2011年3月11日以降も、数年にわたって、大変な日々があった。
はっきりとした被害のあった方、あっという間に命を奪われた方が身近におられた方はもちろんのことであるが、のみならず、そうではない人たち、つまり、ある種のカタストロフィーが、自分も他人事ではなく、どうこの事態と向き合えばよいのか、問われたのだった。
そして、2020年3月11日、その前後から、新型コロナウイルスの感染が、大きな脅威、深刻な脅威となっているが、これもまた、他人事ではない。
いつのまに、事態を傍観している自分がいるかもしれないが、ただちに当事者になろう。
すなわち「観戦者」ではなく「感染者」であるかもしれないという自覚を持とう。
かくいう私は、ここのところ、微熱が続くとともに、のどの痛みがあある。
微熱というのは36.9度にすぎない。しかし、平熱は36.0度なので、1度近い「高熱」となっている、とも言えなくもないが、控えめに「微熱」と言っておく。
そもそも政府から出ている指標は「37.5度以上」ということなので、こんな私は、ただの便乗詐欺みたいな扱いなのであろう。
ともあれ、私が本当に感染しているか否かはさておき、こんな状況、こんな事態で、一体、どういったふるまいをしてゆけばよいのか、少し考えてみた。
まわりからも、「今このとき」を生きることに対して、厳しい反省、問いかけを行っている人がいる。
タレントの志村けんさんのみならず、誰もが、わずかな期間で死に至る場合もあることを、もう一度、思い出そう。
それぞれ、「我がこと」として、受け止めよう。
これは、ふりかえれば、メメントモリ、すなわちヨーロッパ中世末にペストの蔓延などに対して人びとが抱いたメンタリティ、「死を想え」である。または、鎌倉時代を中心に広まった「無常観」とも相通ずる。
ほか、ハイデガーに偉そうに言われるまでもなく、私たちは、たえず、「死」と隣あわせに生きている。
人生100年時代、とか言われているが、それだけ長く生きる人ももちろんいるが、そうでないこともあり、自分がどうなるかなど、なかなかわかるものではない。
私は、50年以上生きてきたので、それなりに、もう、人生というものに満足している、ということをここに告白しておく。
後悔はないのか、やり残したことはないのか、と言われれば、ないはずはない。だが、かと言って、明日、いや、今この瞬間に命が途絶えようとも、かまわない、と思える。要するに、いろいろな意味で、自分の人生というものに対して「満足」感を抱いている。
だから、死を恐れることはないし、いつ死ぬかわからない不安もない。ただ、今、いのちがあることが愛おしいばかりである。
とはいえ、繰り返すが、志村けんさんが亡くなったことの衝撃は、やはり大きい。
自分も明日は、同じことが起こらないとはかぎらない。
コメディアンとは、人生の悲劇(つまり死や苦しみ、悲しみ)をあたかもないかのようにふるまおうとする達人のことだ。
そのコメディアンが死んでしまうということは、ある種の「裏切り」ではないか。
いつまでも「喜劇」を演じてほしかった。それが、正直な気持ちである。
・・・そう考えると、結局、一体何がいちばん大事なのか、今、何をしなければならないのか、はっきりしてくる。
大事なもの、それは、あらゆる「モノ」とは関係ない。「モノ」はすべて不要、もしくは二の次でよい。
大事なもの、それは、自分がともに生きている人たち(私の場合、妻)と動物や植物たち(私の場合、猫)である。
他に何があるというのだろう。
そういう気持ちである。
また、今、何をしなければならないのか、に対しても、答えはシンプルである。
これまでの日常を淡々と、続けること、それ以外にない。
何か特別なことをする必要はない。
ただ、なだらかな時間がすぎれば、それでよい。それこそが、もっとも大切なことなのだ。
だから、あらためて何かを言うこともないし、何かをすることもない。
だが、それこそが、いちばん大事なのだ。
・・・というのが、私の遺言だ。