動物の安楽死の検討(動物に安楽死はあり得るのか)

 はじめに。
 近年、コンパニオンアニマルが増加するにつけ、動物問題が多く語られるようになってきた。その中でも、行政における殺処分が安楽死といえるのかといった問題や、動物愛護団体、福祉団体における愛護動物の安楽死の問題も浮上してきている。実験動物における安楽死の指針は実験業者等により決められているようだが、コンパニオンアニマルについての安楽死の基準は、行政はおろか一般にもそういった基準はない。にもかかわらず「殺処分は安楽死です」や「安楽死処分です」と宣言する自治体もある(註1)。そもそも、そういった議論の中心を成すのは、二酸化炭素による殺処分は苦痛を伴うかどうかと言った、つまり「安楽死」をどのように行うかといった方法論だけに終始しているようである。それ以前に、動物にとって安楽死はどのような意味を持つのか、人間には安楽死は存在するが、動物にも安楽死は存在し得るのであろうか、また、安楽死はいったいどのように行うことが安楽死と呼べるのであろうかといった問題を、そのような方法論よりも、まず、最初に検討するべきではないのだろうか。こういった問題を、人間の安楽死との比較において検討してみたい。

 いったい、安楽死とはどんなものなのだろうか。まず、安楽死の定義を探ってみた。ここでは安楽死をどのような手法で行うかといった問題ではなく、それ以前にあるべきと思われる安楽死を適用できる条件について考えてみた。
  安楽死には消極的安楽死と積極的安楽死があり、前者は死ぬに任せること(延命治療をしない)、後者は、死なせること(殺すこと)である。多くの場合「安楽死」は後者を指すので積極的安楽死を「安楽死」とここでは呼ぶことにする。 日本尊厳死協会(註2)によると「安楽死は、助かる見込みがないのに、耐え難い苦痛から逃れることもできない患者の自発的要請にこたえて、医師が積極的な医療行為で患者を早く死なせることです。」とある。
 すなわち、1.助かる見込みが無い。2.耐え難い苦痛がある。3.本人の意思表示がある。4.医師の手による。この4つの用件のようである。

 それでは法的にはどのようになっているのであろうか、判例を調べてみた。以下の、安楽死の基礎知識のホームページ(註3)によると2件、存在する。

日本での「適法の安楽死の要件」
日本では、刑事事件に関連して、2度にわたり「安楽死の許容される要件」が提示されています。

昭和37年名古屋高等裁判所の「山内判決」の6要件

1. 病者が、現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っている事。
2. 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
3. もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
4. 病者の意識が、なお明瞭であって、意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
5. 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと肯首するに足る特別な事情があること。
6. その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。

これは、世界で初の「安楽死容認の要件の提示」として、世界中に影響を与えました。

平成7年の「東海大付属病院事件」についての判決中の4要件

1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 患者の死が避けられず死期が迫っている。
3. 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。
4. 患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。


 やはり基本の4要件は満たしている。

 それでは、動物の場合はどうなるのであろうか。例えばコンパニオンアニマルで、癌などに罹り、獣医師の診断で助かる見込みがなく、余生において、痛みを緩和する方法が無い場合は安楽死をすることは許されるのだろうか。上記の平成7年の「東海大付属病院事件」についての判決中の4要件をとれば「1.」「2.」「3.」の条件は満たすことになる。問題は「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」である。これは動物の場合、意思確認は出来ないといっても良いのではないだろうか。つまり、動物は言葉を話すことができないからだ。これと同じ問題が人間にも起りうる。乳幼児や痴呆老人、脳性まひや意識を回復しない人間など意思表示が出来ない場合である。「オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為  長岡成夫 」(註4)によると、「患者からの明確で持続的な要請なしに医師により実施される生命終焉行為(Life-terminating Acts Without Explicit Request of the patient, LAWER)である。(中略)このLAWERを、安楽死とは全く異なる慈悲殺であり否定されるべきものと見るのか、あるいは患者が自分の意思を表明することができなくなった時点での関係者の総合的判断によるものであり一概に否定すべきではないと見るのか、この点の評価については個々のケースに即した判断がなされなければならない。」 とある。

 まず、個々のケースに即した判断の為に検討されるのはパターナリズムの考え方である。これは、例えば、病気の幼児に対し医者が治療に必要であると認めた注射を拒否する場合、無理やり押さえつけてでも本人の為に注射をするといったことである。この場合、幼児にはその注射の持つ意味を正確に把握できないから、他者により判断され、その幼時の為になることがわかっているので、その幼児の意思に関係なく、注射を打つことが正当化されるといったものである。

 安楽死の場合はどうなるのであろうか。不治の病に罹り、残り少ない余生が、何の楽しみも無く、苦痛しかない場合、死期を意図的に早めることは、苦痛からの解放と捉えることができるだろう。だとすれば、意思表示の出来ない本人の為に、他人が苦痛から意図的に死期を早めて解放してあげることも、パターナリズムとして正当化できるのではないだろうか。
また同じような考え方であるが少しちがった考え方がある。それは当人が意思表示をできない場合、他者の判断による安楽死が存在するというものである。それは、アドバンス・ディレクティブの考え方での安楽死の場合である(「オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為  長岡成夫 」(註4))。アドバンス・ディレクティブとは本人が前もって、意思表示できない状態になったときのために安楽死することをあらかじめ書面にしておくことである。しかし、実際に極限状態になったその時に、本人が心変わりする事もありえるので、以前にアドバンス・ディレクティブを書いたときの自分と同じ気持ちであるかどうかは分からない。つまり、極限状態になった時の本人にとって、以前にアドバンス・ディレクティブを書いた時の本人の意思ではないのであれば、それは自分の意思ではあるが他の考え方であるといえるから、事実上他人の意思であるともいえるのではないだろうか。そうであるならば、他人の意思決定により安楽死は行われることがいえるのではないか。だとすれば、それを拡張すれば、本人の状況をよく理解しているような、本人にとって近い存在である近親者や、医師などの他人の意思で安楽死を行っても良いのではないかということになる。これが正しいとすれば「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」は個々のケースに即した判断を考慮して正当化されうることになる。つまり、「4.患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている。」は必ずしも必要とされない場合もあるのではないか。ただし、「1.」「2.」「3.」の要件を満たし、「4.」の条件を確認することが出来ない場合に限られるだろう。このアドバンス・ディレクティブの考えも、結局は当人の為(苦痛からの解放と言う理由で)になされることになり、パターナリズムと言えるのではないだろうか。

 それでは人間の場合、強制的な安楽死は存在するのだろうか。これは法的、倫理的な問題があり実質上、存在しないだろう。さらに、上記の4要件を満たすはずも無く、その上、意思に反して行うことであるから、すなわち嫌がっているのだからそのこと自体が精神的苦痛を与えることになり、安楽死とは呼べないのではないだろうか。動物の場合も意思に反して、つまり無理やり行うのであれば、その時点で精神的苦痛を与えることになり、安楽死とは呼べないだろう。また、安楽死はそういった苦痛からの開放という自殺の幇助と捉えることも出来るだろう。多くの場合、動物は自ら死を選択することはないと思われる。(レミングの集団自殺についてもいろいろ仮説がたてられているようだが。)例えば、人間の場合のように将来を悲観して、病気を苦にしてだとか、ある程度、明確な理由での自殺は無いのではないか。また、そうなると、動物の明確な意思は確認できないにせよ、自殺の幇助と捉えることもできる安楽死を自ら望む動物はいないのではないだろうか。しかし、その理由は、動物や乳幼児は安楽死を苦痛からの開放であることを理解できないと言う事にあるといえる。だとすれば上記のパターナリズムやアドバンス・ディレクティブの考えと同じことが適用できるのではないだろうか。つまり、状況に応じてその動物に近い他人や病状を把握している獣医師の判断で行うことも可能ではないのだろうか。

 ここまでを、まとめてみると、動物の安楽死と呼べ、尚且つ、動物の愛護と管理に関する法律第44条に違反しない要件であると思われるのは
1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 動物の死が避けられず死期が迫っている。
3. 動物の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。
この上記の3要件が満たされている場合に限られるだろう。
4. 動物自身が安楽死を望む意思を明らかにしている。(通常はありえないだろう。)

 安楽死と呼べないものは、上記の条件以外で殺すことである。例えば、強制的に行う健康体の安楽死、行政における殺処分、屠殺、動物実験後の殺処分などは安楽死とは呼べない。人間にせよ動物にせよ、強制は(精神的)苦痛を伴うといえるからだ。例えば、野生動物を強制的に捕まえたとしたら、動物は逃げようとするだろうし、もがき暴れるだろう。逃げるために、攻撃さえしてくるかもしれない。このことは、動物は恐怖と言う苦痛を感じていると言えるだろう。判りやすくいえば、強制殺、つまり殺人や強制Sex,つまり強姦は、例え痛みに配慮して行われたとしても、安楽殺や安楽Sexとは呼べないのと同じである。さらに、このことからも強制による苦痛は当事者にとって重要なことであればあるほど、その苦痛も大きくなるということがいえるのではないだろうか。そうであるならば、生死にかかわることであれば、その強制は当事者にとって最重要なことであり、もっとも大きな苦痛があるといえるのではないだろうか。

 動物実験後の殺処分は通常、健康体に強制的に危害を加えたり、不健康な状態にして苦痛を与えているため、その時点で安楽死とは呼べない。つまり、わざと死期を近くして苦痛のないように殺すのであれば、それは安楽死とはいえないだろう。

 また、健康体の動物に関して、安心させておいて殺すような方法、つまり、だまし討ちで殺すような手法(動物との信頼関係を悪用すること)は、動物がこれからされることを理解している、いないにかかわらず、殺すという目的が動物にとって大きな不利益を与えることであり動物の為であるとはいえない。また、倫理上の問題があることは自明であるのでここでは論じない。

 それでは、実際に「安楽死」に関係する団体等がどのように検討しているのか、その基準や考え方を見てみよう。
 最初に動物実験の、いわゆる「安楽死」についての(任意で探し出した)指針等を見てみたい。

徳島大学動物実験指針(註5)
安楽死とは?
安楽死(euthanasia)の語源はギリシャ語の良い(eu)と死(thanatos)に由来する。「良い死」とは,疼痛や苦痛が最少限の死である。この報告書における安楽死とは動物を人道的な死に至らしめる行為である。動物の生命が奪い去られる時,畏敬の念をもって可能な限り疼痛や苦痛を伴わずに死に至らしめることは,獣医師として或いは人としての責任である。安楽死に用いる方法は,速やかに意識を消失させ,続いて心肺機能の停止及び最終的な脳機能の停止を生ずる必要がある。加えて,動物が意識を消失するまでに感じる苦痛や不安は最少限度でなくてはならない。本研究会は,疼痛及び苦痛を全くなくすることはできないと認識している。従って,本報告書では安楽死が実施される各々の状況という現実と動物の疼痛及び苦痛を最少限にするという理想とのバランスをとるよう試みている。
一般的な配慮
本研究会は,安楽死の方法を評価するために,以下の基準を用いた:(1)疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること;(2)意識消失に要する時間;(3)信頼性;(4)人に対する安全性;(5)不可逆性;(6)要求及び目的との適合性;(7)傍観者或いは作業者に対する感情的な影響;(8)安楽死後の評価,実験或いは組織の利用との適合性;(9)薬剤の利便性及び人の乱用の可能性;(10)種,年齢及び健康状態との適合性;(11)用いる器材が適切に作動するよう維持できること;(12)肉食動物/腐肉食動物が死体を摂食した場合の安全性。


 まず、安楽死の定義を通常の定義よりかなり広義に変更し「安楽死とは動物を人道的な死に至らしめる行為」としている。自分達が動物を死に追いやっておきながら、「人道的な死に至らしめる行為」すなわち、人道的に殺すという、不可思議なことになっている。わかりやすく言えば苦痛さえなければ何をしても良いという考えである。しかし、ここではそのこと問題にしているのではなく、かなり安楽死の定義を広くしなければ動物実験における「慈悲的殺処分」を「安楽死」とは呼べないと思われることが問題なのである。つまり、動物実験での「慈悲的殺処分」は「通常の安楽死」ではなく、痛み、苦痛などの危害に配慮するだけで「安楽死」であると主張しているといえよう。また、この指針における特徴は、「疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること」の文中の「直接的な或いは将来的な不安を伴わず」にある。つまり不安や恐怖を苦痛であり危害と認めている点にある。この点は動物実験における動物の殺処分が強制的である以上、動物に不安や恐怖や精神的な苦痛は当然、存在するということができる。したがって、この指針の基準((1)疼痛,苦痛,直接的な或いは将来的な不安を伴わずに,意識消失及び死に至らしめること)によってもこの指針による安楽死の実行に「強制」がある以上この指針自体が矛盾していることになり「安楽死」とは言えないことを自ら証明している指針であると言えよう。つまり、安楽死をよく検討した指針ではないということができる。

 次に行政での殺処分の指針を見てみよう。

動物の処分方法に関する指針(環境省)(注6)

(抜粋)
第1 一般原則
管理者及び殺処分実施者は、動物を殺処分しなければならない場合にあっ
ては、殺処分動物の生理、生態、習性等を理解し、生命の尊厳性を尊重する
ことを理念として、その動物に苦痛を与えない方法によるよう努めるととも
に、殺処分動物による人の生命、身体又は財産に対する侵害及び人の生活環
境の汚損を防止するよう努めること。

第2 定義
この指針において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めると
ころによる。
(1) 対象動物 この指針の対象となる動物で、動物の愛護及び管理に関する
法律(昭和48年法律第105号)第44条第4項各号に掲げる動物
(2) 殺処分動物 対象動物で殺処分されるものをいう。
(3) 殺処分 殺処分動物を致死させることをいう。
(4) 苦痛 痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安
及びうつの状態等の態様をいう。
(5) 管理者 殺処分動物の保管及び殺処分を行う施設並びに殺処分動物を管
理する者をいう。
(6) 殺処分実施者 殺処分動物の殺処分に係る者をいう。

第3 殺処分動物の殺処分方法
殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺
処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心
機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認され
ている通常の方法によること。

 「殺処分動物の生理、生態、習性等を理解し、生命の尊厳性を尊重することを理念として、その動物に苦痛を与えない方法によるよう努める~」とあり、苦痛の定義は「痛覚刺激による痛み並びに中枢の興奮等による苦悩、恐怖、不安及びうつの状態等の態様」である。そして、「殺処分動物の殺処分方法」は「できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認されている通常の方法によること。」とある。前述の徳島大学動物実験指針(註5)とほぼ同じような考えである。


 まとめると、
1. 苦痛の定義は、痛み、苦悩、恐怖、不安等である。
2. その動物に苦痛を与えない方法によるよう努め、
3. 当該動物を意識の喪失状態にし、
4. 心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法か、
5. 社会的に容認されている通常の方法、
 で殺すことである。

 2.と5.は極めてあいまいであると言わざるを得ない。何故ならば2.に置いては努力義務しかないと言えるし、5.においてはどんな方法であるのか全く不明である。これではこの指針は守る必要がないといっているのと同じで、全く指針の意味を成さない。正に骨抜き指針であると言える。

 環境省の動物の処分方法に関する指針では「安楽死」及び「安楽殺」の言葉は全く使用されていない。これは、本当のところはわからないが、安楽死の定義に「健康体の強制殺」が、入ることは有り得ないからではないだろうか。なぜならば、強制されることですでに1.の苦痛が存在するからだ。このあたりは環境省においてはある程度深く検討されているのかもしれない。

 しかし、地方自治体では殺処分という人道的でないイメージを少しでも良くしようとしたためか、殺処分を「安楽死」「安楽殺」と表現している場合が多々見られる(註1)。これは地方自治体が安楽死の方法論しか検討していないから、こういった問題が起きるのではないだろうか。しかし、そうすることによって、新たな大きな問題が生まれてくる。それは地方自治体が、この「安楽死」「安楽殺」と言う言葉を使用、宣伝することによって、殺処分を苦痛なく死ぬことと勘違いし、愛護動物の保健所等への持ち込み数が増える可能性があることである。
 したがって環境省が「安楽死」という言葉を使用していないように、行政における殺処分はあくまで殺処分と呼ぶべきもので安楽死とは呼べない。

 次に動物福祉団体である日本動物福祉協会の例を見てみよう。
 神様助けてドットコムのホームページ(註7)によると日本動物福祉協会(註8)の安楽死に関するメールでの回答は以下の通りである。

社団法人 日本動物福祉協会
当ホームページの管理人の問い合わせに対する回答

『メールと掲示板を拝見いたしました。
ご存知のように、当協会は、殺処分を「推進」している団体ではありません。当協会の新会員には当協会の活動方針という資料をお送りしていますが、その中で、健康な動物の安楽死処置には反対だが、大変不本意ながら、飼い主から捨てられたり、捕獲された放浪動物の場合には、新しい良い飼い主が見つからなくて最終の選択肢として健康な動物の安楽死処置が必要になることも認める、と書いております。また、当協会は、新しい飼い主を見つけるからと言ってお金をとり、安楽死をすることは詐欺の疑いがあると考えます。当協会のセンターで動物を引き取る場合、新しい飼い主をさがしを第一義に努力をしておりましたが、どうしても見つからない場合はやむを得ず安楽死をさせることもあるということを了解していただいた上で引き取っていました。しかし、センターに入ってくることなく、黙って動物をセンターの前に置いていかれることも非常に多く、その場合はそのような説明もできないまま引き取らざるを得ない状況でした。動物保護施設には、安楽死を認めない施設と、安楽死を認める施設があり、安楽死を認めなければ、引き取りを拒否しなければならないこともあるし、引取り以頼を断らなければ、やむを得ず安楽死を選択せざるを得ないこともあるというのが日本の現状だと思います。もし、引き取りを拒否せず、また安楽死も認めず、全て飼育するとなると、施設内の動物数はあっという間に膨れ上がり、動物にとって大変劣悪な状態になって、生き地獄となるでしょう。また、日本では保健所に引きわたさず、動物を公園などに捨てるほか、地域によっては海・川に投げ入れる人も現在でもまだ多いのです。当協会は、本当の意味での地域猫活動には賛成です。私たちは一人ひとり意見が違うのも当然のことですが、根本的なところ、「動物を守りたい」という点では同じだと思います。一部ではなく、全国的な活動にするためには、考え方が同じ部分は共に活動し、異なる部分では意見交換しつつそれぞれが頑張って活動することが大切のように思います。
長くなりましたが、この件についてのお知らせとお問い合わせを大変感謝いたします。』


 要約すると以下のようになると思われる。
1. 殺処分を「推進」している団体ではない。
2. 健康な動物の安楽死処置には反対である。
3. 飼い主が見つからない場合は、健康な動物の安楽死処置が必要になることも認める
4. 安楽死をさせることもあるということを了解すれば、引き取る。
5. 引取りを拒否しないために、安楽死を実行している。
6. 根本的なところ、「動物を守りたい」。

 ここには、安楽死についての詳細は書かれていない。健康体の動物の安楽死については上記にも書いたが、健康体の動物の安楽死は強制であり精神的苦痛が存在するため安楽死とは呼べない。「動物の引取りを拒否しないために、健康体の安楽死(この場合は強制殺といえる)を実行している」ことは動物と愛護に関する法律44条(註9)における「みだりに殺すこと」つまり「正当な理由なく殺すこと」にならないのだろうか。何故ならば、こういった、動物福祉団体や動物愛護団体は動物の引き取りに関しては不完全義務しかないのである。つまり、引き取りたければ引き取ればよいだろうし、引き取りたくなければ引き取らなくても良いのである。絶対に引き取らなければならないという完全義務はない。(行政は法律(動物と愛護に関する法律35条)(註10)により引き取らなければならない義務がある)。にもかかわらず、つまり、自ら進んで動物を引き取り、そして飼い主が見つからない場合は、痛みに配慮して強制的自家殺処分をするとしている。これは、完全義務で無い以上、引取りを拒否し、強制的自家殺処分を回避できるという方策があるにも係わらず、それをしないということは積極的とまではいえないかもしれないが、自ら進んで強制的自家殺処分をしていることになるのではないだろうか。つまり完全義務でないのに、動物を引き取り、さらに殺すことは、正当な理由とは言えないだろう。さらに、新たな問題も生じてくる。もし、安楽死の検討さえせず、動物福祉団体や動物愛護団体が「安楽死」と称して「飼い主が見つからない動物」に強制的自家殺処分を実行することを認めるとするならば、動物生産業者や動物販売業者に、「飼い主が見つからない動物(不用動物や売れ残った動物)」の「自称安楽死」を認めることにも繋がり、動物達にとっては不幸の連鎖の始まりであるだろうし、そういった動物福祉団体や動物愛護団体は動物生産業者や動物販売業者の不用動物の間引き等と、結果的に同じことをすることになり、つまりそれを容認し、その事を批判できなくなるだろう。また、その事が一般飼い主にまで拡張されると、動物と愛護に関する法律44条(註9)は全く意味を成さなくなるのではないだろうか。

 続いて動物愛護団体であるARK(アニマルレフュ-ジ関西)(註11)を見てみよう。
 以下、アニマルレフュ-ジ関西ARKニュースレターVol.67より抜粋。

安楽死についてスー・スターンバーグ
全国のすべてのシェルターにある犬舎で「里親との出会い」を待つ犬1頭1頭に尋ねたい質問が2つあります。それは、安楽死にかかわる2つの最も重要な問題??すなわち、QOLと行動適性??について、表面上同じように見えて、実際はまったく別の質問です。
1.この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、昨日よりも良い状態か?
2.この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、入所した日よりも良くなっているか?
質問に対する答が2つとも“Yes”でなければ、安楽死させる方が犬のために幸せです。判断は、安楽死について「賛成か反対か」とか、方針、感情、感覚をもとに決めてはいけません。あくまでも、犬にとっての最大利益という観点から決定すべきものです。犬は「今を生きる」動物。彼らに地獄の苦しみを味わせないように気を配るのは我々人間の責任です。もしも、感情や行動の様子が悪化したり、精神衛生が破綻した犬を生かしておくとすれば、それは、人間のわがままです。危険な犬や、一生涯、異常行動に悩まされることになる犬を市民に譲渡するのはフェアではありません。
安楽死は、影響力が強く、心をかき乱す重大問題です。私は、18歳のときから、安楽死にかかわり??その場に立ち会い、体を支えたり、慰めたりして実施を助け??また、決断に悩む人を励ましてきました。18歳の頃に比べて、今の方が、安楽死を理解することも、体験することも、難しいような気がします。それでも、収容された犬が「いつかはご主人に出会えるはず」と期待しつつ惨めな生活を送ることの方が、私には、ずっと衝撃的で、心を乱される重大事です??これが、20年以上、全国の様々なシェルターで働いてきた私の思いに他なりません。


 ここにも安楽死と言うものがいったいどういった事であるのかは書かれていない。自分達が作った基準を書いているだけである。要約すると以下のようになるだろう。

 判断基準を用いる為の前提は以下である。
1. 犬は「今を生きる」動物である。
その前提を基に作られた理由は以下である。
2. 感情や行動の様子が悪化したり、精神衛生が破綻した犬を生かしておくのは誤りである。
3. その理由は人間のわがままであるからだ。
そして、その判断基準は、以下である。
4. 安楽死について「賛成か反対か」とか、方針、感情、感覚をもとに決めない。
5. 犬にとっての最大利益という観点から決定すべきものである。
そして「強制的自家殺処分」をするための要件は以下の条件である。
6. この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、昨日よりも良い状態か?
7. この犬は、今日、行動的に、精神的に、感情的に、入所した日よりも良くなっているか?
そして、6.7.の二つの条件が満たされなければ「強制的自家殺処分」をしても良いとする。

 まず、前提を見てみると『犬は「今を生きる」動物である。』と断言する。この意味は犬には今起っている現実しか認識する能力はないという意味であろうか。犬には未来への希望などないのであればこの主張は正しいと思われる。確かに人間ほどの計画性や将来設計は無いかもしれないが、犬にも未来に対する希望や何らかの利益を期待することはあるのではないだろうか。餌やおもちゃなどを隠す行動や、仔犬を守ろうとする行動、餌をくれる人に尻尾を振って喜ぶ行動などは、近い未来の利益を期待しての行動ではないだろうか。仮にもしその主張が正しいとしても、殺されること無く生きていれば将来出会えるかもしれない何らかの機会や利益を無視することは正しいといえるのであろうか。生きていれば必ずしも不幸が待っているわけではない。生きてさえいれば出会える幸福もあるのである。
 また、犬には未来に対する希望や何らかの利益を期待することがないという事はどのように判断されるのであろうか。その判断が人間の主観によって決められるとするならば、まさに独善的であり、その結果、シェルターに一生閉じ込めるという決断であるならば、それこそが正に虐待であり、自家殺処分であるのであれば人間の主観により殺されることになる。これは、誰にも判断できないといっても良いのではないだろうか。

 そのように考えると、犬は今だけを生きているとはいえない。したがって、生きていれば出会えるかもしれない利益や機会さえ奪うことは誤りであると言えるだろう。そうすると、前提が誤っているために、あとの判断基準やその要件は意味を成さなくなる。さらに、日本では動物の愛護と管理に関する法律第44条に抵触するだろう。もし、これが抵触しないのであれば、素行不良動物、里親の見つからない動物、不用動物等々の自家殺処分が許されることになり、痛みに配慮さえすればそういった動物を殺すことは自由になり動物と愛護に関する法律は意味を成さなくなるであろう。ここでも、安楽死の検討が適正に行われているとは言いがたい。


 おわりに。
 動物の安楽死を人間の安楽死との比較により、過去の判例や動物と愛護に関する法律を含めて検討し、また、以上のように、動物実験団体における指針、環境省の指針、地方行政の実態、動物福祉団体、動物愛護団体の「安楽死」に対する考えを見てきたが、いずれも詳細に検討されて適切に「安楽死」と言う言葉が使用され、実行されているとは言えない。その概要は、まず、動物には同意を得ることが難しい(不可能と言っても良いだろう)。さらに現実的な問題であるが、(たとえ、痛みに配慮したとしても)強制的に殺す事、すなわち、「強制」は当該動物にとって多大な苦痛を伴うことであり、その時点で「安楽死」とはいえない。にもかかわらず、「安楽死」と呼ぶことに問題があるといえる。

安楽死と言えるのは以下の条件で、親近者や病状を把握している獣医師等の判断がある場合に限られるであろう。
1. 耐えがたい肉体的苦痛がある。
2. 動物の死が避けられず死期が迫っている。
3. 動物の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がない。

したがって健康体の動物を痛みに配慮して殺すことや恣意的に不健康な状態にしてから痛みに配慮して殺すことは人間と同様に「安楽死」とは呼べないし、強制という精神的苦痛(動物実験の指針や環境省の殺処分における指針では精神的な恐怖等を苦痛と認めている)が生じる以上、虐待と言えるのではないか。そうなると愛護動物の場合は明らかに「動物の愛護と管理に関する法律、第44条(註9)」の違反であることになる。また、こういったことを「安楽死」と呼ぶことは誤りであり、動物福祉団体や動物愛護団体等においてば、社会敵影響等も考慮すれば、直ちに自家殺処分を中止すべきで事ではないだろうか。

また、安楽死に関係する団体等においては、安楽死の方法論に終始するのではなく、それ以前の問題として、安楽死が動物に適用できるのかどうかということや安楽死と言う言葉を使うことが適切であるのかどうかと言うことを検討すべきであったことは否めないであろう。


(註)参考文献等

(註1)
和歌山県動物愛護センター
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/031601/gaiyou/gaiyou.htm

和歌山県動物愛護センターの概要
  「人と動物が共生する潤いのある社会づくり」をめざして

(1) 和歌山県の動物保護の現状
 和歌山県動物愛護センター及び各和歌山県立保健所では、和歌山県内(和歌山市を除く)の野犬の保護、飼えなくなった犬・ねこの引取等を行っております。
 これらは、動物の習性などに対する理解や知識不足のまま安易に飼い始めるなど理由は様々ですが、その数は犬・ねこあわせて年間約5千頭にのぼっています。
 これらのうち、センターでの譲渡事業で新しい飼い主にもらわれていくのは1割にも満たず、ほとんどが安楽死処置となっています。

岡山県動物愛護センター
http://www.pref.okayama.jp/hoken/douai/html/gyomu_shokai/gyomu_shokai_kanri_3.html

【センターからのお願い!!】
・飼養場所まで引取りに行くことはできません。逃走しないように準備して連れてきてください。
・ ペットは終生飼うことが望まれます。引き取られた犬猫は、一部譲渡されるものを除いて大半は安楽死処分となります。可能な限り新たな飼い主を探すなどの努力をしてください。

(註2) 日本尊厳死協会 http://www.songenshi-kyokai.com/
(註3) 安楽死の基礎知識 http://www4.ocn.ne.jp/~tachi/siseigaku-no-susume-anraku.htm
(註4) オランダの安楽死問題 - 要請なしの生命終焉行為 長岡成夫
『実践哲学研究』第20号、pp.19-36 1997年11月
    http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~shigeo/Dutch_Eutha.html
(註5) 徳島大学動物実験指針 http://www.anex.med.tokushima-u.ac.jp/sisin/sisin_anraku.pdf
(註6) 動物の処分方法に関する指針(環境省)http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/laws/shobun.pdf
(註7) 神様助けてドットコムのホームページ http://www.kamisama-tasukete.com/annrakushi.htm
(註8) 日本動物福祉協会 http://www.jaws.or.jp/
(註9) 動物の愛護及び管理に関する法律
  第44条 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
  2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、50万円以下の罰金に処する。
  3 愛護動物を遺棄した者は、50万円以下の罰金に処する。
  4 前3項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
 一 牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
 二 前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの
(註10) 動物の愛護及び管理に関する法律
(犬及びねこの引取り)
  第35条 都道府県等(都道府県及び指定都市、地方自治法第252条の22第1項の中核市(以下「中核 市」という。)その他政令で定める市(特別区を含む。以下同じ。)をいう。以下同じ。)は、犬 又はねこの引取りをその所有者から求められたときは、これを引き取らなければならない。この場 合において、都道府県知事等(都道府県等の長をいう。以下同じ。)は、その犬又はねこを引き取るべき場所を指定することができる。
2 前項の規定は、都道府県等が所有者の判明しない犬又はねこの引取りをその拾得者その他の者から求められた場合に準用する。
3 都道府県知事は、市町村(特別区を含む。)の長(指定都市、中核市及び第1項の政令で定める 市の長を除く。)に対し、第1項(前項において準用する場合を含む。第5項及び第6項において同 じ。)の規定による犬又はねこの引取りに関し、必要な協力を求めることができる。
4 都道府県知事等は、動物の愛護を目的とする団体その他の者に犬及びねこの引取りを委託することができる。
5 環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、第1項の規定により引取りを求められた場合の措置に関し必要な事項を定めることができる。
6 国は、都道府県等に対し、予算の範囲内において、政令で定めるところにより、第1項の引取りに関し、費用の一部を補助することができる。
(註11) ARK(アニマルレフュ-ジ関西) http://www.arkbark.net/
ARKニュースレターVol.67 A VOICE FOR ANIMALS AUTUMN 2007 http://www.arkbark.net/j/index.htm
安楽死についてスー・スターンバーグ 

動物園の存在意義・動物園が主張する理由は正しいといえるのか?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160609-00000122-it_nlab-life


宇都宮動物園、捨て猫を保健所に連れて行くと表明し物議 園長「捨てられた動物の世話をする“代行業者”ではない」 ねとらぼ 6月9日(木)22時17分配信

 「他の動物を守るためにはここでは保護できません」「保健所へ行く」――元捨て猫を“ネコ園長”として飼育している宇都宮動物園(栃木県宇都宮市)がFacebookに投稿した書き込みが物議を醸しています。

【元は捨て猫だった“ネコ園長”のさんた】

 同園は6月7日、捨て猫の入った段ボールの画像を投稿し、園内の動物の保護に配慮し保健所へ送ることを示唆。すると、「保健所に行ったらその後どうなりますか」と批判する声や、「動物園側が責められることじゃない」と理解を示す声などさまざまな意見が寄せられました。

 この件について園長にお話を伺いました。

――動物が捨てられることはよくあるのですか

 年に何回とは言いにくいのですが、出産シーズンになると生まれた子がよく捨てられています。昔は犬が多く、今は猫。

――捨てないよう呼びかけは行っていますか

 入口に看板を掲出しています。でも、捨てていく。

――回収した動物はどうなるのでしょう

 基本的には、保健所に連れて行き処分することになっています。甘い対応をすると、捨てられた動物の里親を探す“代行業者”のようになってしまうので……。運営の都合上、園内で飼うことはできず、厳しく対応せざるを得ません。

――今回は里親が見つかったそうですね。

 本当に運が良かっただけです。ネコ園長のさんたも当初は保健所に連れていくつもりでした。

――なぜ動物を捨てる人がいると考えていますか

 動物を捨てるのは、ある意味で優しさ(殺さないから)。しかし、それなら「自分で責任をとるべきだ」と言いたい。

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上記のような問題も起こっているようである。同じ動物でありながら差別され保健所で殺されることが分かっていながら保健所に持っていく行為は動愛法の1条の目的や2条の基本原則に反する行為であり、違法行為だといえるが、問題は法律問題だけではなく動物同士への差別である種差別に立脚していると言事である。こういった問題を含めて動物園の存在意義はあるのかを考えてみたい。


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動物園のことを少し前にTVタックルで放映していたが、動物園の存在理由として種の保存、教育、研究、レクリエーションがあげられていた。しかし、動物園では多くの場合、その野性動物が生息する環境とはほど遠い狭い檻に閉じ込められている。動物園関係者は動物が餌を探さなくてもよいので移動する必要はなく、狭い環境で良いというが、こう言った理由が本当に妥当であり必要であるのか検討することが必要だろう。

まず、種の保存についての議論に入る前に、本当に殆どの動物園では種の保存が必要な絶滅危惧種のような動物ばかりなのだろうか?この部分は大きな疑問点なのだが、もしこのような動物があまりいないのであれば、少しの事を全てのように言う、詭弁であるということを指摘しておきたい。

次に、このような動物を繁殖させることが可能なのか?そして繁殖させて大きく増えた動物をどのように飼育していくのか?それが経済的にも現実的に出来ることなのか?

そういった希少種での近親交配による遺伝的疾患には対処できるのか?そしてそういった遺伝的疾患がなく繁殖させることが可能なのか?

このような問題も殆ど解決できて無いように見える。しかし、ここでは動物園の抱えるこのよう単純な問題は置いておき、もう少し種の保存についての根源的な矛盾した問題を取り上げてみたい。


まず、動物園における種の保存の理由から検討してみたい。最初に考えられることは、自然による原因や人間による環境破壊等のでの原因により作り出された絶滅危惧種が淘汰されたからといって、環境に具体的な影響は殆ど無いということだろう。例えばトキが絶滅したからといって誰にどのような客観的かつ具体的な影響があるのかは証明できないだろう。そもそも、絶滅自体はその種にとって悪いことでも何でもない。その環境に適応できなければその種が存続できなくなるだけのことである。そして、その環境がその種が存続できるほど改善されない限り、いくら、繁殖させて放ったとしても同じことが起こるだろう。これは、絶滅寸前であろうが、そうではなく絶滅に向かいそうな種を予め繁殖のために保護したとしても同じことである。この時点で、動物園での種の保存の意義は殆ど無くなるが、仮にこの問題がクリアできたとしても、また、それとは別に新たな問題が生じる事にもなりかねない。

それは、その環境で絶滅した種を動物園等で繁殖させても、その種が居なくなって新たにできた、すでに別の生態系とも言える環境に、その繁殖させて増えた種を放して、既に別の状態に成ってしまったその生態系を撹乱させることは、その生態系に外来種を放って撹乱させることと同じようなことだといえるだろう。すると、繁殖された絶滅危惧種の保護と外来種の駆除との整合性は全くとれなくなる。これは、生物学や環境保護からも、もちろん倫理的にも全くおかしな事だろう。

このような矛盾が起こる大きな理由の一つは、動物への道徳的配慮以外に、生物多様性が概論であることにあると思われる。例えば、上記のような絶滅危惧種に関する条件で、ある希少種が絶滅したからと言って、その環境や生態系、あるいは人間ににどのような客観的かつ具体的な影響があるのかを証明できないからである。環境が変化して絶滅を危惧された時点で個体数は大幅に減少しており、その影響はすでに、ある程度出ているはずである。したがって、残りの少数が滅んだとしてもそう大きな影響はないと思われる。大きな影響があると主張するのであれば、それを(有ることを)証明するしかないだろう。例えば、上記にも書いたが、トキが絶滅したからと言って、その生態系や、環境や、人間に、どのような具体的な悪影響があるのかを客観的に証明する必要があるだろう。

何故、そういった個別の証明が必要であるかと言えば、それがなければ、その絶滅危惧種を保護する理由がないばかりでなく、その絶滅危惧種への驚異となる動物等を排除する理由にもならないからだ。

「絶滅していく動植物の多くは人によって乱獲されたり、開発.開墾により住処や餌場を追われたり、または人によってもたらされた外来生物の浸入などが原因です。人が原因となり環境を破壊し生態系を壊してしまったものを元に戻すために、種の保護や保存をしていくことは当たり前のことです。」・・・という意見もあるが、元の環境の変化を放置して保護だけしても意味はない。元の環境に戻す事は動物園等の予算面から考えてもかなり難しいといえるだろうし、既にできてしまった外来種も含む新しい生態系をも壊す事になるからだ。留意すべきは新しい生態系イコール旧生態系の破壊イコール悪だと捉えないことである。新しい生態系を古い生態系に戻す事は不可能だと思われる。さらに新しい生態系を作るだけでこういった試み自体が自己矛盾の上にしか存在出来ないからで、不整合なき科学的行為とは到底言えないだろう。

なぜなら、環境は常に何らかの変化をしておりその変化についていけない種は滅んでいくだけである。これが進化の歴史ではないだろうか。そのことは事実であり良いも悪いもない。環境が流動的である以上、環境の変化による生態系の変化は不可逆的だろう。であるなら動物園等による保護は意味を成さないことは明らかだろう。

外来種への迫害についての議論に戻るが、例えば、その、保護された希少種を補食しようとする動物を駆除しようとするときに、その絶滅が何の意味があるのかをまず検討する必要があるだろう。絶滅したところで、その生態系や、環境や、人間に、どのような具体的な影響があるのか、つまりどれ程の悪化が認められるのかを証明できない限り、そういった動物を殺すことは誤りである。これは人間においても同様である。裁判で具体的な事実認定も行われず、抽象的な推論で死刑にすることが誤りであるのと同様である。(というか、絶滅危惧種となった時点で、そのことによる大きな環境変化による大きな被害が出ているはずである)

この事は、生物多様性という概論が誤りだと言っているのではない。そういった、動物の駆除に生物多様性という概論をあてはめようとする事が誤りである事を示すと同時に、そのような理由での駆除は単なる理由なき虐殺でしかない事を示している。

そこで問題になって来そうな事は、動物だから殺して良いとか、動物を人間は自由に利用して良いというような「動物だから」という属性を理由とした差別、種差別である。この差別は、女性だから、黒人だから、ユダヤ人だから、韓国人だから、日本人だからという属性そのものを理由した差別と同形態である。

こういった差別は何故ダメなのだろうか? 直接的な理由としては、被差別者に言われなき苦痛を与えるからである。動物はどうであろうか? 当然、動物もその中に入るだろう。なぜなら、動物も人間同様に苦痛を感じる事のできる存在であるからだ。しかし、そう言うと、多くの人間は動物を殺して食べたり、毛皮にしたり、動物を利用することを許容しているではないかという声が聞こえてきそうである。

だが、いよく考えると、人間は苦痛を良しとせず、自らの苦痛を回避しようとしたり、また、他者に苦痛を与えることも善しとしていないだろう。もし苦痛が大好きで自分の身体に苦痛を与えるために危害を与え続ければすぐに死ぬことになってしまうかもしれない。このように非苦痛は誰もが認めざるを得ない道徳的規範であると思われる。

また、自分のことを棚にあげて、他者を非難するような行為も良いとはされないだろう。そして、よく使われるような議論で、犬猫やイルカを殺してはいけないというのに牛豚やカンガルーは殺して良いのかとか、幼い頃のお兄ちゃんの方がケーキが大きいとか言う議論も同じ一貫性を追求した議論である。恐らく一貫性の肯定も認めざるを得ないだろう。これを認めない人間は言っていることと行動が一致せず、いい加減な人間とされて相手にされなくなるだろう。

結局、こう言った、誰でも持っている、あるいは誰でも認めざるを得ないような規範、つまり、普遍的な、人間は一貫性を肯定し、人間は苦痛を善しとしない非苦痛、その事により動物も含まれた非差別、という道徳的な規範が導きだされる。

この基本的な誰もが共有できそうな道徳的規範をこの問題に当てはめると、抽象的な推論で動物を殺すことは、抽象的な推論で人間を殺すことと同様に誤りであるというのが、私的、個人的な価値判断でなく、普遍的な道徳的価値判断であることが判るだろう。

結局、動物園は、こう言った種差別的な種の保存の有様に依拠しており、この種の保存事態が倫理的に誤っていると言うことが出来るだろう。





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狩猟はなぜだめなの?

 狩猟は何の罪もない、乳幼児程度の知的能力しかない、つまり、人間の成人のような責任能力のない動物を、自己の快楽のために恣意的かつ不当な理由をこじつけて殺すことです。なぜなら、その行為が当人にとって殺す必然性や義務もないのに、積極的に殺すことに参加、加担しているからそういえるのです。少し掘り下げると、殺す必然性もないのに動物であれ人間であれ、殺すことは普遍的に悪いこととされていますから、そういった悪事には罪悪感を感じることができる人間は普通は殺す事に苦痛に感じるはずです。

 それでも積極的に殺すということ、あるいは殺したいと思う事は、殺すことに苦痛を打ち消す以上の相当な快感を感じるということでしょう。これは猟という文字どおり猟奇的といえる、結局は「快楽のために動物を殺すのは良い事だ」という積極性のある性癖といえますが、この性癖は他の存在に不可逆的な害を与えており、他の存在に迷惑をかけなければ何をしても良いという個人の自由の範囲を大きく逸脱しています。

 また、わずかな快楽のために動物に不可逆的な苦痛を与え殺すということを自律できない人間性を表すものとして、また、非苦痛、非差別、一貫性の肯定という誰もが共有できるであろう規範からの道徳的問題としてはもちろんの事、このような危害原則に基づく自由の範囲を逸脱した性癖は、法的にも動愛法の動物を愛する気風を将来し平和や友愛の情動を函養するという動愛法1条の目的や何人も動物をみだりに傷つけたり殺してはいけないという、動愛法2条の基本原則にも反しています。

 一方、人間は理性的能力もあり、他種を利他的に助ける徳のあるとされる人間らしい行動もできます。これは人間だけが出来るといってもよい行動であると言えるでしょう。逆に、狩猟は罪もない動物を自己の快楽のために殺すことによって残虐性を函養し、平和や友愛等の情操に悪影響を与え、結果として社会的に悪影響を与えることとなります。以上のことから、狩猟は反社会的行動であると言うばかりでなく、自分の快楽のためには罪もない弱者をいたぶり殺しても良いとするような人間性を見たり測ったりされる踏み絵にもなります。

社会的弱者である動物を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である女性を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である黒人を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である犬を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である猫を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者であるイルカを僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である牛を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。
社会的弱者である豚を僅かな快楽のために殺すのはよい事だ。

 すべて間違いだと思われます。

 そういった態度から起こったような「男女中学生が殺される」という痛ましい事件が大阪でも発生しています。(*1) これも結果的に殺したいから殺すという人間がいなければ起きない事件といえます。また、今回の「ちはるの森」への署名運動でも、主催者や親族にちはるの森の関係者、もしくは擁護者から執拗な嫌がらせが続き、身の危険を感じた主催者は署名活動を中止しました。こういった他者への思いやりのない事実、つまり、まさに自分達の快楽のためには罪もない弱者をいたぶり殺しても良いとするような人間性を表していると当該関係者が証明したような事例だと思われます。

 以上のことから、肉食は人間が生きていく上で必要だと思っている人や、動物実験は人間が生きていく上で必要であると思っている人にも、狩猟は人間で言えば人間と動物を入れ換えた快楽殺人と同じことですから、それに反対できる人間中心主義の立場からも十分に反対できる、あるいは反対すべきである最低最悪の行いが狩猟だと言えます。

 このような、反社会的な行為である狩猟は、戦争と同じく、人間としてしてはいけないことであり、やめるべきことであると言えます。

狩猟やめますか? 人間やめますか?
狩猟やめますか? 人間やめますか?
狩猟やめますか? 人間やめますか?
狩猟やめますか? 人間やめますか?
狩猟やめますか? 人間やめますか?




*1

毎日新聞 8月21日(金)21時0分配信

<大阪中1殺害>職業不詳の45歳男逮捕 少年遺体発見

大阪府警本部に入る山田浩二容疑者=大阪市中央区で2015年8月21日午後8時43分、大西岳彦撮影

 ◇大阪府警、死体遺棄容疑で 防犯カメラ映像などから浮上

 大阪府高槻市の物流会社の駐車場で13日深夜、平田奈津美さん(13)=同府寝屋川市立中木田(なかきだ)中1年=の遺体が見つかった事件で、大阪府警は21日、寝屋川市香里新町に住む職業不詳の山田浩二容疑者(45)が関与した疑いが強まったとして、死体遺棄の疑いで逮捕した。防犯カメラ映像などから関与が浮上した。また、平田さんと一緒に行動し、行方不明になっていた同級生の星野凌斗(りょうと)さん(12)とみられる遺体が同日、同府柏原市の竹林で見つかった。

【「いやや」…遺体発見速報に少年宅から絶叫】

 府警は、山田容疑者が平田さんが死亡した経緯について何らかの事情を知っているとみて、事件の全容解明を急ぐ。山田容疑者と平田さんは、顔見知りの関係ではないとみられる。

 捜査関係者によると、山田容疑者は13日深夜、高槻市番田1の物流会社「直販配送」の駐車場で、平田さんの遺体を遺棄した疑いが持たれている。平田さんは顔を粘着テープで何重にも巻かれ、両手首も縛られていた。左腕や左胸、左腹部、左脚には生前に付けられたとされる約30カ所以上の切り傷があり、頭や顔には殴られた痕もあった。

 司法解剖の結果、平田さんの死因は窒息死だった。遺体の唇には、呼吸を止められたことをうかがわせる皮膚の変色が確認された。府警は、平田さんが粘着テープなどで口や鼻を塞がれて殺害された可能性が高いとみている。

 平田さんの遺体は13日午後11時35分ごろ、配送業務を終えた男性従業員(53)がトラックを駐車スペースに後退させた際、車内のバックモニターで気づいた。男性従業員が直前にこのスペースから動かした自家用車の底部に血痕とみられる染みが見つかっており、遺体は車の下に隠すように遺棄されたとみられる。

 平田さんと星野さんは13日午前1~5時ごろ、京阪寝屋川市駅近くの商店街にいる姿が防犯カメラ映像で捉えられていた。その後、2人の足取りが途絶えていた。

 ◇捜査車両に乗った容疑者、捜査員に挟まれ、うつむき加減に

 山田容疑者を乗せた捜査車両は21日午後8時43分、大阪市中央区の府警本部に入った。黒い帽子をかぶった山田容疑者は両脇を捜査員に挟まれ、うつむき加減に表情をこわばらせていた。






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