前で話している人を無視して、自分たちの会話を始める。
そういうときは、
「はい。静かに!」と言えば概ね収まるが、稀にそれにすら気がつかず一人でしゃべり続けるような人もいる。
ひと通り静かになると、
キミたちは学校でもこうなのか?
と問う。
すると、ほとんどの場合、
学校のほうがもっと酷い。と返ってくる。
先生は注意しないの?
する。
するけど効かん。
(ここで、またザワザワと自分たちの学校話を始める。笑)
静かに。
じゃあ、授業はどうなるの?
そのままやる。
ひと昔前に「学級崩壊」というコトバが取り沙汰された。
最近ではあまり耳にしない。
ではなくなったのか?
現実はその逆で、もはやその状態が当たり前になりつつあり、むしろいちいちニュースにしたり、問題にするとキリがない状態になっている。
では体罰は?
これは確実にニュースになり、ほとんどのケースでなんらかの責任を取らされることになる。
いまや体罰どころか叱責ですら問題視される時代になった。
いま、学校はもちろん、どの場面においても、子どもたちを管理する手立てはほとんどなくなっている。
管理するなどというと、また何処ぞから問題視されそうだが、グループ行動には必ず一定の規律と秩序は不可欠である。
「叱って従わせる」
という手段が正しいとは思わないが、それ以外の手段を考えたり模索したりする間も無く、外枠だけが固まってしまったので、学校がほとんど無法状態になってしまうのはある程度仕方がないとは思う。
諭して理解させる。など、現実を知らない人の妄想だ。
そもそも読解力が低下している。
想像力、共感力にも乏しい。
したがって、話して何かを理解させたり感じさせたりすることが何よりも難しいのだ。
結果、オトナの思考が、その状態を見過ごして、むしろその状態に慣れる、ガマンするという方に向かっていくのはある意味仕方がない。
あとは、大問題さえ起こしてくれなければ良いのだ。
さて、本来勉強は楽しいものだ。
そんな中にも「勉強したい」と思って学校に通う人もいる。
しかし、楽しみにしている授業がそんな状態だと、学校は一気につまらなくなる。
授業を妨害している生徒をきちんと叱って欲しい。でもやらない。
となったときのその人のストレスはどれほどなのか。容易に想像できる。
むしろ優秀な人ほど、学校によって潰されてしまうというケースもたくさんあるだろう。
思いっきり学びたい。
努力して自分を成長させたい。
logosは、
そういう人たちのための学習塾でありたい。
そう強く思うのだ。