今日も一日ビートルズを聴いていた。
大学の授業にも出ず、アルバイトもせずに、二週間ほどこの状態が続いている。
毎日ビートルズを聴いているといくら好きでも飽きてくる。それも同じアルバムばかりだ。
リボルバーというやつだ。一月前に買ったこのアルバムしか手持ちに無いから。
それでもアルバムの中の John Lennon の歌っている Tomorrow never knows という曲は好きだ。
何かサイケデリック調のイントロで全体的に重い感じもするが、インパクトの強さではこれが一番だ。
明日は知らない。そんなタイトル。何を知らないのか、明日の一体何を知らないのか、分からない。
それが少し謎めいてる。少なくとも私には。
煙草を吸いながら、何処かに出て行こうかと考えていた。家の中にいてビートルズばかり聞いていても仕方ない気がし
ていたからだ。今月末に提出するゼミのレポートのことも気にはなっていたが、何しろこんなにも自堕落に過ごしている
と、自分の現実が見えてこない気がした。この二週間で机の前に座って勉強をしたのは一度だけだった。
街に出た。難波直通の電車に乗って。
空腹が襲っていた。今朝トーストを二枚食べたけれどもあれから三時間は過ぎている。カレーライスでも食べようと難波
の地下街を歩いた。いつも外で時間を潰す時は、難波か梅田近辺の商店街になってしまう。友人の木場のようにアルコー
ルを飲めるわけではないので、まず、アルコール関係の店は私の頭にはない。もっぱら昼間から酒もないだろうが。
「お前は酒が飲めないから話にならないよ」木場の言葉が頭の中で響いていた。聞きすぎたビートルズの旋律が頭の中に
残っていて、その合間を縫って少し陰湿に響いていた。少し陰湿というのはおそらく私がまだ木場のある言葉を根深く自
分の中に抱え込んでいてその言葉を無意識のうちに反芻しているからだろうか?私の中で木場のイメージはこの一年間で
固まってしまった。おそらく、陰湿イコール木場として。
「おまえみたいな奴はな、サラリーマンにはなれないよ。」
ほっといてくれ、こっちも、サラリーマンになれるとは思ってないよ。彼は二度私に言った。一度目は去年の夏。そして
二度目は今年の正月難波で彼と会った時だった。
彼は大学の二年先輩だ。小さな商事会社だが、海外営業を任されていて、毎日主に東南アジアの客とコミュニケートし
ている。そして三か月に一度位出張に出かけている。
カレーライスの辛さが舌に響いてくるようだ。木場の言葉はいい、どうでもいい。今日一日の私の方が問題だ。
とにかく、カレーは旨かった。好き嫌いの多い私でもカレーだけは抵抗なく食べることが出来た。この事が何故か嬉し
かった。
カレー屋の女店員の名前はキミチャンという名前だった。いつも狭い店の奥の厨房から、三十前後のマスターの、キミ
チャン、キミチャンという声が聞こえる。キミチャンの他にはもう一人キミチャンと同い年位の女店員がいて、こちらの
方は、別に名前を呼ばれたりはしていない。どちらかと言えば、こちらの女店員の方が仕事上は格が上でキミチャンは何
も言わずに彼女のフォローをしている感じがする。
キミチャンはこの女のフォローとマスターのフォローで本当に忙しそうだ。私は時々カレーを食べながらこのキミチャン
を見ることがある。私自身がキミチャンに惹かれているということに私は勿論気が付いている。この自意識が自分自身を
ぎこちなくしている。
多分キミチャンは私よりも一つ二つ年上だろう。そしてキミチャンが将来私の恋人になるようなことは絶対ない。
こんな思考で私自身はキミチャンへの思いを自分自身で断ち切っていたりしている。それほど深刻なものでもないが。
私の行動のパタンは、ほぼ決まっている。ここ難波でも梅田界隈でも余り変わりない。喫茶店に入ってコーヒーを飲み,
煙草を吸い、退屈したら、ポケットに入れた文庫本を取り出して少し読む。この繰り返しだ。そして喫茶店を変えて、同
じように時間を過ごす。恋人の一人でもいればもう少し違った時間の過ごし方をしていたかもしれない。木場は多分、私
のこんな風なところが気に入らない、というよりも受け入れがたいのだろう。そして私がビートルズをよく聞いていると
ころも彼の頭の中では引っかかっているみたいだ。ビートルズの話は鼻から避けているようなところがある。もっぱら
ビートルズの話など熱を入れて話す人間は少ないだろうが。
美野里という喫茶店に入ってから約一時間過ぎた。先ほど食べたカレーが少し胃にもたれて、苦しかった。いつもなら
ら、ぶらぶらと心斎橋筋を歩いてもう一軒くらいは喫茶店に入っていくはずなのだが、今日は気が乗らなかった。多分心
の中で色んなことが気になっているからなのだろう。大学のことも気になるし、未だ先の話だが、自分自身の就職のこと
も重く圧し掛かっている。それにしても TOMORROW NEVER KNOWS の最後の詩の部分は少し気になる。存在
ゲームを最後までやり続けよ、始めます。が終わるまでそれをやり続けよ。少し難しい。おまけに歌詞の中には一個も
TOMORROWという言葉がない。それで、TOMORROW NEVER KNOWSだから、少しやり切れなかった。麻薬でも吸いな
がらこの詩を書いたのではなかろうか。
恋人が欲しかった。一人で街を歩いて喫茶店で時間を潰すような日常は本当うんざりしてたのだが。
「会えないのですか?」
「仕事が忙しくてな」
「今日は残業なんですか?」
自分でも可笑しかった。よりによって木場に自分から電話しているなんて。
「ああ」
「それじゃあ今日は諦めます。」
「すまんけど。又電話するよ。とにかく忙しいから切るよ。」
そう言って木場は電話を切った。
自分の中での友人、知人、その他の人間を確認してみた。自分でもがっくりきた。男の友達といえば(むしろ先輩の感覚
に近いのだが)木場しかいなかった。女友達は違う大学に行っている白石くらいしかいなかった。彼女は女友達というよ
りも、私にとっては、女性を感じさせない類の人間だった。むしろ私は彼女が嫌いだった。ずけずけと人を(私も含め
て)批判したりして心底そりが合わないと思いつつも、彼女から電話があると断れずに会っていた。ただ音楽だけはよく
知っていて殆どの分野で私よりも知識情報とも上だった。この女に対しては本当にビートルズのことは話せなかった。禁
句に近かった。知り合って一年経つが、私の方から電話をしたことは無かった。いつも彼女からの電話で私たちは会っ
た。
いつも音楽喫茶で音楽を聴くばかりだったが。数回会ったが絶対に好意を持てる相手ではなかった。だから彼女は残
念なことに私の心の枠外にいた。それでも数のうちだった。
やはり私の存在をよく知っているのは木場以外にいなかった。
今日は本当に会いたかった。今日はいままでの苦酸に満ちた木場の言葉を受け入れてじっくりと話をしたかった。
「お前みたいな人間はサラリーマンにはなれないよ。」いいじゃないか。そんなタイプの人間でも。私はとにかく木場
にその理由を長々と話してもらいたかった。
それともう一つ私は木場に尋ねてみたかった。
「ビートルズの詩の中に、存在ゲームをやり続けよ。始めが終わるまでそれをやり続けよ。というのがあるんです。木
場さんどう思いますか?」
私は心のなかでこの台詞を何度となく言っていた。そうだ木場に尋ねてみよう。そうすれば何か得られるかもしれない。
木場は二年先輩で社会人としても立派とはいかないでも、十分に私よりも大人であるはずだから。私は私の言葉に対して
の木場の反応を頭の中に描いていた。
梅田の方に出ようと思った。
木場に会えるのであれば、彼の会社は梅田にあるので丁度良かったのだけれども。
私には行く所がないように思えた。喫茶店と音楽ショップぐらいで、他に何も無かった。それでも私は梅田に行きた
かった。
難波の次は梅田だ。
自分の中でそう呟いて、私は地下鉄に乗った。
平日なのに地下鉄は満員に近かった。何故今日はこんなに人が多いのだろう。クーラーの利きが悪くて、汗ばんでくるよ
うだった。
大学教授の顔がちらつき、未だ出していないレポートの構想が徐々に私の中に芽生えて来た。二週間何もしていないのだ
から最低限明日からは動かなければならない。そうでないと現実が私の前から一気に私だけを置いて何処かに立ち去って
行く気がした。
私の目の前の席が空いた。疲れもしていたが、利かないクーラーのせいで相当に肉体的に不快だったので、慌てて席に
就いた。
その時肘が横に立っていたOL風の女に当たり、一瞬目が合い、彼女はきつい顔をした。
何時間経ったのか、私には分からなかった。淀屋橋に地下鉄が着いた時、次は梅田ということで、意識の中では確かに起
きてはいたのだが。
ざわめいた音と共に乗客が私の両端に座って来た。その時初めて自分が今地下鉄の最終駅にいて、この電車がそのまま
折り返し電車となり難波方向に動くのだと気が付いた。神経科から貰っていた安定剤を昨日の晩使用しなくて、そのまま
床に就いたものだから、多分熟睡は出来て無かったと思う。私はとっくに梅田を通り越して、終点の北千里まで来ていた
のだった。当然ここ北千里では降りれなかった。その時地下鉄の扉が閉まった。
動き出した電車の中で私は一つの光景を思い浮かべていた。
私の前で母親が泣いていた。私は何故彼女が大粒の涙を流して泣いているのかわからなかった。その横に神経科の医師が
いた。
私の知っている顔だった。もう今までに何回この男の顔を見たのだろうか。ただ男の顔が医師というよりも何か医師とは
関係のない風貌をしていてとても不気味だった。それよりも母親の涙。
私には自分の周りで起こっていることが30パーセント位しか理解出来ていなかった。
母親は自分の息子の明日を想起し得なかったと思う。
彼女の大粒の涙は私にとってはほとんど脅威だった。
梅田、次は梅田という車掌のアナウンスが聞こえても私はもう立つ気がしなかった。難波で喫茶店にも入ったし、今日は
早く家に帰ってレポートを書かないと本当に現実に乗り遅れてしまう。自分の明日は無い、そんな感じがした。
私はレポートの構想を考えていた。もしかしたら難波に着くまでに、骨組みまで出来るかもしれない。そう思って文庫
本を取り出し持っていたボールペンで裏表紙にセンテンスを書き始めた時、私の頭の中に TOMORROW NEVER KNOWS
の音楽が聞こえてきた。
多分聞きすぎなのだろう。
それと共に、木場に会えなかった後悔みたいなものが、湧き上がって来た。幾分思考能力も落ちていたかも知れない。
存在ゲームを続けよ。始りが終わるまでそのゲームを続けよ。JHONの詩かも知れない。まん丸メガネの奥の思考?
自分の現実にGIVE UPしかけている自分にとっては少し痛い思考だった。続けるにはエネルギーが要るに決まってい
る。
私は難波の地下鉄ホームに降りた時までしか覚えていない。
少し吐き気がして、少し目眩がした感覚だけだったのに。
気が付いた時、私の周りに多くの人間がいた。靴の音。地下鉄の音。砂埃と自分自身の汗。誰かが私の肩をゆすってい
る。
多分私の倒れた場所近くにいた人間だろう。
「大丈夫ですか?」
キミチャンだった。多分カレーの仕事、もう終わったのだろう。
(完)