時系列無視、極道話雑感 | なんでも書いちゃってます

なんでも書いちゃってます

【卓球】政界・宇宙・日本文学・極道・他
 多彩なエンターテイメント

【you tube】
ギター演奏:https://youtu.be/u9wkuDy5UlI
卓球動画:https://youtu.be/HwGHu_Y11qI

【卓球動画/youtube/チャンネル】➡https://youtu.be/HwGHu_Y11qI

 

「悲憤」の監修者「宮崎学」氏

多くの疑問発言に対して

とどめ発言!

 

私が勝手に

「中野さんの名前で本を出した」

という噂もあるようですが、

それはあり得ないです。

私は、中野さんからご指名をいただいています。

なぜそんな噂が出るのかわかりませんが、

とにかく話題になっているので、

いろいろなことを言う人がいるのは

仕方ないでしょう・・・「宮崎学」

 

出版の経緯については、

中野会にも在籍していた

「竹垣悟」氏との対談本

『ヤクザと東京五輪2020 巨大利権と暴力の抗争』(徳間書店)

 
 

でも触れていますが、

そもそもは中野さんが

「中野会や事件に関する報道に反論したい」

というところから企画がスタートしました。

対談も読んでみてください。「宮崎学」


00000000000000000000000000000000000000
 

話を「竹中4代目」亡き後の・・・

ごたごたしている山口組に戻してみよう

話は単純明快!

山口組は4代目「竹中」組長と

ナンバー2の若頭「中山勝正」を一気に亡くした!

 

やられたらやり返す、これがこの渡世の掟である・・・

いわんや、山口組にとっては組長と若頭の

ツートップが一挙に玉(命)を取られるという

衝撃の大惨事である

・・・にも関わらず・・・

「一和会」に対してカチコミや下っ端の名もなき組員の狙撃・・・と・・・

一応報復してますよ、という、形だけをとっているに過ぎない

弱腰の「山口組」の反撃・・・これはどういう事なのか?・・・

 

そんな中・・・

孤軍奮闘する岡山「竹中組」

(竹中武・組長・4代目実弟)の

 

働き、実績は目を見張るものがある

人の命に重いも軽いもないが・・・

この渡世は下っ端の命は 軽いとみなすのだ!

竹中組の戦績は群を抜いていた

「一和会」の幹部

<幹事長補佐「赤坂進」>

<副本部長「中川宣治」>

の生命を奪ったのは竹中組だった!

他の組で「一和会」の幹部に手が届いたところは

どこもなかった!

口には出さないが「竹中武」は分り切っていた!

所詮4代目といえど、多くの組員にとっては他人様である!

他人様のために何十年も懲役になど行きたくはない・・・

そんな空気がこの時点

(竹中正久4代目死亡で)芽生えてきていた・・・

・・・要するに・・・

3代目「田岡一雄」や4代目「竹中正久」・・・

何れも人心掌握術に秀でて居る、

この親分のためなら自分の命などはいとわない!

だが「田岡一雄」が去り「竹中正久」が去った今・・・

【この人のためなら】と命を懸ける人物がいない!

00000000000000000000000000000000000000

かっての三代目「田岡一雄」」の若頭「山本健一」

趣味が「田岡一雄」というぐらいで

「田岡一雄」が好きで好きで・・・

男心に男が惚れて・・・状態である・・・

 

幼くして叔父とはいえ

他人様の顔色をうかがいながら育った

「田岡」は俗にいう<苦労人>である、

それゆえ 人心掌握術にも長けていた

(そのあたりが人を引き付けてやまない)のだろう

 
 
 

その心酔し切っている「田岡一雄」が・・・・・

京都三条駅前のクラブ「べラミ」で・・・

何者かに狙撃されるという大事件が起こった!

 

53年7月11日 夜8時・・・

山口組三代目「田岡一雄」は

京都三条駅前のクラブ「べラミ」で飲んでいた

 

「田岡」を付け狙う怪しげな男は更にその後ろ

一列を隔ててボックス席にひっそり座っていた

外人のリンボーダンスが終わりかけた頃

男は席からふらりと立ち上がり

両手でピストルを構えた

照明は暗くドラムの音がひときわ激しく

大きく鳴り響く一瞬

男は「田岡一雄」の後頭部を目掛け

二発の銃弾を浴びせた 

一発目は「田岡」の首の表皮を削り

前席の医師の右肩を砕いた

二発目はボディーガード「細田利明」の右肩をかすめ

流れ弾となって同じ医師の脇腹にめり込んだ

べラミ事件の第一報を「山本健一」は

大阪豊中の庄内病院二階奥の病室で聞いた

狙撃された「田岡」を乗せた車は現場から

直接関西労災病院に向かっているという

「山本健一」は飛び起き

山口組本部「山健組本部から各組に事件発生と

待機の通達を出すよう指示した

まだ犯人は不明であり皆目見当がつかないらしい、

やるとすれば大阪第一次抗争で戦った「松田組」か

絶縁した「菅谷政雄」(国際ギャング団、凡野の異名・

山口組では外様ではあるが

傘下組員1000人を超える強大な組織力を誇っていた)

「山本健一」はパジャマ姿のまま「いくぞ」と組員に声をかけた

「親父(田岡)はしっかりしている

生命に別状ない模様だというのだが

この目で確かめない事にはどうにも安心できない

「山本健一」は車を出させ夜の街道を

関西労災病院に向けひた走らせた

「首を撃たれたいうのに気丈いうのは親父やからや

今ぎりぎり踏んごたえてる、間違いないわ

そやけどあの細い身体でそうそう何時間ももつものやない」

考えるうち今にも「田岡」が息を引き取りそうな気がした

わしは親父の死に目に会えるんやろか、

待ってくんなはれ親父・・・

いまわし行きますさかい親父どうか待ってくんなはれ、

「山本健一」は必死だった!

信号が赤だろうとかめへん、渡れそうなら渡ってまえ、

遮二無二病院に急いだ構内に乗り入れ

病院表玄関に近寄るとすでにニュースを聞いて駆け付けた

山口組の組員でごった返していた

「びっくりしましたわ親分は首にハンカチ押し当て

一人で車降りて歩いて病院に行ったんですわ

いやすごいもんです」

興奮した組員が「山本健一」を認めると

口々に状況を伝えた!一安心や

「山本健一」は警察のガードをくぐり勝手知ったる

病院をエレベーターで東館五階に上がり

ちょうど「フミ子」が入院していた病室に向かった

心臓を患ってかかりつけの「田岡」の部屋でもある病室や

近辺のコーナーにはすでに山口組幹部や直系組長

「田岡」の家族が詰めていた

首の貫通銃創は奇跡的に急所をそれ

「田岡」はいたって元気らしい

一瞬気が緩んで膝の力が抜けそうになった

「田岡」は「フミ子」と「満」(長男)「由伎」(長女)に付き添われ

ベッドで目を閉じていた

「山本健一」が入室した気配に目を開け

首を動かさず横目で「山本健一」を見た

「健か わしは大丈夫やからな心配するこたあない」

それきりで黙った

「山本健一」はともかく命の無事を喜び早々に病室を引き上げた

命に別状がないなら若頭たるもの長居は無用である

以後は「田岡」への連絡も遠慮して

報復に全精力を注ぐのが若頭の務めになる

親分に塁を及ぼさぬためにも寄り付かないぐらいで丁度いい

「親父が撃たれた時、頭(かしら)「山本健一」は

見舞いは短時間ですぐに身を隠しました、

あの時わしらはある所へ集まったんです

悲しむ前にどう考えをまとめ どうするか 

やはりあれだけの事件やったら

若頭補佐には任せられません

「山本健一」若頭が直接指揮権発動して

責任取る事になります」(山口組直系名神会会長・石川尚の話)  

 

「田岡」の手術は40分ですんだ

その数時間後には

もう山健組内「道志会」の組員三人が走っていた

「松田組」にもう戦力はないやろ

(第一次大阪戦争で山口組に深手を喰らっている)

やるとしたら「菅谷」やな「山本健一」と同様の判断を

山健組幹部がふと漏らしたところ聞きかじった若手組員が

「菅谷組若頭代行」(赤坂一夫)宅のドアガラスをたたき破lって乱入

二階に向けてピストル乱射「赤坂」と家族は無事だった!

時間が経ち・・・

「菅谷」組は無関係と判明、

真犯人は大日本正義団幹部「鳴海清」と判明

(上層部は松田組)

べラミ事件の発生した当時

「山本健一」に近く

ある種、

<親衛隊的>存在だったのは

「正路正雄」(正路組組長・大阪・「十三)

藤原定太郎」(藤原会会長・大阪・北)

「真鍋展郎」(真鍋組組長・尼崎)

「石川尚」(名神会会長・名古屋)

★「宅見勝」(宅見組組長・大阪・南)

らの直系組長だった

「山本健一」はこうしたグループと連絡をとりながらも

事件を聞いて「田岡」を見舞った後は

相変わらず豊中市の庄内病院に腰を落ち着けていた

身辺には山健組若頭補佐「平川一茂」(盛力会会長)

運転手役として若衆「道才修一」などを置き、

密かに報復のための方策を巡らせていた

「山本健一」が何も言わなくても

山健組の面々には

何をしなければならないのか痛いほどわかっていた、

 

その頃の・・・・

 

<山健組三羽ガラス>

といわれていたのは

 

★健竜会会長・渡辺芳則】を筆頭に

【健心会会長・杉秀夫】

【盛力会会長・平川一茂】

00000000000000000000000000
 

【盛力会会長・平川一茂】

後に五代目山口組組長となる渡辺芳則とは

山健組で同じ若頭補佐を務めたりしていたが、

盛力はその頃から渡辺のことを良く思っていなかったようだ。

渡辺の方が先に山健組入りしていたが

山健組若頭補佐になったのは同じ時期、

山健組若頭だった三輪正太郎と盛力は五分の兄弟分であり、

座布団は盛力の方が高かった。

盛力は山健組若頭に内定されていたが

京都刑務所に収監された為、渡辺が山健組若頭となった。

その後の宮城刑務所で服役中には三代目山口組組長の

田岡一雄と親分の山本健一が相次いで死去。

渡辺は二代目山健組組長に就任した後、

五代目山口組組長を襲名し暴力団社会の頂点に立った。

五代目山口組で直参となった盛力だが、

山健組の初期の頃は盛力の方が渡辺より座布団が高かったため

渡辺の子分になることには迷いがあったという、

盛力は渡辺に先を越されていったのが気に入らなかったのだろう。

盛力は渡辺や桑田ではなく、

自身が山健組組長に相応しいと思っていたようだ。

大阪戦争で成果を挙げ、

取り調べでは体を張って親分や組織を守り抜き、

懲役16年を務めたのに山健組組長になれないなんて

ゆめゆめ思って無かったという。

ある日、渡辺に拳銃を貸したが翌日に

撃鉄の部分が折れて返って来た。

渡辺は『知らんがな、折れてしもたんや』と言い

悪びれる様子は無かった。(渡辺芳則はこんな軽い人間なのだ)

渡辺が二代目山健組組長になった時、

渡辺は盛力の許可を得ずに盛力会の若者4人を

山健組の直参にあげた。

この若者は盛力が出所したら

盛力会に返すという約束だったが反故にされている。

出所後に渡辺から出所祝いとして

ルイ13世が2本と500万円が贈られたが、

渡辺は周りに『盛力には30億円ぐらいやらな』と言っており、

周りは盛力が渡辺によい処遇をしてもらってると勘違いしてしまった。

あるとき盛力は渡辺に

『盛力、俺は田岡を超えたぞ』や『お前の極道人生は失敗した』

などと言われ、盛力は渡辺と距離を置くようになり、

これらの出来事を自身の著書『鎮魂』にて暴露するに至っている。
 

 

00000000000000000000000000

の三人である

それぞれの組織は共同して事に当たるというより

むしろ競争して報復の一番槍をつけようと

<山健組内>の三羽ガラスは

各々臨戦態勢に突入していった!

 

0000000000000000000000000

 

話はワープするが・・・

(支離滅裂)に記事が進む可能性あり・・・

「溝口敦」(ノンフィクション作家、ジャーナリスト)

「溝口」氏の記事に対して さる組から いちゃもんがついた

「記事を削除せー」 

「どの部分がおかしいのか?」

「溝口」も簡単に引き下がるような軟な男ではない!

さる組は「溝口」及び「溝口」の息子おも刺す・・・

という蛮行に出た 素人(ましてや物書き)等々に

手を出す最低野郎の組員と指示を出した

ぼんくら親分

00000000000000000000000000

山口組が8月末に分裂した。

山口組としては31年前、

一和会(山本広会長)が離反、分裂して以来のことである。

山口組本家(本部・神戸市)は

70人余の直系組長を擁していたが、

今回の分裂劇ではそのうち13人が叛旗を翻し、

「神戸山口組」を別に立てた。

 

反乱軍には組内最多の組員数を誇る

山健組・井上邦雄組長(山口組の若頭補佐だった)、

 

 

長らく山口組で総本部長を務めた

宅見組・「入江禎」組長

 

 

かつて若頭補佐だった侠友会・「寺岡修会長」

 

 

などの有名ヤクザが含まれている

(山口組は8月27日、これら13人を絶縁・破門処分にした)

何れも神戸山口組のそうそうたる親分衆である!

何のことはない単なる内輪もめである!

 

「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」
カネ集めの激しい六代目

 

 袂を分かった主な理由は

今の六代目山口組が行っているカネ集めの激しさにある。

直系組長たちは毎月約100万円を月会費名目で本部に納めている。

その他、本部によるミネラルウオーターや

日用品の半強制的な押し付け販売もあり、

直系組長である以上、最低でも毎月50万円は買うことになっている

 たとえばミネラルウォーターである。

1ケース24本入りが3120円(1本が130円の計算になる)、

これを最低でも10ケースは買うという縛りを掛けていた。

つまり毎月240本以上のペットボトルが各直系組に送られてくる。

小売り店が仕入れるほどの量でありながら、

なぜか値段は自販機並みに高い。

直系組は組事務所に積み上がる水や雑貨の段ボール箱に

「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」と嘆息することになったわけだ。

 

 山口組本部には直系組長たちが差し出す会費だけで

毎月約7000万円が集まった。

このうち約3000万円が月々、六代目司忍組長に渡っていたとされる。

年間にすれば3億6000万円。

その他、直系組長たちが拠出して中元や歳暮の時期、

また司組長の誕生日祝いなどで各1億円ぐらいを集めて、

司組長には年6億円ぐらいを渡していたらしい。

また司組長は友好団体のうち

双愛会、共政会、福博会、東亜会を後見し、

これら団体からも中元や歳暮の時期に現金を贈られているようだ。

なんやかやで年間10億円前後を集金していると見られる。

 

 神戸山口組に移ったかつての

山口組直系組長がいう。

 

 「今の山口組がやることは殺気立っている。

たとえば福井の川内組・根本辰男組長が辞任を申し出ると、

組事務所の所有名義を息子の名前にしているのが気に入らないと、

罪過もないのに根本組長を破門して外に放り出し、

組事務所を取り上げようとした。

 

 とげとげしいだけの山口組が後5年もつかどうか分からない。

われわれは山口組をなくすわけにいかないので立ち上がった。

願いは、田岡一雄三代目組長時代のように

和気藹々とした組に戻すことです」

 
 

プレイバック、ワープ(夕貴ブログ)

 

「山口春吉」・・・↓

 

初代「山口組」は(神戸港の荷役作業)を請け負い

沖仲仕の人夫、50名ほどの集団だった!

(勿論、暴力集団じゃなかった!)

二代目「山口 登」は

当時民衆の間で大人気だった
浪曲の興行権を巡るトラブルで
山口県下関市の「籠寅一家に」単身話し合いに行き
騙まし討ち同然に惨殺された!

 

そこで「山口組三代目」に抜擢されたのが
「田岡一雄」だった・・・

初めて肉親以外の人物が組長に抜擢された!

 

話を はしょり・・・

この後・・・「三代目・
田岡一雄」が死去し・・・
相次いで
「山本健一」も・・・

愛してやまなかった
「三代目・田岡一雄」を追いかけて
殉死するように亡くなって行った・・・

ここに「山口組」は一挙に「田岡一雄組長」と
ナンバー2の「山本健一若頭」を失うという
緊急存亡の時を迎えた!・・・


「山本健一」は遺言のように
見舞いの
「竹中正久」に言っていた

「山本広」だけは組長にするな!

この思いは
「竹中正久」も同じだった!

能書きだけはたれるが・・・
組のために命を懸けるような働きはしていない!
こんな奴は極道ではない!

これが
「山本広」に対しての二人の共通認識だった!
組長亡き後・・・残された田岡組長婦人・・・
フミ子姐さんの意見も重用性を持つ!



組内の大方の予想は「山本広」であった!

しかし「フミ子姐さん」は主人の遺言であると

「竹中正久」を推挙した・・・


このことで組は真っ二つに割れ・・・

「山本広」を支持する「加茂田重政」等々の
大幹部約6000名が脱退・・・

「一和会」結成・・・

一方山口組は4700人と数では劣勢にたたされた!・・・
そして骨肉の争いは壮絶を極め・・・
悲劇的な局面へと向かってゆく・・・

 

以上・・・

プレイバック、ワープ(夕貴ブログ)

 

不思議な出来事・・・

3代目「田岡」組長と

ナンバー2「山本健一」若頭が一気に亡くなった!

負の連鎖は再び起こった!

4代目「竹中」組長とナンバー2「中山」若頭が

一気に凶弾に倒れ亡くなった!

事情は異なるが ・・・

ナンバー1と2が同時に亡くなれば跡目で必ずもめる・・・

五代目になった「渡辺芳則」は人を強烈に引っ張る哲学も

指導性もない、

ここで・・・山口組は終わった!

「竹中正久」以降の山口組は

極道本来の任侠道を大きく逸脱し

金まみれの守銭奴稼業に落ちぶれ果てた

 

時系列が・・・しっちゃか めっちゃかで

読んでる皆さん方に申し訳なかったと思っています

閃いた事柄を時系列を無視して書き加えていったのが原因です

 
 
 


卓球ランキング