精霊の宿り

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a time lag……自動記述日記2

2019年06月11日 09時09分08秒 | 自動記述日記
a time lag……自動記述日記2

        ちゅうたしげる

 特別に相手にするほどの男ではないが、おれの人生の一つのエピソードぐらいには関係した男がいた。その男は、十年以上前に亡くなった。だからいまはなんの関わりも無い。時々、思い浮かべることはあったがそれがどうというわけでもない記憶なのだ。
 その男は60歳代後半に亡くなった。亡くなる数ヶ月前に男の家の近くの畑で遭遇した。日頃は付き合いと言うほども無かった。男は零細な畑でほうれん草を作っていた。おれはインターネットというものを始めて、自分のホームページを開設していた。そのホームページに載せる写真にと、男の作っているほうれん草を撮らせてもらったのだ。男はおれに親近感を示すように語った。
 「しげるくん。世の中にはいろんなことがあるんで」
 その言い方は自分はおまえの知らないことをいくらでも知っているぞ。と他者を見下すようでもあり、あるいは年下のおれを教え諭そうとするようでもあった。
 世の中にいろいろなことがあるのは毎日のニュース番組を観れば当然。当たり前のことである。男の真意をはかりかねたおれは黙った。
 それから数ヶ月後、男は県南の大病院のベッドで息絶えたのだろう。葬儀があった。おれの親父はまだ元気でその男の死に勝ち誇ったかのようにこっそりその死をおれに伝えた。病院に見舞いに行った人の話によれば、病院のベッドで「このざまじゃ」とその男はつぶやいたという。
 その男は自分のことを「選挙ブローカー」だとおれに語った。おれの妻がまだ若い農家の嫁で、町政史上初の共産党公認候補として27歳で立候補して選挙戦を戦ったときのことだ。そのとき、男がおれに語ったのだ。田舎では「選挙と土地の争いが一番じゃ」。選挙ブローカーというのは候補者と有権者の仲介をして金のやりとりをする人間のことだ。その男は候補者一人の当選を左右する「票」を握っていた。
 たぶん、その男は複数の候補者から金をむしりとっただろう。激しい選挙戦だった。だがおれにはその男が選挙ブローカーであることなどどうでも良かった。若い時代を生きていた当時のおれは、なにか生きるという行為の意味を世上の価値とは別様に狂おしいほど求めていたのだ。それはドストエフスキーの小説の一人の主人公でもあるかのようだった。「白痴」という小説のなかで、ナスターシャという女性が多額の札束を暖炉の炎の中に投じる光景が描かれている。まるでその小説の中を生きるように当時のおれは生きていたのだ。
 その男は「しげるくん。何を言ようる。わしは舅(しゅうと)の下(しも)の世話をしたで。」と語った。その男は養子だった。若いおまえなど問題ならんという風だった。「就職口を見つけてあげるようなもんですから」この言葉を発した瞬間に選挙に立候補した人間と有権者の密かな契約が結ばれる。候補者は相場の額の金を渡し、有権者は投票の約束をする。当時議員選挙で一票は五万円の相場だと噂が立った。
 「世の中にはいろんなことがあるんで」と言った言葉の真意は、世の中には表に出せないことが山ほどあるんで。ということだった。世上の口に上ることはほんの氷山の一角。闇から闇に葬られることはいくらでもあるのだ。
 たとえばこの村では、産んだばかりの産子の顔に濡れぬのをかぶせて、嫁に当てつけるように嫁の前で姑が子の「間引き」をする話が当然のごとく語られた。それは「殺人罪」などという公の罪に問われることは無い。闇から闇へ処理されるべき事だった。それは「家」のなかでの「嫁と姑」の権力関係を確認する一作業に過ぎなかった。
 「姥捨て」も「兄弟殺し」も当然のごとくにあって、闇から闇へ、「殺人罪」に問われることなど無い世界があったのだろう。
 おれの親父は婿養子でその男と気の合うところもあったのだろう。その男の家の周りの畑と田んぼ一反分を交換する話を成立させたりした。闇から闇へはその男もおれの親父も気が通じていたのだ。
 おれは農家で育ったので両親が田畑で働くので曾祖母に育てられた。曾祖母を心から慕った。曾祖母が亡くなるのはおれが小学校の一年生の時だが、病院からもはや臨終というときに家に運ばれて家の畳の上で曾祖母は亡くなった。おれは曾祖母の枕元に呼び寄せられた。曾祖母はまだ息をしていた。明くる朝、曾祖母は亡くなっていた。父親が早く目覚めて様子を見たらすでに死に絶えていたというのだ。父親は医者を呼ぶ前に曾祖母の酸素吸入器の管を自らの手で取り外していた。それを母親から聞いて、おれの幼い心は疼いた。父親は曾祖母の酸素吸入器を意図的に取り外したのだ。
 むろん、そんなことは「殺人罪」にあたらない。死を報告する村の医者がうまく取りはからうのだ。そんな時代がかってあったのだ。
 「文学」というとき、おれは門外漢だと思う。それでも「文学」というときおれにもある種のイメージがあってものを書いたりするのだ。それは、おさない無垢の少女の横顔なのだ。村の少女あるいは娘。といっても良い。切ないほどの良心と世間への知を混在させ両立させているある少女のイメージがおれの文学への想いだ。それはおれには手の届かないところにある。
 その男は、おれが小さな町の文学賞を取ったりして「本」を自費出版するようなまねをしているのを知っていたからだろうか。「しげるくん。世の中にはいろんな事があるんで」と死んでいく前におれに語った。世の中には白日の下に晒されない闇から闇へ葬られることが圧倒的に多い。おまえは何も知らないのさ。と男は言いたかったんだろう。村で文学と言えば、嫁姑の争い。土地と選挙の争い。「間引き」「姥捨て」相続をめぐる「兄弟殺し」。あるいはまた「初夜権」。それが村で言う文学だった。親殺し、子殺し、兄弟殺し、ついでに妻(夫)殺し。それをそのまま文学だと言う。それは、埴谷雄高の大宇宙的思想小説でも無く、ドストエフスキーの心理小説でも無く、語られない闇から闇の。人間の心の闇の「文学」だ。
 だがそんなことは男に言われるまでも無い。「いろんな事がある」のはニュースが報じている。誰でも知っているのだ。
 男の言う闇から闇へのそんな「村の文学」などはおれにとって知ったことでは無い。おれはあくまで村に育つ幼い少女の無垢な心のみを見ていたいのだ。そこに人間の真実をあくまで求めていたいのだ。あの男はあの世で小癪な奴だとおれに腹を立てているだろう。


     (了)

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