人間性という言葉は多義的です。その内容は,厳密な意味での一義性を持ちません。したがって,「Aさんは人間性に好感が持てる」とか,「Bさんは人間性に問題がある」などと表現しても,その内容は文脈に強く依存することになります。

 

以前から,政治家(特に閣僚)をバッシングする際に「人間性」に言及されることは少なくありませんでした。私見としては,人間である以上は聖人君子はあり得ず,人間性自体を問題にすることは,その意味で,政治家の適正を直接には左右しないと考えています(拙稿「政権交代が残したもの」参照)。ここで考えていたのは,例えば直情的である(怒りっぽいとか,涙もろいなど)とか,あるいはおべんちゃらばかりだとか,さらにはウソをつくということまで含んでいました。残念ながら,ウソを全くつかない人間はほぼいません。そうである以上,政治家といえども,真正直であることを望むのは非現実的でしょう。

ですが,前掲拙稿では,「料理のできない料理人は使いものになりません。(中略)料理人が,自らが口にするものを作る人間だからといって,『信用できる人間』である必要があるのでしょうか。」と述べていたように,「職務」という領域が存在することを前提となっています。言い換えれば,例えば,「S産仔牛のステーキ」と言いながら,全く異なるどこの何歳の牛かもわからないようなものを仕入れて提供していれば,それは料理人として失格でしょう。これは,見ようによっては,「客に対して誠実でない」という言い方ができます。

しかし,それに止まりません。「職務に対して(も)誠実でない」と言えるのです。しかし,このように「職務に対して誠実でない」のがよくないというようなことを言えば,「オーナーシェフのように売り上げや損失が全部自分に帰するような場合には,偽装などにより,客が離れていった場合などは自業自得・自己責任に過ぎず,何の問題があろうか」というような反論もあり得るでしょう。これに対しては,次のように応答できます。すなわち,「職務」というのは,どこかで必ず人と関わりを持ちます。そして多くの場合,その「職務」の専門性によって(例えば,農家は農業の専門家であり,小売店の店員ですら当該小売りのプロだとみなされます),「対価」を得ています。それは,自らの能力を金銭などに変換していると理解することが可能です。つまり,職務に対して誠実でないというのは,自らの能力を不当に高く見せかけ,過分な利得を得ているということを意味しているのだと評価できるのです。したがって,職務への誠実さは,その職務によって影響を受ける人々への誠実さと密接に関わっており,無視し得なくなるのです。

 

そうすると,言論を職務とする政治家にとっては,言論の誠実性はまさに政治家にとっての生命線です。多くの場合,それは,「ウソをつかない」というところで現れてくるのかもしれません。しかし,より重要なのは,「ウソをつかない」よりも,「言ったことが誤っていたのであれば,(謝罪し)訂正すること」でしょう。居直り強盗には政治家になる資格がありません。料理人が「S産仔牛のステーキだと信じたお前が悪い」と言うのであれば,この世から(信義を生命線とする)「契約」は失われます。「契約」の失われた世界とは,他人に何かを頼ることや他人に何かを頼むことを否定し,すべての出来事を自分一人でなすことを要求する世界です。公権力の正当性に社会契約を擬制するのであれば(憲法前文第1段落参照),信義を失った人々からは国家の構成員となる資格は失われ,ただ野に放たれた小さく弱いサルになるのだということを,我々はより銘記すべきでしょう。

※本稿に抵触する限りで,前掲拙稿「政権交代の残したもの」の理解を改めます。


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