毒親育ち~人格者である父、美人である母 | はるきのあるひ

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スピリチュアル&息子はるきのこと

すらりとしていた?小学生時代。

 

あまり親の事を書いていない。

父は優秀な警官で人格者とも評されていた。

母は元ピアノ教師のお嬢様育ちで美人でもあった。

私と弟はそんな親の元で「いい子」であったと思う。

小さくてサイズの違う長靴を我慢して履いていた。

他人様のお宅に行けば、正座を崩すことなく座り続けた。

躾は厳しいほうだった。

 

 

父は穏やかなほうだったが、母は口やかましかった。

時々、酔って帰ってくる父に腹が立つのか、

叱ってくれと母に頼まれた父に打たれることがあった。

しらふの時ならいざしらず、これらは親の醜態として

私の胸に刻まれた。おまけに父の職業は警官であるから

“ほんとうの正義”について、しみじみと考えてしまった。

 

 

 

 

3歳ごろ、私の最初ぐらいの記憶に

父から打たれようとする母を庇っているのがある。

「やめて」というと止めたのであるが

あろうことが、ぶら下がっているクス玉に火をつけた父。

めらめらと燃える様は、放火のもらい火で焼けた生家と重なることがある。

 

 

 

 

そういうわけで、私は思春期、はげしい反抗を起こし

補導されたこともあった。打たれたので、初めて打ち返すと

柔道のしごきみたく髪をひっつかまれ蹴られた。

翌朝見ると痣がある。それ以来、父とは冷戦というか

反抗もしない代わりに関わるのをよした。

 

 

 

 

母は母でこれはもう何とも言えないが、

いつからか向こうが娘みたく思え、反抗期のこともあってか

大抵の言うことは従っていらぬ心配はかけぬようにしてきた。

しかし年頃での交際相手も、母が「ガオー」とぶち壊した部分があり

就職の機会も逃した。就職難の時代に、IT関連の方からスカウトが入っていたのだ。

母は持病もある娘を一人都会に置くのはとんでもなかったのだろう。

「とにかく、女の子は地元でお茶くみ」のようであった。

おまけに役所のバイトで扶養の範囲で働いてほしいという条件だ。

自立させたくないのか、公務員の婿でもほしかったのか、過保護には違いない。

 

 

 

 

私は働きつつ、就学でもとお金を貯めていたが、しだいに疲れてきた。

何というか、負の連鎖というか、社会面でもブラックなものにぶち当たる。

たとえば上司がお金を持っていっちゃうとか。

 

 

 

ただ、そんな中、この結婚という選択肢は間違いではなかった。

夫はガタイはいいが乱暴しない。煙草もやめたし、酒も飲まない。

反面私は絶対打たないと誓っていたのに、

子どもが熱い味噌汁を投げたとき、頭を叩いたことがあって

複雑な気持ちにもなった。

 

 

 

 

 

こういう子だからなのか、何なのか。

両親は私が思うほど厳しくなかったのか、何なのか。

考えることがある。

 

 

 

 

 

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