日本国憲法22条1項は居住の自由や職業選択の自由と並んで移動の自由を憲法上の権利(人権)として保障しています(なお,2項はその極ともいえる外国への移住,国籍離脱を保障します)。職業選択の自由があることからもわかるように,通常,22条1項は経済的自由に対する条項だと考えられています。そうすると,居住の自由や移動の自由もまた経済的自由だと考えられることになります。伝統的には,居住地と職業は密接に関連しているものとされ(例えば,江戸時代を考えれば,農民は城下町には住んでいなかったわけです),そのことにより居住移転の自由がなければ職業も変えがたいために,職業選択の自由を認める(一種の身分制を否定する)以上,その基礎となる居住移転の自由も保障する必要があると説明されます。

 

しかし,説明として,これで足りているのかはやや微妙です。

例えば,刑法は,220条において,逮捕・監禁を犯罪として理解します。逮捕・監禁の保護法益は「移動の自由」と説明されます。しかし,この移動の自由は,必ずしも憲法22条1項の移動の自由と同じ内容ではありません。憲法上の移動の自由を徹頭徹尾経済的自由だと理解すれば,逮捕・監禁罪における移動の自由もまた経済的意味づけを与えることになりそうです。しかし,逮捕は(暴行と連なるほどに)身体の直接の拘束を前提としますし,監禁罪も直接の拘束はなくとも一定の空間からの離脱を阻害することを犯罪化するわけです。したがって,刑法では,どちらかというと,「人身の自由(憲法18条,33条,34条参照)」として移動の自由が構成されているのです。

 

こうしてみてくれば明らかなように,移動の自由には,身体の自由としての側面と経済的自由の側面があることが看取されます。

元を辿れば,移動の自由は,「領域」と「都市」を行き来する自由として理解することができるでしょう。ここでの「領域」とは,生産拠点であり,また生活の拠点であるのに対して,「都市」とは,人々が(徒党と上下関係で成立するような)「領域」の楔[クサビ]から解き放たれ,およそ対等に言葉(だけ)を交わし合う「政治の場」という,非常に(木庭顕)法学的な特殊な用法です。つまり,移動の自由には,都市に行き「交易」をする経済的な自由であると共に,単に言葉を交わすために(そして政治に参加するために)都市に行くという,コミュニケーションないし人格的な利益を支えているということもできるのです。

現代の我々ですら「完全なひきこもり」ないし仙人はほとんどいません。多かれ少なかれ,インターネットなどを利用しながら,「交易」と「コミュニケーション」をしているのです。そうであれば,移動の自由の本質的価値はこの点にあると言わざるを得ません。そして,交易がコミュニケーションを前提とする以上,ほぼコミュニケーションを支える基本的権利と構成しなおす方が,より本質的であろうと思われるのです。