自由への逃走

自由への逃走

投資ブログから、日々考えていること、読書で心に残ったことなどを記していく備忘録に変貌。

あぐです。

 

世の中の誰一人読んでないであろうブログに世の中の誰一人興味がないであろうことを書きますが、うちの母は毎日新聞を取っています。もとい。取っていました。

 

私はというと新聞は電車の中で読む日経電子版と、会社で読む業界紙くらいで、家にある毎日新聞は晩御飯をいただきながら斜め読みする程度ですが、赤旗を取るほどイッちゃっていない左巻きの老人をターゲットにしている感じで正直つまらないです。

 

ある日母が、「毎日新聞が値上げをする」とぼやいているので、私は日経を紙面+電子版のセット契約に変えてあげるから毎日新聞なんてやめればとお伝えしました。母はニューヨーク綿花市場の動きには全く興味はないものの、テレビ欄があればハッピーな感じなので新聞屋さんに「もういらないよ」と電話したところ、「9月までの契約なのでダメです」とにべもない返事。

 

契約書(あのメモ用紙みたいなやつ)を見ると、月々の新聞代の欄が空欄になっているなどお粗末なものでしたが、確かに読者は途中の価格改定を受け入れる義務があるみたいな事が書かれていました。更にごねたところ新聞屋さんが代案として出してきたのが契約満了まで別の新聞を取ること。

 

好きな人もいるでしょうから仮に「3K新聞」としておきます。購読料が安いらしく、早速我が家に配達され始めたので読んでみたのですが、噂にたがわぬ低クオリティ。

 

例えば同性婚を認めないと国が訴えられ、認めないのは違憲だという判決を報じる記事。『同性愛など性的少数者への差別や偏見をなくす取り組みが必要なことはいうまでもないが』という一文の前の文は『伝統的家族観を敵視するような批判や運動は社会のためにならない。』とあります。同じ人物がほぼ同時刻にこの二つの文を書いたというのはなかなかシュール。しかもこれ記事というか社説です。

 

この衝撃をどうしても誰かと分かち合いたくて同僚に話すと、「ああ、3K新聞はスポーツ新聞みたいなものですよ」と達観した返事が返ってきました。なるほどスポーツ新聞。この新聞は突っ込みいれながら楽しむものなのですね。私にはそんな暇はありません。

 

前置きが長くなりました。

 

上の例にもあるように最近の世の中、多様性を認めていこう!という風潮が目立ちますが、確かに自分が少数者と感じる人が生きやすい社会はより望ましい社会であるのかもしれません。反対するとボコボコに叩かれるのは必至。私自身は個々のケースに特段の意見はありませんが、一方で「伝統」が解体されようとしているという危機感を感じる人がいるのも認識しています。

 

伝統の機能は何かと考えてみると、構造を保つということがあげられます。いわゆる保守的な考えの人は、理性の力で世の中はどんどん良くなっていくというリベラルな考えに対し、「事はそんなに単純か?」と変化を受け入れるにしても取り返しのつかないことのないように漸次的な変化を志向すると理解しています。それゆえに保守的な人は伝統を大切にする。

 

私は、保守性というのは人が遺伝子レベルで持つ根本的な性質だと思っています。

 

遺伝子はそれそのものが構造です。おそらく宇宙の根本原理と思われる熱力学の第2法則に一見反して出来上がった構造。遺伝子を守る肉体と生命、そしてそこに宿る意思はこの構造を宇宙の根本原理に抗い、できるだけ永らえようと望んでいるように私には思われます。おそらく形あるものや(もっと究極的には)生に対する執着はここから発生しているのではないか。

 

このとき多様性への動きをどう捉えたらよいのでしょうか。

 

ブライアン・グリーンという人の本で、『時間の終わりまで』という詩的で壮大な宇宙史の本があります(最近ブルーバックスにもなった)。その中で、彼は物理学者らしく自由意思を否定します。実はこの本の中で唯一歯切れの悪いのが、この自由意思について書かれているパート。彼の理屈からすると、多様性を求める動きは、熱力学の第2法則の表れなのかもしれません。

 

なお、私は大多数の人と同様に自由意志はあると信じています。というか大多数の人にとって自由意思は当たり前のもので、無いかもしれないなどと考えたこともないでしょう。しかし実のところそれは現在の物理学とは相いれない。かといって、自由意思を認める形で将来物理学がアップデートされる予感もしない。もしかすると自由意志の存在は「語りえない」、悟りとして直観するしかないことなのかもしれません。

 

私はどうしても知りたい。いつか悟りを開けるかしらんにやり

あぐです。

 

先日、子供を床屋に連れて行ったらそこのマスターが「コロナは製薬会社の陰謀だ」というような話をし始めて唖然としました。なにやらこんなにも早くワクチンが出来上がるのはおかしいとかいうことを、滔々と話すのですが、どうもワクチンの仕組みもよくわかっていない感じ。むっ

 

古い話ですが、湾岸戦争の際、テレビのインタビューで八百屋がスカッドミサイルについて力説しているのを見たときと似たような嫌悪感を覚えました。

 

件の床屋さんがコロナ禍により売り上げ減で苦しんでいるのは分かるのですが、(おそらくフェイクニュースの助けを得て)悪者を特定し、少しでも鬱憤を晴らそうとするのは一種の防衛本能によるものでしょうか。事態は何も変わらないんですけどね。。。

 

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同様に昨年来不思議でしょうがないのが、日本人でありながらどうしてこんなにもトランプに肩入れをしてフェイクニュースを中継する輩が多いのかということ。最近ペロシ下院議長が逮捕されたというフェイクニュースが拡散されていましたが、このニュースを信じた人は、その後米国の議会報道でペロシ氏が普通に活動しているのを見て何を感じたのか謎です。

 

この人たちの心の中がどうなっているのか非常に興味があるのですが、思い出したのが戦後のブラジルなどの日系人社会の中で起きた勝ち組・負け組による対立です。日本が第二次大戦で負けた後、遠い異国の地に住む日本をルーツを持つ人たちの中で、負けたなんて嘘だという「勝ち組」と事実をそのまま信じる「負け組」といった、時には暴力を伴う分断があったことです。

 

考察というのもおこがましい直感のようなものですが、おそらく「勝ち組」の中には精神的な根無し草状態からくるアイデンティティに対する不安があったのではないかと思います。先の安倍政権の間、傍から見ると滅茶苦茶な彼の活動・言動を「這っても黒豆」的態度で100%肯定する人が私のSNSのつながりの中でもチラホラ見られました。今から考えると、そのような人たちは国内外に限らず、上述のような傾向があった気もします。

 

では、第三世界の独裁者を彷彿とされるトランプに肩入れする理由は?これは中国に対する不安と、個人になり切れない未熟さ(その裏返しとして強いものに支配されることへのあこがれ)と、日本人の中に刷り込まれた「アメリカのポチ」的心情が、人によって割合は違うもののミックスされた結果と考えます。最初の二つは特に根拠の無いことでも罪でもありませんが、三つめはこれまでの対米ケツ穴舐め外交の蓄積によるもので、どうもこの国の宿痾となっているようです。

 

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現首相もひいき目に見てもポンコツだし、世の中を見渡すと腹立たしいことばかりなので、精神衛生上、最近は身の回りのことに集中しています。とはいえ床屋においてまで愚かさを目の当たりにさせられたのには驚きましたが。ガーン

あぐです。

 

職場で安倍さんの辞任のニュースに接しました。私は少し前から政局のことはあまり気にしなくなっていたのですが、彼のことを好きだったボスが「しょせんは坊ちゃんだな」と切り捨てていたのが微笑ましかったです。

 

超長期だった割には成し遂げたことがはっきりしない政権でした。株価だって日銀が買い支えしてなければ全く違うレベルにあるでしょうし、むしろ後始末がもたらすリスクが怖いですね。失われた20年が30年になっただけでした。

 

安倍さんのやることなすこと全て肯定(もしくは否定)する人々の登場も気持ち悪かったです。政治とは違う次元の何か心理的な投影があったように思えます。

 

後釜がどうなるにせよ、政治制度そのものが終わっているので、これから更に落ちるところまで落ちていくのでしょう。

 

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だいぶ前から野党が再編しようとしておりますが、本人達も周りも「政策で一致しなければ」などと言っているのを見て、こちらもどう転んでも期待はできないなと。

 

これだけ各個人が多種多様な価値観を持つ時代において、いまさら構成員が或る政策パッケージを揃ってエンドースする巨大政党など原理的に不可能なのです。不可能なことをやろうとして失敗して、政治不信がさらに高まって。。。もういい加減に気づかないと手遅れになるイシューがでてくるのでは?

 

いつかはイシュー単位で考えを一致させるグループが幾層にも重なり合いながら一つ一つ課題を片付けていき、同時に国政で扱うべき事柄の再吟味を行い積極的に都道府県、市町村に予算込みで落としていくという作業が必要になるでしょう。

 

自民党の派閥は自民党という外皮があることにより、今まさにみられるように権力ゲームの単位となってしまっているのでこれとも違う。

 

いっそのこと首相を公選制にして、その人が提示する国家観を国民の大まかな意思のベンチマークとみなして、国会では個々の代議士もしくはそのグループがトピック毎に論を戦わせるようにしたらどうかしらん。