ブログの更新速度が落ちてしまい,先月はついに1回しか更新していませんでした…。それほど人気ブログでもないし,細々とやっていくことにしましょう。

 

さて,またもや必ずしも法律ネタではありませんが,こんな話を。

先日,OECD(経済協力開発機構)が実施した学力調査(PISA)にて,日本の読解力が参加国中15位に落ち,急落したという話が出てきました(日経新聞2019年12月3日)。そこでは,TwitterをはじめとするSNSでの短文主義ともいうべき風潮がこのような事態の一因になるという見立てもあります(例えば,読売新聞2019年12月4日社説)。今回は,少しだけ,長文と短文というものについて考えてみたいと思います。

 

しばしば,「世界で最も短い詩は俳句である」といわれることがあります。そして,それが故に,俳句は解釈の広さを持つといわれることがあります。

もともと,短文には解釈の難しさがあります。なぜなら,必ずしも前後の文脈を明確な形で伴っているわけではないからです。それ故に,当該のテクストを受け取った人が,自らの文脈で理解することを許しています。

他方,一定の分量を伴った文章は,少なくともその文章全体によってコンテクストが固められていきます。つまり,1つ1つの文が短かったとしても,その意味内容は他の文(章)の影響により,「自由な」読み方を必ずしも許しません。

 

そうであればこそ,「誤解」を誘発することを目的とするような短文は時に卑怯な方法ですらあるといえます。コンテクスト上そう解釈するのが自然なのに,「そうは言っていない」という反論を許しかねないのです。そういう卑劣な手を使う人は,「じゃぁ,何なのか」と釈明を求めたところで,言葉を尽くして釈明するようなことはないでしょう。自らの伝えたいことを正確に伝えようとする人は,一定程度の分量の情報は(多少くどくとも)提供し,解釈の幅を狭めてきます。

 

これは法解釈にも全く当てはまります。条文は往々にして簡潔に記載されます(もっとも,最近は長文化していますが…)。それ故に,素人はそれを好き勝手に「解釈」してしまいがちです。しかし,条文の意味内容は,これまでの裁判例や学説などによって固められています。その意味で,条文には背後に膨大なコンテクストを抱えているのです。だからこそ,裁判所は,「それは畢竟独自の見解であり…」と当事者の法的主張を一蹴できもするのです。


人気ブログランキング