こういうことを書いてはいけないのかもしれないが、多くの人に支持された作品であっても、これはこれで良いのだろうか、と思うことがある。

 

のだめ、すなわち、のだめカンタービレ、これは、二ノ宮知子の作品で、上野樹里と玉木宏主演でテレビ化・映画化したことによって、さらに大きく火がついたし、私も大のお気に入りであるが、唯一、納得がゆかないのが、千秋がのだめにふるう暴力である。

 

漫画版もテレビ、映画も、とくにかく、大げさに演出することによって、それを「暴力」として見せないように「努力」をしているのが、よく伝わってくるから、読む側、見る側としては、そこにはふれないようにしてしまう。

 

だが、冷静に考えてみてほしい。決して千秋はDV男などではない、と言い切ることは誰にもできまい。

 

・・・と今更ながらそんな話をするのは、少し前にTVアニメ化された吉田秋生の「BANANA FISH」を見はじめ、彼女の作品を立て続けに読んだからだ。


「BANANA FISH」のみならず、吉田の作品には、数多くの「暴力」が描かれている。それは、以下のもの(読んだかぎりで)でも同様である。

 

「カリフォルニア物語」
「吉祥天女」
「夢みる頃をすぎても」
「河よりも長くゆるやかに」
「YASHA-夜叉-」

 

しかも、この「暴力」は、千秋がのだめにふうる「暴力」とはまったく異なる性質を持つ。

 

あえて言えば、「暴力」を問うための「暴力」の表現になっているように思われる。

 

ときおり吉田の作品には、男性が女性にふるう性的暴力がテーマとして登場する。とりわけそれは「YASHA-夜叉-」が顕著である。また、「男性」が「女性」に、というのは、必ずしもそのことばかりを指すのではなく、「強い者」が「弱い者」にふるう「暴力」ということで、大人が少年に対する「暴力」も同じようにとらえられている。とりわけそれは「BANANA FISH」に強く表れている。

 

吉田はこうした「暴力」にきわめて直接的に不快感を示している。

 

穿った見方をすれば、彼女の作品に表出する「暴力」は、こうした不快感に対する「反発」もしくは「報復」のようである。

 

当然それがもし「報復」であれば、日常の「倫理」としては許されるものではない。だが、作品としては、カタルシスとして、補償的行為として、受け止めることができなくもない。

 

これはやや、危うい手法ではあるが、吉田の作品がもつ魅力の一つは、こうした「暴力」に立ち向かう「強さ」が「暴力」として表現されているところにあるのではないだろうか。

 

人は誰でも、どれほど注意したとしても、知らぬ間に他者に「暴力」をふるうことがある。自分が「強者」であり他者が「弱者」であることに気づかないことがある。

 

そうしたことが世の中では、しばしば、生じている。そのたびに、「痛み」や「悲しみ」「苦しみ」は生まれている。それは決して小さなものではなく、長く、深く、その人の心の中にとどまり続ける。

 

吉田の作品を読んでいると、私は、こうした「痛み」や「悲しみ」「苦しみ」の大きさに、ただただ、慄然とする。