やや生活リズムが変わってしまい,結局更新は不定期になりそうです。

 

さて,本題。

現在の法解釈はあまりにテクニカルになりつつあるというのは,この業界のある程度一致した見方かもしれません。とりわけ,刑法の世界ではそれが如実になっており,法曹実務家にとっては必ずしも関心を惹き起こすものではないということも,しばしば耳にします。このことは,法科大学院教育にも如実に反映され,当初掲げられていた「理論と実務の架橋」というお題目の「理論」がそれほどの深度を必要としないということにも表れているように見えます。

 

今槍玉に挙げた刑法の世界では,罪刑法定主義が大原則として横たわっています。罪刑法定主義は,民主主義・立憲主義とを源泉として,法律主義や自由主義に支えられていると理解されていますが,それはひとえに,「その条文を見れば,自分が何をしたら(あるいはしなかったら)処罰されるのかがわかる」ということに支えられています。

このような理解があるために,刑(事実体)法の世界では,条文解釈においても,その条文の予測可能性を害しない範囲でしか解釈できないとされています(これが,単なる拡張解釈でないことは言うまでもありません。類推解釈を許さないどころか,予測可能性を害するような拡張解釈はできないのです)。

 

では,予測可能性とは何なのかです。「一般人」,つまり,(ある程度理想化されているとはいえ,)義務教育を終え,健全な日常生活を行っている(理性的で合理的な)人であれば,判決が予測できるということでもあります。それは,同時に,日本語で構成された条文の文言をいわば正確に理解する力ということでもあります。そうであれば,当該の文言について,その意味の焦点を押さえた上で,どこまで拡げられるかという観点から検討されることになりそうです。そうすると,コアケース(中核的事例)ではあまり理解がズレるということは考えられませんが,周縁的事例においては,やはり解釈論争が生じることになります(が,その多くは,事実認識や法規への当てはめの問題として取り扱われることになるでしょう)。

 

もし,刑法学者をはじめとする法学者が,世論におもねるような形で,既存の条文を利用しながら処罰範囲を拡張しようとすれば,文言の意味の焦点をずらしていくことが要求されます。しかし,それは同時に,国民の予測可能性(≒意味の焦点)と不一致を起こすことになります。つまり,「拡張解釈」の名の下に,言葉の意味を捻じ曲げるのです。もちろん,その場合には,国民の処罰感情は満たすことができましょう。しかし,それによって言葉は破壊されるのです。それは結局において,罪刑法定主義という,より高次の法原則の破壊になるかもしれません。

法解釈はもっと言葉に拘っていいように思うのです。


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