先頃刊行された,『論究ジュリスト27号』(有斐閣・2018年11月10日刊)では,昨年12月1日に逝去された松尾浩也先生を偲ぶ企画が編まれています(同誌172頁ページ以下)。それはそれとして面白いのですが,今回は,同号から新連載となった『リーガル・ラディカリズム』,特に同号掲載の飯田高東京大学社会科学研究所准教授(法社会学)による「ルールを破って育てる」(同誌100ページ以下)について,若干の感想を。

 

この『リーガル・ラディカリズム』という特集は,「法哲学,法社会学,法史学,比較法学の諸分野の研究者が各々の立場から」いくつかの「『根本的』性格を有する問題」へアプローチを試みようとするものです(同誌98ページ「連載にあたって」参照)。

上掲の飯田論文は,ある高校野球の試合で起きた事例を基に検討を施していきます。その過程において,ルールを「人々の間での協力行動を実現するためにルールが生成・維持される」という「合理性制限規範」と,「人々の行動を調整(コーディネート)するためにルールが生成・維持される」という「均衡選択規範」に分け,合理性制限規範的からは,ルール破りが利己的で自分勝手な行動に映ると説明し,均衡選択規範からは,ルール違反が「予測可能性の侵害」としてフォーカスされると説明します(同誌103ページ)。このような発想は,三ケ月章『法学入門』(弘文堂・1982年)の,農耕文化にとっては,自然の驚異に立ち向かうために,強力な中央集権が必要であり,そのために公法的側面が強くなり,「上から命令されたものをそのまま受け取るということが臣民の美徳であり,たたえられるべき遵法精神である」のに対して,牧畜文化では,広大な地域にまばらに存在する人口のために,中央集権は不要であり,「自分のものは自分で守る」という意識が発展しやすく,その自力救済の調整として法が発展したという意味で,私法的である(以上,同書27ページ以下参照)という発想に極めて馴染むといえます。つまり,日本人がとかく(特に一般市民の)ルール破りに不寛容であるのは,まさにこのような「農耕文化」的な「合理性制限規範」として「ルール」を捉えているからだとみることが可能なのでしょう。

 

加えて,飯田論文は,「ルールにどの範囲の人々が関係するか」も重要な点であるとして,「一般に,自分にとって身近な社会集団の場合は細かな具体的特徴や状況などが認識されやすい」のに対して,「自分も所属しているが遠い存在として感じられる社会集団」については「抽象的なものでしかない」といいます(上掲誌104ページ参照)。そして,「人間は,対象との心理的距離が遠いほど,より抽象的な解釈を使って志向する傾向がある」という,心理学における「解釈レベル理論」を持ち出します。なるほど,これはそのとおりでありましょう(拙稿「認識される『社会』のズレ」参照)。そこから,距離が近い者のルール破りには寛容になり,距離が遠い者ほどルール破りに不寛容となるということを示唆します。それは,規範意識として,それが「合理性制限規範」であることを示しており,また合理性制限規範では,「ルールに反した判断がいったん行われると合理的な違反行動が拡散していき,元の効率的な状態には戻らなくなってしまう場合があるからである」とされます(上掲誌105ページ参照)。

 

我々の想像力には限界があります。自分自身あるいは(心理的に)身近な人でなければ,その判断が「厳格」になるのは,「ルール」を笠に着た不寛容さを示しているようにも見えます。その背後には,そのルールを「合理性制限規範」(=破られてしまうと元の状態には戻らない)として捉えているという,ある種の合理性も見出されます。しかし,それが「公法的」≒「農耕」文化に見出されるのであれば,昨今声高になりがちの「自己責任」とは実は相性が悪いのだということを認識しなければなりません。

また,本当に「その」ルールは「合理性制限規範」なのかも問題になるでしょう。その点の議論を抜きに,心理的に遠い人間を「糾弾」することには,やはり「思考の省エネ」という粗雑さを感じてしまうのです。


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