4年ぶりにW杯の季節がやってきて、終わった。
日本が力を尽くして敗退するまで、テレビをつけてもTwitterを開いても、みんながサッカーの話をしていた。
今ではすっかりアイドルオタクになって、スタジアムに足を運ぶことはなくなってしまったけど、まだプロになるかならないかの頃によく試合を見ていた選手が今の日本代表にはいる。
深夜ひとり、テレビの画面越しに思い入れを持って試合を見守った。
かつてサッカー少年だった彼ら。今、あの頃夢見たでろう舞台に立っている。
「夢は諦めなければ必ず叶う」。よく聞くフレーズだが、聞く度に胸の奥のほうがザワッとする。
自分自身も脱落者のひとりだけど、諦めなければ夢が叶うのは結果論で、現実的に夢は叶わないこともある。その残酷な現実に対して、「必ず叶う」という言葉の無知、無責任さ。
目標へ続く階段は、高いところを目指すほど、上からの重力と下からの引力との戦いだと思う。
夢中で上っているうちはいいが、ふと立ち止まって重力を感じたとき、次の一歩は今まできっとより重い。
迷えばあっという間に引力に負けて転げ落ちる。
ゆっくり降りられればいいが、想像以上のダメージを負うこともある。
だから辞めろというわけではない。ただ、ある人の存在を思い出してしまう。
そして、「夢は叶う」と聞く度にザワッとしたものにかき立てられ、老婆心というか、余計なお世話というか、「だめ、もっと頑張らなきゃ、そこから堕ちてしまう! そしたら…」と叫びたくなる。
夢の階段を転がり落ちていった男の子。
もう全部書いてもいいだろうというくらい時が流れた。
まあ、何度も記憶を反芻するうちに事実とズレていった部分もあるだろうから、目を通していただけるなら半分フィクションだと思ってください。
サッカーをよく見に行っていた高校生の頃、サポーター仲間のGさんに「ユースの試合がおもしろいよ」と誘われた。
Gさんとは親以上に歳が離れていて、おじいちゃんとまではいかないけれど、仲間内では“愛すべきオヤジ”だった。
家が厳しかった私が延長戦までスタジアムにいられるように、母親にかけあってくれた人だ。
ユースというのは高校生のチームで、高校の部活とは別にクラブチームが組織している。
高校サッカーよりスマートだけど、プロより若さと荒々しさがある。がむしゃらな感じや敵味方未熟ゆえのスーパープレーがあってワクワクしたし、試合が単純に分かりやすくておもしろかった。
練習場はトップチーム(プロ)の練習場から少し奥に入ったところにある。
立派な芝生のピッチで、選手は親元を離れて寮住まいの人も多かった。
試合や練習が終わると、それぞれ泥よけのところにマジックで名前を書いた銀色のママチャリを、ギコギコ漕いで帰っていく。
Gさんが「紹介したい」とママチャリを呼び止めた。
それがMくんだった。
目が細くて面長で、ものすごいイケメンではなかったけど、さっきまでピッチでボールを蹴っていた人が目の前にいて不思議な感じがした。
Gさんに言われるがままにケータイ番号とアドレスを交換した。
毎日メールをするようになっていろんなことを知った。
同い年、中学までは他の県に住んでいたこと、お父さんは漁師をしていること、
今は寮に住んでいること、練習場と同じ市にある私立の学校に通っていること、
少し前に彼女と別れたこと―。
GさんとMくんと3人でご飯に行った。緊張して全然喉を通らなくて心配された。
帰りの車でMくんは何度も「地元の魚のほうがうまい」と言っていた。
掘りたてのイモみたいな田舎の女子高生だった私は、後部座席でふいに手を繋がれて今度は喉から心臓が出そうだった。
Gさんは運転しながら世間話を続けている。
あとから思い出すととんでもない男だなと思うのだが、Mくんは人差し指を自分の唇にあててシーッとやった。
17歳だぞ。それは惚れてまうやろ。
ほどなく告白してもらい、付き合うことになった。
Mくんは順風満帆に見えた。
サテライト(2軍)とはいえ、プロ選手と一緒に試合に出ていたし、海外クラブのユースチームが集まる大会でドイツの強豪クラブ相手に超ロングシュートを決めていた。
私はその試合と部活の大会が被っていて行けなくて、ずっと後になってからビデオで見せてもらったのだけど、あまりにもきれいで力強い完璧な超ロングシュートで、感動して涙が出るほどだった。
ときどき海外遠征にも行っていた。
今と違って海外でケータイが使えなかったから、遠征に出かけてしまうとしばらくメールもできなかった。
けど、そんなにキラキラしたことばかりじゃないことも少しずつわかってきた。
ある試合を見に行ったとき、Mくんはスタメンじゃなかった。
後半の途中で交代して出場した。
単純にサッカーをする姿が見られてうれしかったけど、Mくんはそうじゃないみたいだった。
試合が終わって共通の友人や選手たちと別れて2人になると、「時間稼ぎに使われた」と漏らした。
不満そうな声を覚えている。
Mくんの置かれている立場が少しずつ分かってきた。
180cm近くあったと思うけど、身長が止まってしまって、このままではディフェンダーとしてやっていけないかもしれないと話していた。
スタメンは後輩に奪われつつあった。
同郷の後輩で、弟みたいにかわいがっていた。髪をくしゃくしゃになでると嫌がるのがかわいいと言っていた。
その後輩は2年後プロになり、定着することなく、2年くらいで戦力外通告を受けた。
Mくんは「おれプはロになれないと思う」と言っていた。
チームにいた同い年のHくんは、アンダー世代の代表に毎回呼ばれていた。
誰もがトップに上がるだろうと思っていた。
ポジションは違えど、プロになる選手と自分との差を突きつけられる毎日は、どんなものだったろう。
「みんな上がれるわけじゃないから。みんなライバルだから」
そう表現したチームメイトとひとつ屋根の下で暮らすプレッシャーは、どれほどのものだったろう。
Mくんが寮で先輩と派手にケンカしたと、チームで仲が良かったKくんから連絡があった。
お酒を飲んで帰ったMくんに先輩のYくんが激しく怒ったらしかった。
Yくんはとっても真面目な人で、責任感も強くて、彼もやっぱりプロになる。
Mくんが自暴自棄になりつつあったのは、たぶんこの頃だと思う。
電話の声がおかしくて、酔ってるなと思うことがあった。
そして、カンニングとタバコが見つかって停学になった。
停学はこれで二度目らしかった。
私はMくんがタバコを吸っていることを知っていた。2人でいるときも吸っていたから。
でも何も言わなかった。
だから、停学したことに責任みたいなものを感じていた。
Mくんみたいな不良は今まで身近にいなかったから、停学を聞いてどう接していいか分からなかった。
さすがにバツが悪かったのか、停学中はおとなしくしていたみたいで、会おうとも言われなかった。
あんまり連絡もなくて不安になっていたら、チームメイトのKくんが間に入って何くれと世話を焼いてくれた。
たぶんやさぐれて周りは全員敵モードだった(想像)Mくんはそれが気に入らなかったみたいで、停学があけてしばらくして「別れたい」と言われた。
繋ぎ止める方法が分からなかった。
試合はもちろん行かなくなった。
トップチームの試合に顔を出すと、なんとなく察してくれている大人たちが優しかった。
どれくらい時間が経ってからのことだったか忘れてしまったけど、Mくんが退学になったことをGさんから聞いた。
再三の注意も響かず、またカンニングが見つかったという。
三度目の停学、そして退学。
私が知ったときにはもう、チームも退団して地元に帰ったあとだった。
ショックだったが、どこかで、帰れてよかったね、とも思った。
想像にすぎないけど、Mくんはもう疲れ果てていて、家族や友達のもとに帰りたかったんじゃないかな。
高校卒業してからでもよかったのに。なんであと少し我慢できなかったんだろう。バカだね、バカだよ。
Gさんには子どもがいなかった。だからMくんを息子みたいにかわいがっていた。
そのGさんがもうMくんの話はしたくないと言うほど、怒っていた。
寂しそうな背中に掛ける言葉がなかった。
タバコもお酒もカンニングも、私は知っていた。
知っていたけど何も言わなかった。言えなかった。
嫌われるのが怖かったし、だいたいなんと言う。
自分に限界を感じて焦りや不安でパンパンになったMくんに「タバコなんてやめなよ。Mくんにはサッカーがあるじゃない」なんて針を刺すようなことがどうして言えよう。
ベターな言葉が見つかったとして、私の声が届いただろうか。
Mくんが夢への階段の途中で立ち止まり、最初の一歩を踏み外したとき、
きっと一番近くにいたのは私だった。
何もできなかった無力感は、新しい彼氏ができてもずっと心に残り続けた。
私は東京で大学生活を送りつつ、サッカー観戦も続けていた。そこでまたユースの試合に誘われた。
全国区の大会で勝ち上がっていて、関東で試合があったからだ。
もうあのころを知る選手もいない。再びユースの試合を見に行くようになった。
そのときチームにいたのが吉田麻也だった。
今でこそ麻也は日本を代表する選手だが、当時は一番のスターではなかった。
U世代の代表選手は他にいて、試合の後プレゼントを持った女の子に囲まれていたのは麻也ではなかった。
トップに上がってからもケガ人が続いて、転がり込むように麻也にチャンスが回ってきた。
というかもう麻也しかいないくらいケガ人が出た、そのときは。
そりゃもうケチョンケチョンにやられて見てられなかった。でも着実にチームの要になっていった。
代表に初めて呼ばれたときだって、ケガ人が続いたからだし、試合では失点の原因になっていた。
それでも進み続けてチャンスを掴む。だから麻也はすごい。
話を戻す。
また試合に通うようになると、サポ仲間がMくんの近況を教えてくれた。
漁師の父親を頼って港で働いているとは聞いていたが、現実は少し違ったらしい。
「サッカー選手に」と田舎から送り出し、仕送りしていたMくんの両親は、退学して帰ってきた息子に厳しかった。
Mくんもまさかと思ったんじゃないかな。
夢破れて帰ってきた息子にもう少し温かいと、甘えていたんじゃないかな。
Mくんは勘当されてしまった。
聞いたとき、平成の世に勘当なんてあるのかと驚いた。
それでも魚の仲買人として働いていたらしかったから、お父さんの口利きが絶対あったわけで、なんかもう「バカだな…」としか言葉が出てこなかった。
結局Mくんの学年からはU世代の代表だったHくんをはじめ確か3人くらいトップに上がった。
Hくんも何年かして戦力外通告を受けたけど、分野を変えてまた日の丸を背負った。
進学して大学サッカーで活躍した選手もいたし、海外へ渡ってアジアの小さなリーグでプロになった選手もいた。
社会人リーグで懐かしい名前を見たこともあった。
Mくんにだってサッカーで暮らしていく道は十分にあったと思う。
ときどき思い出したように、もう会うこともないMくんの名前を検索した。
今何しているか知りたいわけじゃない。きっと早々にデキ婚でもしたに違いないと思っていた。
インターネットにはいつまでも古い試合結果が漂い続けている。
出場者にMくんの名前。得点者にMくんの名前。
サッカーが一番だったころのMくんがそこにはいる。
確かに存在していたことをときどき確かめたくなって、検索窓に名前を打ち込んだ。
あるとき、その中に新しい検索結果を見つけた。
女子高生にわいせつ行為 逮捕
嘘でしょ。
恐る恐るニュースサイトを開く。
名前、年齢、住所、すべてが一致している。
間違いない。Mくんだ。
嘘でしょ、と思う反面、それは間違いなくMくんだわ…と妙に納得してしまう。
いろんな感情がいったりきたりして渦を巻き、どうしようもなく落ち込んだ。
夢を叶えられなかったサッカー選手の卵は、中卒の前科者になってしまった。
ショックだった。
なんでこんなところまで堕ちなきゃいけなかったの。
記事に書かれたMくんの職業は「友人の家業手伝い」。まともに働いていると思えなかった。
退学になってから5年以上経っているのに。
したってどうしようもない後悔に揺さぶられた。
あのときだったらまだ止められたんじゃないか、なんでなんにもできなかったんだろう。
もっと人生経験がある私だったらよかった。
私が私でなかったらよかった。
もっと誰か他の、Mくんを助けてあげられる人だったらよかった。
退学になったとき連絡すればよかった。
したってどうしようもなかったと思うけど、それでも連絡すればよかった。
離れていく、堕ちていくのをただ黙って見ていただけ。
でも記憶の中で何度タイムリープしてみても、何歳の私が会いに行ってもMくんを救う方法は見つからない。
そうしてずっと、たった数ヶ月を過ごしただけの人にずっと、ずっととらわれ続けている。
大人になって考えれば考えるほど、つくづくなんて大馬鹿野郎なんだろうと思う。
でも、MくんにはMくんの辛さがあった。
いつのタイミングだったか忘れたけど、「おれ、真面目になるから」と言っていた。
考えてみれば運営とツーカーのサポーターの紹介で、なんのおもしろみもないイモ高校生の私と付き合って面倒くさくないことなんてなかっただろう。
結果的にどうだったかは別として、「ファンに手出したって言われちゃうといけないから」と、大切にしようとしてくれていたと思う。
ただそれまで夢に続く階段を、真っ直ぐ真っ直ぐ、一生懸命上ってきたから、立ち止まったときに重力に負けてしまった。
夢の階段は一度下りたらもうそれ以上高いところには上がれない。
だから階段の途中で生半可な気持ちで立ち止まると危ない。
「今と違う普通の生活」なんてどこにもない。
下手して落ちたらどこまで堕ちるか分からないから、やっぱり私は今その途中の人に対しても
「頑張れ、頑張れ、立ち止まるな、堕ちるな」って祈ってしまう。
そうそう、このブログを書くにあたって、久しぶりにMくんの名前を検索してみた。
あのネットニュースはもう消えていて、転載されたものだけが残っている。
古い試合結果に紛れて、小さな小さな写真付きの記事がヒットした。
日付はあの事件よりずっと後。
写真には、子どもたちを前に白い長靴にエプロン姿で、大きな魚をさばいて見せる魚屋さんの後ろ姿があった。
夢は叶わなくても人生は終わりじゃない。
でもできるなら、その階段を上りきってほしい。足を踏み外して苦しんでほしくはない。
お守りみたいに使ってるネックレスがあって、数字の5のオーナメントがついている。
いつだったか友人に「5」の意味を聞かれた。
そのときGOROくんというアイドルのファンだったのでGOROくんの5だと思ったらしい。
「違うよ、私5月生まれなんだ」と答える。
でも「5」にはもうひとつ意味がある。
あの、少しなで肩の背中にあった数字。
5月25日生まれの背番号5。
数字を選ぶときはなんとなく5。
私にとって「5」は幸せを願う数字になった。
この記事を書き始めたとき、W杯は始まったばかりだったので冒頭を何度か書き直した。
ある意志を持って今書かないとと思う気持ちと、やっぱり書かなくていいんじゃないかと思う気持ちは未だに両方同じくらいあって、途中で放置していた。
偶然にも他の記事が、ある意外な人に届いたと人づてに聞き、思い直してここまで書いた。
何かを追いかける人が、Mくんのように夢に負けないでほしい。
悪魔がささやく隙を与えないほど、前だけ見ていてほしい。
私は、季節が違っても同じ5を持つきみの幸せをずっと祈っている。