「他人は自分の鏡である」という言葉があります。しかし,他人自体は自身に対して直接影響のあるものではありません。例えば誰かが焼肉を食べていたからといって自分も焼肉を食べるということにはなりません。もし,他人が焼肉を食べているのを見て,「あぁ,今日は焼肉にしよう」と考えたり,あるいは「焼肉は重い。お寿司にしよう」と考えるのも,それはたまたまその時に「焼肉」という事態がその時の自身とリンクしたにすぎません。したがって,タイミングが合わなければ,それは素通りされる存在に過ぎないのです。

 

ある物事を素通りするかどうかは,その時の自身の関心事か否かということに強く影響を受けています。あらゆる時にあらゆるモノに関心を向けるというのは,人間業とはなかなかいえないでしょう。そうすると,ある他人の言動を自身に投影するには,投影という意識的な作業が別途必要になります。これには,他人の行動や彼らに起きたことが自身にもあり得るものだと考える,認識・意味づけ以上の知的能力が必要になります。裏返せば,そういう知的能力に欠けていれば,他人の言動を自己に投影することはできないし,自分史の中で活用することはできないのです。

 

他方で,他者の失策などについては,「公正社会仮説」という心理学的な問題を抱えています。つまり,「あいつは『何か悪いこと』をしていたから罰が当たったのだ」と(無意識レベルで)考えてしまうという問題です。これは,同時に,「『何も悪いことをしていない』自分には起き(得)ない」という考えにも繋がります(いわゆる正常化バイアス)。そうすると,他者の失敗を自分に投影することはできません。このあたりは,人間が他者の成功には学びたがる(いわゆる成功者の自叙伝がウケる理由でしょう)のに対して,他者の失敗からは(なぜか)学べないという非対称性を説明できているような気もします。そして,「人は歴史に学ばなければならない」といわれるにも拘わらず,それができないのは,その学ぶべき歴史のほとんどは「失敗」だからだということもまたむべなるかな,という感じがします。

結局ほとんどの人にとって「人の振り見て我が振り直」すことは期待できないのかもしれません。


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