私自身は,いわゆる「愚痴」に対しては,非常に否定的な立場にあります。それは,愚痴というのが,実際においては,「悪口」なり,「陰口」と変わらないと考えるからです。まして,「悪口」なり,「陰口」なりを言うべきではないと口にする人が,同じ口で「愚痴」を言おうものなら,私はその人の信念や価値観を,一貫性のないものとして,理論的に否定せざるを得ません。

 

例えば,このような形で「愚痴」のようなものを封じてしまうとき,それに対する応答であり得るものとしては,「それを言われてしまっては何も言えなくなる」とか,あるいは「窮屈だ」というようなものが(,そしてその延長として「表現の自由を侵害する」というものも)あり得るでしょうか。しかし,これらの反論は,私には,成功しているようには見えません。

そもそも,表現の自由自体,無制約のものではありません。例えば,わいせつ表現,(治安をかく乱するような)煽り表現,名誉毀損表現などは,表現の自由に浴しないということが(法学上)通説です(拙稿「表現による暴力」や「委縮すべき表現」など参照)。したがって,口にすべきでないことというものが存在すること自体は認めざるを得ないのです。

 

自由というもの自体,誤解されている面があるようにも思われます。フリーハンドの自由は理論上あり得ません(拙稿「社会と人」,「個性の源泉」参照)。極端な言い方をすれば,熟慮の結果,「何も言えなくなる」なら何も言わなくていいし,言うべき必然性もありません。それでも何ものかを言おうとするのなら,徹底的に考えを巡らせ,相当な範囲内で言うべきだということにならざるを得ません。何者も他者を不当に害する権利はないのです。「枠」は存在する以上,端から身動きは制限されています。我々の「自由」はその中にしかありません。

 

しかし,この議論には「誤解」の契機もあり,ある種の「難しさ」を孕んでいます。それは,「強大な権力」への対抗を否定しかねない点です。法政史家であるR. v. イェーリングが『権利のための闘争』で示したように,自らの権利(そしてその集体である法)を守るためには,不当な侵害に対して「戦い」続けることも必要です。「何も言えなくなる」のが(権力による)不当な侵害に基づくものであれば,自らの権利(そして法)を守るために,それでも,「言い続け」なければなりません。

議論の分かれ目は,自らの「言いたいこと」が,他者を害するのかどうか(その意味で正当かどうか)です。そして,「他者を害する」というのは,単に「気持ち」や「気分」の問題にとどまらず,「人格への侵害」といえるレベルかどうかです。たとえ「不快」であれ,受忍限度というものは存在し(拙稿「受忍限度論」参照),「私が傷ついた」ということから即不当だという話にはなりません。結局は具体的な事案を丁寧に読み解きながら判断せざるを得ないのですが,こういった時間や手間のかかる「知性」をどれだけの人が持ち合わせているのかという根本的な問題が,やはり,横たわっているように思われます。

 


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