと、母が故郷から駆けつけたにもかかわらず、母との面会を拒んだ養賢ではあったが(その直後、母志満子は山陰本線の保津峡駅付近で列車から投身自殺している)、それはいっときの強がりであった。
 のちにたびたび母のことを語り、彼の心のなかにあった美しい故郷を思い出しているのである。
 放火事件の一週間ほど前、養賢が故郷成生にひそかに戻っていた、という目撃者の話が伝えられている。となると、それは金閣に放火しようと決めたのちの行動であるから、養賢が故郷に別れを告げに来たと理解できる。 
 立身出世の希望が断たれたのちの絶望感は、そのまま形をかえて、幻郷にまで高まった故郷を想う望郷感へと昇華していった。そして、その望郷感が強まるほどに、養賢にとって厭世的気分が色濃くなっていったのである。故郷はなによりもまして心を癒してくれる場所として映ったのである。
    * * *
養賢のその後のことを書かなければならないだろう。
 昭和三十年十月二九日、林養賢は刑期を満了する。それはちょうど金閣寺が新たに再建され、落慶法要が盛大に行われてから十一日目のことであった。だが、その時、林の身体はもはや元に回復するような状態でなかった。 病はさらに悪化し、四カ月後の昭和三十一年三月七日、午前十一時十分、宇治の病院で、ついにこの世を去ることになる。二六歳のはかない人生であった。
 墓は、父の眠る故郷の成生にではなく、少年期に過ごした安岡の地にある共同墓地に、母の墓と並んで建てられた。死後、母のもとに戻った養賢の魂魄は、けっきょくは鎮められたのであろうか。







真間川~国府台~矢切の渡し

2011-10-29 11:47:49 | 人文
  市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。
 そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。
 荷風が戦後の一時期、この市川に住み、当時のありさまを随筆に書き残していることを知っていたこともあって、一度は訪ねてみたいと思っていた。
 実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。
 今回、あらためて訪ねたとはいえ、はじめての地を訪ねたのと同じ新鮮さがあった。
 散策は、荷風の『葛飾土産』の足跡をたどるようなかたちでなされたのである。
 まず、訪ねた地は、荷風が住んでいたという住まいの跡だった。京成の市川八幡という駅から歩いて数分のところにあったという荷風の住まいは、静かな住宅街の路地のほとりにあった。見越の松が目印と教えられたが、庭木に松を植える家が多いこの界隈では、その家を特定するのが必ずしも容易ではなかった。四十坪ほどの宅地を購入して住まった荷風は、そこに数年住んだだけで亡くなっている。
「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってうなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにあるく男の頓狂な声---」というほどに戦後のある時期、この辺のたたずまいは、深閑としていたことが想像される。
「松杉椿のような冬樹は林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静かな停留所がある。線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙。また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬とも人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。」
 かつての畠は、すでに跡形もなくなり、今や商業地をまじえた一大住宅街になっている。そして、もう片方にあったと記されている農家もすでに一軒もない。時折、長い生垣を構えた家を見るが、それらは、かつて農家であった家々であろう。耕地は切り売りされ、小住宅に変わってしまっている。
「千葉街道の道端に茂っている八幡不知の薮の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。両側の土手の草の中に野菊や露草がその時節には花を咲かせている。流の幅は二間くらいあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということは知ることができた。真間はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。---真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたり至ると、数町にわたってその堤の上の櫻が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、その櫻の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た櫻と同じくらいと思われる。---真間の町は東に行くに従って人家は少なく松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠ととがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田(現在は須和田)とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初めて夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になる。」
 ここにあるような真間川の堤はすでになく、両岸はコンクリートで固められている。両岸には櫻はあるが、古樹と思われる櫻ではなく、近年、植えられたもののようである。
 「弘法寺の岡の麓、手児奈の宮」を訪ねてみた。手児奈伝説にかかわる手児奈霊堂と呼ばれる堂宇があった。伝説にまつわる井戸(乙女、手児奈が身を投げ入れたという)は そのすぐそばの亀井院という寺の境内奥に残っていた。
 弘法大師に所縁のある弘法寺は長い階段を登った丘の上にある。この高台から眺めると、荷風が描写している市川のかつて風景がそれなりに想像できる。広い境内には一茶や秋櫻子の句碑があった。なかでも仁王門が印象深かった。
 市川の地を離れて、つぎに訪れたのは国府台にある里見公園だった。江戸川べりにある城跡でもある園内には、ここで幾度か繰り返された合戦にちなむ史跡を見ることができた。国府台はかつて鴻の台と書かれていたらしく、広重の『名所江戸百景』に、高台から遠く富士を遠望する風景が描かれている。
 国府台に城が築かれたのは室町時代のことで、この城をめぐって、足利・里見と後北条両軍との間で二度の合戦がおこなわれ、五千人ほどの兵士が戦死したと伝えられている。今は明るい公園ではあるが、歴史をひも解けば、血生臭い出来事があったことが知れる。夜泣き石、里見塚、城の石垣などが残り、それを伝えている。 
 国府台を離れて、江戸川べりを歩く。広い土手を歩くのは実に気持ちいい。江戸川は、江戸時代は利根川と呼ばれていた。利根川が銚子方面に付け替えられる前は、渡良瀬川と合した利根川の下流であったのである。
 最後は、矢切の渡しを使って柴又へ出た。「矢切の渡し」といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』が思いだされる。
 この地の出身者でない左千夫が、なぜここを地を舞台にしたかが以前から疑問だった。ところが、その疑問に応えるような記述を最近見つけた。「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」という近親者の証言がそれである。また、ある研究者は「作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されている」とも推察している。
 ところで、当の『野菊の墓』のなかで、矢切の渡しは、「舟で河 から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗するわけでもう船は来ている」と書かれていて、ここでの船は川を渡ったのでなく、川を下ったのである。誰もが船で川を渡ったと思っているがそうではないのである。
 さらに描写はつづく。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も一目をはばかり、一言のことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物を言い得ないで、しょんぼりしおれた不憫な民さんのおもかげ、どうして忘れることができよう」
 「矢切渡し」の名を有名にしているのは、この小説や歌謡曲によるが、「矢切」という地名がまずもって人を引き付けているように思う。その矢切の地名の由来は、かつて国府台合戦があった時、里見軍の矢が尽きて、そのことから「矢切」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。






津山事件-闇に渦巻く怨念-

2011-08-01 11:19:46 | 人文
 
紅葉の季節には少し間がある十月のある日の昼下がり、因美線の美作加茂駅で下車する。いかにもローカル色あふれる小駅は、降りる人の数もわずかである。改札を出て、さっそく目的地までバスに乗ろうと時刻表をのぞくと、つぎのバスの発時刻は一時間も先であった。
駅前の食堂で少し早い昼食をとってから、貝尾方面行きのバスに乗る。バスはのどかな田園風景のなかをしばらく走ると、やがて山峽の山道をぬうように進んでいく。秋晴れの光に満ちた沿道のたたずまいは、あくまで明るく穏やかだ。かつて、このあたりで起きた忌まわしい事件のことなど信じられないほどである。
その事件が起きたのは、昭和十三年五月二十一日の未明のことである。岡山県苫田郡西加茂村、現在の加茂町貝尾集落で、一時間半ほどのうちに三十人もの村人が殺されるという、日本の犯罪史上でも類を見ない一大事件が発生したのだ。
中国山脈の麓にある、平和な山峽の村落で突然起こったその出来事は、のちになって、平和な村落共同体に息づく人間の欲望や複雑にからまった男女関係をあぶり出すことになった。
西加茂村は津山市から北へ二四キロほど入った、戸数三百八十、人口二千あまりの村で、事件の起きた貝尾集落には当時二十二戸、百十一人の住民が住んでいた。
そこは防風林にかこまれた茅葺き屋根の切妻づくりの家屋が、谷間に切りひらかれた村道にそって点々と立ち並ぶといった寂しい山村である。 
この大量殺人を実行した犯人は、貝尾集落に住む都井睦雄という、当時まだ二十一歳の肺病もちの男だった。男は犯行後、みずからの心臓を猟銃で撃ち抜いて自殺した。日ごろ盗みとてない平和な村で起こった事件だけに、その猟奇なできごとに世人は重大関心を注いだのである。
当時の新聞はこの事件を「深夜の悪魔と化した狂へる若者がモーゼル九連発銃と日本刀を提げ、返り血も物凄く村民三十名(うち一名重傷後死亡)を射殺即死させ、一名に軽傷を負はせて自殺した希有の惨劇がぼっ発した」(大阪毎日新聞)とセンセーショナルに報じた。のちに推理小説作家の横溝正史も、『八墓村』のなかで、この事件を素材に使っている。
事件の顛末は次のようなものであった。
その日は肌寒い夜であったという。ときおり月が顔を出すことはあったが、空は雲におおわれ、小雨さえ降っていた。
日頃、村人の間ではとかく噂のあった若者が、何を思ったか、深夜、床をぬけ出て、村人を殺傷しながら村を駆けめぐったのである。その時の男の装いが尋常でなかった。詰め襟の学生服を着て、脚にはゲートルを巻き、地下足袋を履いた姿は、あたかも兵隊の制服を思わせた。そのうえ、頭に懐中電灯をくくりつけ、胸にもうひとつナショナル電灯をぶらさげていた。懐中電灯を頭にくくりつける格好は、昔からこの地方の人たちが夜釣りの時にするスタイルであった。
男は凶器となった日本刀と匕首二口を腰にさし、手に九連発のブローニング銃をたずさえていた。散弾入りの雑嚢は肩にかけていた。銃弾は猛獣狩用の強力なものだった。
男は祖母とふたり住まいだった。男の両親は、すでに本人が幼い頃、結核で亡くなっていた。そのためもあってか祖母は男を盲愛して育ててきた。
男の家には三反ほどの谷間の耕地があったが、それを祖母がひとりで細々と耕して、生計を立てていた。男は生来身体が弱いこともあって畑仕事はしなかった。ほとんど家にいて、ぶらぶらと過ごす毎日であった。それが男の生活を放縦にさせたともいえた。
* * *
 男の犯行の手はじめは、同居していた祖母の殺害だった。寝ている祖母の頚に斧をふり下ろしたのである。首は胴体から離れて、近くの障子にまで飛んでいたという。
じつは、この家で事件が起きたのはこれで二度目のことだった。以前、この家の持ち主が、他家の人妻と無理心中を図ろうとした果てに割腹自殺したことがあった。この家には忌まわしい過去が刻まれていたのである。
祖母を殺したのは、自分が事件を起こしたのちになって、不憫な思いをさせてはいけないと考えたからだと、男は遺書に書いている。祖母を殺すことで、これから実行する殺人行為へのためらいがふっ切れたといえた。男の狂気は、いっそう燃え上がって、このあと文字通り目くるめく行為がつづくのである。祖母の首をはねた男は、その勢いで、自分の家の北隣の家に飛びこんでいる。そこは川本ツギエの家であった。男は、以前からこの家の女が、自分の素行を悪しざまに言いふらしているのを憎んでいたのである。
狙ったのはツギエひとりであったが、その夜、一緒に寝ていた子供ふたりを同時に殺している。この時は日本刀を使った。
日本刀を使い、銃を使わなかったのは、次の目標が、男にとっては、今回の襲撃のもっとも核心部にあたるものだったからだ。銃を使うことで人が騒げば、目的が果たせないと考えたのである。
その目標とされたのは北山タマヨという、これもかつて、男といくどか情交をかわしたとされた女であった。その女が最近になって自分を遠ざけ、そればかりかあらぬ噂を流している、と男は思いこんで憎悪していた。
タマヨの殺害の仕方はそれだけにむごかった。その夜、タマヨは夫と娘、それにタマヨの妹と四人で寝ていたところを襲われたのである。腹部に撃ち込まれた銃弾が内蔵を破裂させた。同時に、タマヨと一緒にいたほかの三人も殺害している。時計の針は午前二時を指していた。
次に襲われたのは、北山タマヨの娘が嫁いでいる川本隆之の家だった。タマヨへの憎しみが、その娘の嫁いだ家にまで及んでいる。ここで男は、その家の夫婦とたまたま遊びに来ていた親類の青年を死亡させている。
男はさらに寺下大一の家に向かう。大一の娘は前から男との間に噂があった女であった。男はその日、女が里帰りしていることを知っていて、この家に押し入ったのである。 
 家の中には大一とその長男夫婦、目標になった娘とその娘の妹二人が寝ていた。ところが、皮肉なことに、狙われた娘は逃げて助かり、ほかの五人がすべて犠牲になった。
男は逃げた女を探して、大一の家のすぐ前方にあった寺下茂治の家に向かった。娘がその家に逃げこむのを目撃していたからである。大一の娘をかくまったその家は、銃声の音を聞きつけて、すでに入口の施錠をかけて息をひそめていた。男はそこを襲ったのである。この家では、結局、家の外から放たれた銃弾のために茂治の父親が射殺されている。 
 男はこんどは道を戻って、先ほど襲った寺下大一の家の南にある寺下トヨノの家を襲った。トヨノは寡婦であったが、この女も男にとっては因縁の濃い関係があったひとりだった。男はそこでトヨノとその長男を殺している。
 灯りという灯りが消えた各家は、深い木立に包まれているだけに、いっそう闇深く、不気味に静まりかえっていた。男は用意周到にも、数時間前に村の電線を切断していたのである。 
 男は自分の住まいの方向に転じて、寺下万吉の家を目指していた。この家には、二人の娘が養蚕仕事の手伝いにやって来ていた。ふたりの娘は男とは以前から知り合いであったが、最近少し疎遠になっていた。それを、男は二人が冷たくなったと思いこんだのである。
男が万吉の家に踏み入った時、ふたりの娘は養蚕室でぐっすり寝ていた。その二人をたてつづけに射殺したのである。ついでに万吉の息子の嫁を撃っている。
この時すでに男は二十二人を殺害していた。あらためて銃に弾をこめて、万吉のすぐ裏の家、南波丑一の家に姿を現した。じつは、丑一の母と男とは以前関係があった間柄であった。そして、その娘は今少し前、万吉の家で殺されていた。男は養蚕室で仕事をしていた丑一の母に重傷を負わせている(のちに死亡)。さらに、男は村の北のはずれにある池山一男の家に急いだ。急いだわけは、すでに、村人の誰かが駐在所に走ったと察知したからである。
池山の家は、寺下スミ子という三五歳の女の実家であった。スミ子は最初に殺された北山タマヨとともに、男に最も憎まれていた女であった。スミ子も男と情交があったとされる女である。スミ子はすでに嫁いで、村を離れていたにもかかわらず、憎悪はその女の実家にも及んだのである。
池山の家で犠牲になった者は、一男の妻とその子供、それに一男の両親の四人であった。一男はあやういところを逃れて駐在所に走った。男は犯行をかさねるごとにその憎悪をたぎらせていった。そして、その憎悪の対象を拡大していく
男がつぎに向かったのは、寺下某という資産家の家だった。寺下は金にまかせて近隣の女たちと関係をもっていた人物のように言われていた。男はそういう寺下を憎んだ。それは決して義侠心からではなく、いわば、妬みからのものだった。
 この家ではその女房が犠牲(十二時間後に死亡)になった。寺下は二階に逃げ、窓から大声で助けを求めた。彼の家は高台にあったために、恐怖におののいた叫び声が村々にこだましたという。  
 男は思い出したかのように、こんどは、そこから二キロも離れている隣村の西端にある岡本カメヨの家を襲った。カメヨは前に男と関係があったが、今は男を遠ざけていた。それが狙われた理由だった。カメヨの家では彼女とその夫が災難に遭っている。
男の殺戮行動は、ここでようやく終息した。午前三時少し前であった。それにしても息づまるような犯行内容である。燃えたぎった憎悪が、とどまることをせずに拡散した感がある。
すべての犯行を終えた男は、犯行現場になった集落の下にあたる、隣村の楢井集落のとある家に現れ、そこで紙と鉛筆を所望してから立ち去って行った。それは、明らかに遺書をしたためる行為のように思われた。
 凶行ののち、男は、その家から南方に行ったところにある荒坂峠をめざした。
 その峠は、かつて、農民一揆の結集地としてしばしば利用された場所であった。江戸時代、津山藩の治世下にあったこの地方には、農民一揆が絶えなかった。そのため、この一帯は強訴谷とも呼ばれていたのである。
 検事報告書は描写している。「深々とした夜の静寂、冷然たる夜気、ひたひたと這い寄る木の精の呼吸、点滅する星屑、その中を全身返り血を浴びて悪鬼の如く、自らの冥路へ急いだ犯人の全霊を把えたものは何であろうか」と。
 男は峠をこえた仙の城山と呼ばれる山の頂きにたどりついた。そこからは男が卒業した小学校の校舎が見える。男が過ごしてきた貝尾の集落も一望である。   
 男の表情は、その時すでに穏やかだった。今の今までおこなってきた、みずからの行為がまるで嘘のように思えた。静かな気持ちで、来し方をふりかえり、遺書をしたためることができるような気がしていた。
 一方、急を知らされた西加茂村駐在所では、ただちに津山警察署と隣村の駐在所に応援を求め、あわせて消防団の手配をした。その結果、一市十一カ村から千五百七十数名におよぶ捜査陣が集まり、警戒網が敷かれた。
捜査をしているさなか、犯人が紙と鉛筆を所望した家から少し行った路上で、一通の遺書が発見された。さらに、周辺に残された足跡をたどって行くと、仙の城山の広い草原がひろがる山頂に出た    
 捜索隊はそこで、シャツ姿のひとりの男が、血の海のなかで仰向けになって死んでいるのを見つけた。男は足の指で銃の引き金を引いて、みずからの心臓を撃ち抜いていたのである。午前十時半頃のことであった。
   * * *
 この異常な犯行の真の動機はいったい何であったのだろうか。
 たったひとりの身内であった姉に宛てた遺書の中で、男は犯行の動機について「自分も強く正しく生きて行かねばならぬとは考えていましたけれども、不治と思われる結核を病み、大きな恥辱を受けて、加うるに近隣の冷酷圧迫に泣き、ついに生きて行く希望を失ってしまいました。・・・僕もよほど一人で何事もせずに死のうかと考えましたけれど、取るに取れぬ恨みもあり、周囲の者のあまりのしうちに、ついに殺害を決意しました」と述べている。男にはそのころ縁談話がもちあがってもいた。
 ここに書かれている「取るに取れぬ恨み」とか「周囲の者のあまりのしうち」の実態は、実は、集落内の限られた女たちとのかかわりのなかで生じた事柄を言ったもののように思える。
 遺書の中で具体名をあげられた女もいた。犯行の向けられた対象が、そうした女性たちであり、その女性たちとかかわりがあると思われた者たちが襲われたのである
せまい村落共同体における人間関係がきわめて閉鎖的であるのは、この村に限ったことではない。閉鎖的であるがゆえに起こるさまざまな問題が、ある場合には陰惨に現れることすらある。 
 共同体が異質分子を、いわば、村八分的に扱うことで排除するということが、しばしば日常的に行われていた時代である。
 当時の西加茂村は、農村地帯とはいえ、山峽にわずかに切り開いた、地味の悪い耕地で農業と養蚕を主な生業にしていた。ために、村民の生活は決して豊かなものではなかった。加えて、孤立した地理的環境は、村落に昔ながらの因習をはびこらせることにる。たとえば、この事件に影を投げかけている性の放縦という問題も、そのひとつである。
犯人都井睦雄も、そうした村の因習に、若者なりのかかわりをしていたのである。ところが、それが、やがて近隣との関係に破綻をきたすことになり、ついには、殺人行為へと飛躍していった。 同じような因習的行為をしていた者がほかにいなかったわけではなかった。にもかかわらず、ひとり都井睦雄の場合に限って、このような事件にまで発展してしまった理由は、いったい、どこにあったのだろうか。
彼が結核という病をかかえていたのが最大の理由だったかも知れない。結核は伝染するために、その恐怖心から偏見にちかい反応が村人の間に生まれたことは否定できない。 そうした村人の態度が、猜疑心の強い彼の性向をいっそう被害妄想にかりたて、関係者への憎悪が研ぎすまされ、犯行に跳梁したといえないだろうか。 
 当時、この事件を担当した検事の報告書も「かくの如くに彼は自己の肺患をその実相以上に重患と妄想し、人生の希望のすべてを失って自暴自棄に陥った一面、肺患の独居は彼の情欲を不自然に昂進せしめて、無闇やたらに近隣の婦女子に手を出しはじめた。しかし、その情欲は到底容れられるべくもなくしてほとんど全部相手方の拒絶に遭い、徒らに村民の軽蔑と嘲笑を買うのみであったが、それは本来極端に我の強い彼にとっては堪えられない苦痛であった」と述べている。 
 ここでは男が自己顕示欲の強い性格であったこと、また、病気が性欲を昂進させた(男は二年前の同じ月に起きた阿部定事件に異常な関心を示していたという)ことにも触れて、犯行の理由にあてている。いずれにしても、娯楽のひとつもない閉鎖的な村の生活のなかでおこなわれていた夜ばい的風習が、この事件によって、あらためてあぶり出されたのである。
   * * *
 言われるように共同体は、制度以前にすでにあった地縁組織であり、いわば生産を共同で行うためのシステムである。その目的は相互扶助であり、それゆえに、「その内部で個人の析出を許さず、決断主体の明確化や利害の露な対立を回避する情緒的=結合態である」(丸山真男)ことを特徴とする。
 問題が起こっても、それを表に現さない。まるくおさめる。たとえ、それが近代的なものの見方からみて、淫靡な旧習であっても、共同体のお互いが認め合うことによって容認されてゆく。
 こうした村落共同体における人間関係は、それが情緒的であるがゆえに、非合理な様相を呈する場合があるものである。そうした場での人間関係をうまく乗り切るためには、みずからを相手に預ける態度がもっとも有効だとされる。 
 そこでは人のかかわり方が無限に近くなり、密着したものになる。粘ついた関係がつくられる。その前提には、互いに気心の知れた、信頼関係がつくられていなければならない。そこにあるのは身内意識である。  
 ところが、この無限に近しいかかわり方も、ひとたび、それが崩れると、無限の遠さに変容する。それは素っ気なさであり、知って知らぬ顔、触らぬ神にたたりなし、という態度となって現れる。都井睦雄が近隣の村人から投げかけられたまなざしは、まさにそれであった。  
 相手と一体であろうとする、こうした共同体的かかわり方は、結局、甘えの構図をかたちづくることになる。都井睦雄の心理に見え隠れする甘えは、祖母に、姉に、さらに憎悪の対象であった女たちにまで拡散している。 甘えは、自分が甘えるその相手を独占しようとする態度に出る。それが拒まれると、逆に強い嫉妬心がわきおこり、彼はその障害物を取り除こうとする。都井睦雄にとって、かかわりをもった女の夫や親までが邪魔者と映ったのである。
 一方、甘える当人にとっても、相手が意のままにならないがために、その心はいたく傷つくことになる。やがて、それはある限度を超えることによって被害妄想に近い状態になる。日頃から近隣の者たちから疎まれていればなおさらである。
 さらに、都井睦雄の生来の執着気質が、いっそう、それに拍車をかけたといえる。都井睦雄の狂気は、言ってみれば、彼の生まれ育った土地の風土性と何らかの形でつらなっていたのかも知れないのである。


太宰治情死事件-母胎回帰の水底-

2011-06-04 13:22:57 | 歴史
梅雨時のつめたい雨が身体にしみわたるようなある日、ふと、自分の生命を雨のなかに溶けこませてしまいたい衝動にかられ、実行した作家がいた。その名を太宰治という。病魔がいずれ自分自身をむしばみつくすだろうという暗い予感を先取りするかのように。
太宰治情死事件は、いずれ起こるであろうできごととして世間は受けとめていた。というのは、この作家の描く作品と人生には常に女にからむ自殺とか心中とかがちらついていたからである。
太宰の作品には私小説的小説(そこに描かれているものがすべて私生活の表出であるというわけではないが)が多い。それらに共通しているのは、自虐的ともいえる自己の告白である。
太宰治という作家には、自らの生い立ちの枷から逃げられないという意識がつねにつきまとっていた。その証拠に彼の作品のなかには幾度も幼少期の思い出が登場する。
 遺書がわりに著したという処女作『思い出』という二十三歳の時に書かれた自伝小説のなかに次のような下りがある。
「叔母についての追憶はいろいろあるが、そのころの父母の思い出は生憎と一つも持ち合わせない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だったはずであるが、叔母を除いて他の人たちのことは私も五六歳になるまでほとんど知らずにいたと言ってよい」 
 母親がわりの叔母の手によって育てられた太宰にとって、いわば自分は余計者であるという思いがぬぐいがたくまとわりついていた。小学校の頃、綴り方の時間に「父母が私を愛してくれない」と不平を書き綴る少年であったのである。
  そうした子供であった太宰にとって、家族のなかで、とくに母は冷たく、遠い存在に感じられた。大家族という制度は子も母をもたがいに親しく温かい人間関係をもてない状態においたといえる。
 母の愛情を欠いた生い立ちは、逆に母に甘えたいという思いと、甘えさせてもらえない「かつえの感覚」(鶴見俊輔)を増幅させて、その後の太宰の生き方に暗い影を投げかけることになる。
ここにある母親像は、まさにユングの説くグレートマザーを彷彿させる。生につながる温かさ、優しさを与えてくれる善母としての母親像と死につながる恐母としての母親像。この相矛盾するふたつながらの母親像に、作家太宰治は終生こだわらざるを得なかったのである。
母の愛の欠如と大家族の形式ばった欺瞞にみちた人間関係のなかで、この作家は傷つきやすい鋭利な感受性の持ち主となってゆく。 みずからを招かざる人間と意識し、その結果として、人間関係においても多面的ならざるを得ない、「十重二十重の仮面がへばりついている」人間であると認識する少年は、ある時、自分が作家になることを願望する。
 すべてについて満足しきれない自分、いつも空虚なあがきのなかにいる自分の本質を創作という行為をつうじて見極めようと決意したのである。
* * *
作家になることによって企図しようとしたものが、どれほど実現されたかは定かではないが、最晩年の『人間失格』は、太宰が「幼少時から自分の身体中にためてきた毒素をやっとのことで吐き出した」(ドナルド・キーン)作品ともいえた。
その小説は、ひとりの男が遺した手記という形式をとっている。そこにフィクションが介在しているとはいえ、この作品を読む者にとって、その内容は、まさに太宰治その人の人生であることを知るのである。
その男は「人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間をどうしても思いきれない人間」として描かれる。このような対人観をもつゆえに、「おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィス」に心を尽くす態度で世間を泳ぎまわることになる。
 それは、何でもいいから笑わせておけばいい。とにかく「彼ら人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空だ」という生き方に徹することを意味する。
 男は、すでに「子供のころから、自分の家族の者たちに対してさえ、彼らがどんなに苦しく、またどんなことを考えて生きているか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪えることができず、すでに道化の上手になって」いるような人間であった。
 ここには余計者的な存在者として、あらゆる執着から解き放たれ、流れゆく、みずからを生まれながらの異邦人と位置づける姿勢がみえる。
 が、成功したかにみえたそうした道化の態度を見透かす人間がいるのを発見する。 
 それは女であった。女は自分の孤独の匂いを本質的にかぎつけては近づき、自分につけこむ存在だ、ということを知る。
「自分には、人間の女性のほうが、男性よりさらに数倍難解でした。自分の家族は女性のほうが男性より数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、また、れいの犯罪の女中(少年期、女中に犯されたと告白する)などもいまして、自分は幼い時から、女中とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思いますが、また、しかし、実に薄氷を踏む思いで、その女たちと附き合って来たのです」
女性に取り囲まれる環境で育ったゆえに、その人間関係の難しさを語る。「女は引き寄せ、つき放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳にし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる」と、矛盾に満ちた女心について鋭い観察をする。
 そして、女は「同じ人類のようなでありながら、男とはまた、まったく異なった生きもののような感じ」だとみなす。
 この女性観は、太宰自身の、幼少期における母親との関係を暗示する。さらに、女たちに取り囲まれた大家族のなかでのナーバスな人間関係を反映していて興味をひく。
 とはいえ、その一方で、「人間を恐れていながら、人間をどうしても思いきれない」その男(じつは太宰)は、大人になったのちも、幾人もの女性たちの間をわたり歩くことになる。
 妻子のある身でありながら、愛人をもち、さらに別の女性と親しくなってゆく、という女性遍歴を重ねてゆく。ここには理想の女性を追い求めて遍歴をかさねる男の姿がみえる。 さらに、絶筆となった作品『グッドバイ』では、「多情なくせに、また女にへんに律義な一面を持っていて」、それがまた「女に好かれる所以でもある」男を登場させ、その男がかかわる女との別離百態を描く。
 この作品もまた太宰の自画像に近いものであった。だが、そうした性向が、やがてこの作家自身を追いつめてゆくことになるのである。
 * * *
 最後の女性山崎富栄(30歳)と知り合ったのは、昭和二十二年二月。中央線三鷹駅前の屋台でのことであったという。
 やがてふたりの仲は急速に深まり、女は太宰の執筆の仕事を手伝うようになる。
この頃から死の直前までに書き上げた作品に『斜陽』『ヴィヨンの妻』『人間失格』
『桜桃』『グッド・バイ』(未完)などがある。いずれも太宰の代表的な作品ばかりだ。 だが、結核を病む身体を鞭うっての執筆の連続は、太宰の命を、さらに切り刻んでゆく。この頃には、不眠症もひどくなり、しばしば喀血する事態になっている。 
 そうした状態のなか、ついにふたりは心中を決意する。六月十三日の夜、降りしきる雨のなかでの心中行であった。
ふたりが最後を過ごした富栄の部屋には、ふたりで撮った写真と質素な祭壇がつくられていた。そこには、入水を暗示する「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という太宰の筆になる伊藤左千夫の歌がそえられていた。
だが、この心中は、男と女が思い思っての果てのものではなかった。それは「ただひとりの男に対する恋情の完成だけを祈って、半狂乱で生きている女の姿にほだされた」(臼井吉見)男が、せっぱつまって女をともなった心中行であったといえる。
いかにもこの作家らしい死に方であった。それは「いつわり、おもいやり以外のなにをよりどころとして、この無意味な人生を生きのびようか」と考える作家太宰が最後になした人生の実践でもあった。
ふたりが入水したのは、玉川上水のむらさき橋と萬助橋との間である。現在、武蔵野市と三鷹市の市境にあるこの辺りは、玉川上水緑道として、きれいな遊歩道が整備されていて、格好の散歩道になっている。
 遊歩道の連なる玉川上水のほとりは、コナラ、ミズキ、エゴノキなどの雑木がうっそうと繁り、季節になればアジサイやシャガの薄紫色の花が咲くといった場所である。
 鉄柵の外からのぞき見る上水の流れは暗く深い。上水の役目を終えた流れには、今や鯉が泳ぎ、鴨が遊んでいる。  
 水死体は、『朝日新聞』の報じるところによると「十三日夜から七日目、太宰氏の誕生日に当たる十九日、午前六時五十分ごろ三鷹町牟礼五四六先玉川上水の新橋下(投身現場から一キロ半下流)の川底の棒クイに抱き合ったままでかかっているのを通行人が発見」した。  
死体が発見された新橋は、むらさき橋の下流四つ目に架けられた橋である。互いの脇の下から女の腰ひもで離れないように堅く結び合い、家出の日の姿そのままの、太宰はワイシャツにズボン、山崎は黒のワンピース姿であった。
ふたりが失踪したその日の夜半から、それまで空梅雨模様であった天候が急変し、わびしい雨が降りつづいたという。失踪の翌日、現地を訪れた作家の石川淳は、当時の模様をつぎのように描写している。
「さみだれの空くもって日の影はどこにも無い。足もとを見れば、ただ白濁の水の、雨に水かさを増して、いきほひはげしく、小さい滝となり、深い渦となり、堤の草を噛んで流れつづけていた」(『太宰昇天』)
玉川上水は、むらさき橋の下流に架かる萬助橋から牟礼橋にかけて、幾つものカーブを描いて流れるようになる。格好の遊歩道になっている堤を歩いて行くと、「松本訓導殉難碑」の大きな碑が目に入る。
 この碑は、大正八年、遠足のおり、この流れに落ちた児童を救おうとして遭難した小学校教師の慰霊碑である。こうした事故があったくらいだから危険な場所だったことが分かる。地元では「人食い川」と呼ばれた上水道であった。
上水の流れは新橋で大きく曲流し、水深も増す。右岸は小高い丘となり、左岸には谷が迫る。この一帯は、今でこそ住宅が建てこんでしまっているが、谷と丘が入り組んでいて、それだけに流れが複雑になっているところである。
 ついでながら、この玉川上水は、江戸市民に飲料水を供給する目的で、承応三年(1654)に開削されたものだ。江戸のはるか西、羽村から多摩川の水を江戸市中に引き入れたものである。玉川兄弟が工事を指揮して、一年四カ月をかけて完工させている。
  太宰はかつて、この玉川上水のほとりを親しく散策したことがあった。牧歌的な堤にたたずむマント姿の記念写真が残されている。五メートルにも満たない川幅の上水の流れを眺めて、太宰は何を思ったことだろうか。
* * * 
太宰の一生を思う時、彼の人生観は「ただ人生は過ぎて行きます」(『人間失格』のなかで主人公の手記の末尾に記されている言葉)ということであったように思える。
 絶筆となった『グッド・バイ』の連載にあたって、作者は「漢詩選の五言絶句の中に、人生是別離の一句があり、私の或る先輩は、これをサヨナラだけが人生ダ、と記した。まことに相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれど別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」と語っている。
この拭いがたい流離感は、太宰の心に深く刻まれた過去の深い体験から派生したもののようである。それが太宰の生涯をつうじての生の基調であった。
 そして、流離の果ての安住の地として心に描いたものが母胎への回帰であった。そこにこそ安らぎの場所がある、と思い描いたのである。
水の流れには、永遠と生のはかなさを暗示するものがある。つねに流れ、姿をかえ、そして呑みこむ水の流れ-それは、そのまま母のメタファにつうじる。
 この作家は、水と一体になり、死ぬことでそこに還り、再生する、永遠に母なるものに身をゆだねた、と解釈できないか。
日本浪漫派の旗手、保田輿重郎は、かつて、あやしくも心もとなく流れてゆくこの作家について、「佳人水上を行くがごとし」と評した。その評価のように、太宰治という作家は、玉川上水の流れに、女とともに身を投じたのである。
ふたりの遺体が発見されたその日は、奇しくも太宰治、満三九歳の誕生日であったという。その後、六月一九日の命日は、「桜桃忌」と呼ばれるようになる。そして、墓は遺言にしたがって、三鷹の禅林寺にある森鴎外の墓と向かい合う場所に建てられたのである。




亀戸事件---大地鳴動の底で

2011-04-19 19:24:29 | 歴史
大正十二年九月一日、東京、横浜を中心にマグネチューード七・九の烈震は、首都壊滅という誰もが予想しなかった未曾有の事態をまねいた。その混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をくわだてている」という流言飛語が飛び交い、その後、忌まわしい虐殺行為がくりひろげられたのである。
 私は、その事実を知った時、そうした社会心理の発生は、この平成の現代でも無関係ではないな、と直感した。あの阪神大震災の際にも、どこからともなくそのような流言が起きたと聞く。
 流言は不特定多数の人間が住む大都市でこそ、その真価を発揮する。都市の不透明さが流言のひろがりを容易にする。そしてそれに惑わされる人々の恐怖心も増大する。流言は場所に定着せず、文字どおり流れ飛び、流言飛語となる。どこから発したかも確認できないまま、デマはデマを及び、人々はそれに惑わされ動き出すのである。
         * * *
 関東大震災とよばれるその大地震は、昼餉の支度をしている、ちょうど昼時に起きた。 
 それが被害を拡大することになった。各家庭で使っていた火が大火災の誘因となったのである。火はおりからの風に煽られ大旋風をともなって、延べ三日間、四十時間にわたって燃えるにまかせた。
 とくに東京の下町地区の被害は甚大であった。地盤の弱い土地柄のため、木造家屋の倒壊がめだち、その結果、火災が発生した。大火災は九月三日、午後になってようやく鎮火したが、帝都の大半は文字通り焦土と化した。
 地震と火災による死者は東京市にかぎっても五万八千人、被害世帯数は全世帯の七三%、三五万四百世帯におよんだ。
罹災者が広場や公園、焼け残りの施設にあふれた。恐怖と飢餓がないまぜになって、市中の混乱は極度にたっしていた。
 この状況をうけて、治安当局は、九月三日夕刻、首都にたいする戒厳令の布告をしている。戒厳令は大日本帝国憲法八条にもとづく行政戒厳令で、これは平時の際に発令される戒厳令だった。
そもそも戒厳令布告の決定の背景には、警察当局の秩序維持にたいする極度の不安-それはやがて朝鮮人が暴動をくわだてているという予断へと変質してゆく-があった。
時の内務大臣水野錬太郎は、後日、戒厳令布告をきめたのは「朝鮮人攻め来るの報」を耳にしたからだ、と語っている。それはあくまで流言飛語であったが、予防措置としての朝鮮人の「暴動」取り締まりが、警察と軍隊の通信網をつうじて伝えられることになるのである。 
 このようにして「暴動」取り締まりは現実のものとなって動きはじめ、さらには同じ不逞の輩としての「主義者」をも取り締まりの対象としてゆくことになった。
大震災による混乱のもとで、信ずるべき情報は警察情報だけであった。しかも、その警察情報がこともあろうに虚偽の内容に基づいて流されたわけだ。
 やがて、東京のあらゆる地区に自警団なるものが組織されることになる。自警団は警察から暗黙の権限をあたえられ、公然と朝鮮人制圧活動をはじめるのである。
ここにいたって、大震災という天災のあとに、目を覆いたくなるような朝鮮人にたいする蛮行や虐殺、あるいは「主義者」の惨殺がおこなわれることになった。
     * * *
東京市における朝鮮人虐殺の事実は、下町地区を中心に関東一円にあったが、なかでも府下亀戸地区でくりひろげられた惨劇はその代表といえた。
十月二十一日付けの『読売新聞』は、当時の亀戸地区の状況をつぎのように伝えている。
 「震災当時、最も東京市内鮮人騒ぎの激しかったのは、江東・南葛方面で、亀戸署の如きは、平常管内二百三十六人の多数が居住し、これら全部筋肉労働に従事し、猶同種の支那人が二百名近くも居る事とて非常の騒ぎで荒川放水路を境として東南から東京方面にかけて、・・・まるで戦場のような騒ぎで、二日から五日にかけて、亀戸署の検束者七百二十名中四百名は鮮人であり、また彼の自警団員秋山藤次郎外四名、南葛労働の平沢外九名の死体と共に焼棄した百余命の死体中には、之等○○○(伏せ字)く、これは至る所で惨殺されていて路傍に棄てられていた」
この記事が明らかにしているように、大震災後の混乱のなかで朝鮮人の殺害ばかりでなく、亀戸地区に拠点をおいていた労働組合幹部の虐殺がおこなわれたのである。世にいう亀戸事件である。
当時、南葛(南葛飾郡の略、現在の江東地区)地区は、「我国に於ける左翼労働者運動のいち早き発祥地 であり、それはやがて左翼労働運動の本流をなし、無産階級解放運動全体の上に絶大なる影響をもたらした根拠地」(『評議会闘争史』-野田律太)であった。亀戸事件とは、そうした日本の労働運動の拠点を壊滅させようと、日本の軍隊がその活動家十名を抹殺した事件だったのである。
彼らの虐殺の模様はつぎのようなものであった。
虐殺は九月四日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。
刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23、加藤高寿30、山岸実司21、近藤広造26、北島吉蔵20、鈴木直一24、吉村光治24、佐藤欣治35の八名、それに純労働組合の平沢計七34、中筋宇八25 の二人をくわえた計十名であった。
 南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく六人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町三五一九番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。九月三日、夜十時すぎのことであった。
同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれも同時刻なのがきわめて計画的であることをうかがわせる。
 彼らの逮捕は当初から意図的であったために、その抹殺のされ方も計画的であった。ことさらの理由もないまま闇から闇へ、彼らは犬のように刺殺されていった。
「復も社会主義者九名、軍隊の手に刺殺さる。亀戸署内に於ける怪事件、死体は石油を注いで直ちに焼却す」(『東京朝日』十二・十・十一)
 一カ月以上もあとの十月十一日付けの『東京朝日新聞』の見出しの記述である。「復も」というのは、実際は、この事件のあとで起こったものだが、世間に報道されたのが先であった大杉栄の虐殺事件を指している。そして、「軍の手によって」とある軍隊は、近衛騎兵第十三連隊の田村春吉少尉とその部下の兵たちである。
活動家十名を逮捕した警察は、当時、亀戸周辺の警備にあたっていた近衛連隊に彼らの処分をまかせたのであった。警察と軍隊とが手をむすんでの虐殺行為である。
虐殺は大震災の混乱のどさくさのなかでおこなわれたため、殺された日時も場所も現在では推定の域をでない。が、周辺の状況、目撃者の話から総合すると、九月五日の早暁、亀戸警察署内の中庭で刺殺されたらしい。
ところで、新聞が報じるように、犠牲者は直ちにその場で焼却されたのであろうか。死体焼却場所については異説もある。付近の荒川(放水路)の河原に運ばれ、そこで焼却されたとも、大島八丁目の沼の多い原っぱで焼却されたともいう。
が、これらの風説はいずれも単なる憶測ではなかった。実際、これらの場所には焼却された死体があったのだから。
そもそも亀戸地区の地震被害は、他の箇所と比べると少なかった。にもかかわらず、というべきか、それゆえにというべきか、忌まわしい虐殺行為が最も激しく、大量におこなわれたのである。
伝えるところによると、この地区での虐殺行為の発端は、習志野から派遣された軍隊が、亀戸駅付近に集まっていた罹災民のなかにまぎれていた、ひとりの朝鮮人を血祭りにあげたところからはじまったという。しかも、その行為を目撃していた群集のなかから、期せずして万歳歓呼の声がわきあがったというのだ。九月一日の午後のことである。
この時期、朝鮮人来襲という流言飛語は不安と恐怖にかられたこの地区の住民の心を完全にとらえていた。彼ら住民は自警団を組織し、見えぬ敵の来襲にそなえたのである。
攻撃は最良の防御でもあった。自分たちの周囲にいる朝鮮人を捕らえろ、という声が卒然として巻き起こったのである。その後は集団ヒステリーにも似た心理状態での虐殺の横行であった。
亀戸地区を中心に大島町の各所でおこなわれた虐殺は悲惨をきわめた。軍隊と警察と自警団が連合して、朝鮮人及び中国人労働者、社会主義者を殺戮したのである。
      * * *
 その土地のイメージといったものがある。亀戸地区が治安当局からは労働運動の拠点としてみられていた、というのもひとつのイメージである。
 一方、この地区が、外国人労働者、主に朝鮮人、中国人の多く住む場所として知られ、それゆえにつくられた民族的偏見にもとづく場所的イメージというものもあった。
取り締まり当局は、これらふたつながらのイメージを、大震災の混乱に乗じて一挙に払拭すべく、虐殺という行為をもって試みたともいえる。それは「峻厳、人の肝を寒からしめる」ことを目的とした行為であった。
当時、日本の大都市の周辺には多数の朝鮮人が住みついていた。彼らのほとんどは、日本の植民地政策により母国の土地を奪われた農民であった。ある者は土木工事の飯場などに集団的に住みつき、ある者は工場労働者として働いていた。
江東・南葛地区には、明治三十年代から多数の工場が誘致されていた。これらの工場は、いずれも職工数千人をこえる規模をもち、竪川や横十間川、北十間川などの運河沿いに点在していた。
工場群が川沿いにあったのは、原料および製品の運搬をすべて船運にたよっていたためである。そもそもこの地区に工場が多く集まるようになったのも、水運に恵まれた土地柄ゆえであったといえる。
 ちなみに、大正十一年の業種別工場分布をみてみると、亀戸地区だけでも化学工場六四、機械工場六一、染色工場二十二を数える。いかにこの地区にたくさんの工場が集まっていたかが知れよう。
 朝鮮人などの外国人労働者がこの地区に多かったのはそうした理由からだった。
彼ら外国人労働者、とくに朝鮮人労働者が、不逞朝鮮人の名のもとに、蛮行の対象になったのは、民族的偏見からであることは明らかである。
 それも日常的差別によって、彼らから恨みを買い、報復されかねないという日頃の疑心から発した行為であるとすれば、これほどおぞましいことはない。
     * * * 
大正という時代は、東京がモダン都市化してゆく時代であった。都市化の進行によって、都市のなかに暗闇が成立する。それは秘密めいた空間である。治安当局が、そうした空間をうさん臭い、禍々(まがまが)しい場所ととらえたのも当然であった。
 そして、その闇の部分を力でもって取りのぞこうとした。大震災の混乱に乗じておこなわれた虐殺行為は、そうした意図のもとで起きたのである。
 犠牲者たちは、いずれも正式な死亡届けのないまま、戸籍から消されず、それゆえに墓もない状態であるという。現在、亀戸天神にほど近い浄心寺というこぢんまりした寺に「亀戸事件犠牲者之碑」がひっそりと建つばかりである。