とりわけ刑法の世界では,犯罪の成立要件の検討については,それが主観的要件なのか,客観的要件なのかを分け,そして,それぞれを独立に(しかも客観的要件から)検討すべしとされます(もっとも,実務上の検討においては,これらは往復し,証拠固めがされていきます)。なぜこのようなことになっているかと言えば,それは,判断の明確性を維持し,例えば悪性格による犯罪の肯定などのバイアスがかからないようにするためだとされています。

しかし,人間の行動がその人の意思に基づくものだという前提をとる場合,内面から先に見てしまうことは,ある点においては,やむを得ないというところもあるのかもしれません。

 

主観というのは,二重で怖いものなのかもしれません。まずは判断者の主観という面で,「バイアス(偏見)」(やその極である「決めつけ」)から逃れられなくなるからです。バイアスは我々にとっては思考の省エネをもたらすという点での「メリット」はあります。しかし,「自分(のバイアス)に不都合な事実を無視してしまう」という大きな「デメリット」を有しているが故に,「偏見を持つな」などと言われるのです。不都合な事実ですら,現実に存在している以上,いわば現実把握が適切でないが故に,誤った評価や決断をし,それが時に身を亡ぼすという点が強調されるわけです。

また,行為者の主観というのは,厳密には本人にしかわかりません。外形から判断された内心は,あくまで「推測」でしかないのです。 それは,行為者に反論を許すということでもあります。と同時に,行為者に自らの内心について「ウソ」を認めるということでもあります。判断者の「推測」が実は行為者の行為当時の本心だったとしても彼に「違うよ」という反論を認めねばならず,そしてその「違うよ」という発言の真否についてまた「推測」がなされることとなるからです。

その意味で,人は内心については,「客観的」にはいかなる意味でも確定できず,二重の「主観」による動揺を受けざるを得ないといえるのです。

 

刑法学が,「主観」と「客観」を分け,そして「客観」部分を先に判断するというプロセスを共有財産として有しているのは,このような「主観」の二重の揺らぎに気づいているからだと評し得ます。しかし,なぜ刑法がこの点に過敏になるのかと言えば,それは刑法が「国家刑罰権」の存否をダイレクトに議論する分野だからに他なりません。言い換えれば,それだけの切迫感がなければ,やはり「客観」と「主観」を分けようとする意識は弱まってしまうのかもしれないと思うのです。


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