最近はまとまった時間を取るのが難しくなってきたこともあり,例年律義にやってきた年末年始の挨拶も飛ばしてしまいました。

まぁ,私のブログは,一部では(試験前の)あんちょこであったり,あるいは自説を補強するための法律家の一見解として,つまみ食い的に利用されているみたいなのでそれでもいいのかもしれません。

 

さて,年末年始,近年稀にみるほど国内外の情勢が大きく動いています。世界的な関心といえば,イラク・アメリカ情勢でしょうか。国内的には,元日産会長のゴーン氏のレバノン逃走劇であったり,いずれも法とは切っても切り離せない話ばかりです。ですが,これらについて何事かを語ろうとすることは,私の手には余ってしまいます。一方には自己の無知故に的外れになる可能性が高く,あるいは現在進行形で事象が動いており,いつ状況が大きく変化してもおかしくないという事情もあります。他方で,とりわけゴーン氏の逃走劇については,私は極間接的であれ業界内部の人間です。無粋な擁護を並べかねない。やはり成り行きを見守るしかないように思われます。

 

社会あるところ法あり(Ubi societas, ibi ius.)と言われるように,人として生れ落ち,人間社会の中で「人間」として生きていく以上は,法との関係は断ち切れません。言い換えれば,この社会で起きていることの多くは法の問題だともいえます(法の問題にならないものも多くありますが)。日本人は,「法」といったとき,規制や制裁(刑罰)をイメージしがちです。その来歴をここでお話しする余裕はありませんが,そこからは自律的な人間像ではなく,自己中心的である種動物的な人間像を描いているということが見て取ることができます。確かに,そのような規制や制裁が必要な場面というのは,そういった人間像が実現したときであることは確かです。ですが,同時に,革命が圧政から逃れるために行われてきたという歴史的事実に照らすとき,力の行使それ自体が「非人間的」であるということまでは含意しません。

 

年始早々新宿駅で公衆の面前での自殺行為があったそうです。人々はこれにスマホを向け続けていた,と。これについてのコメントは,過去の拙稿(例えば「中井英夫『虚無への供物』を読む」)を見てもらえばもはや不要でしょう。ひとつ言うのであれば,当の自殺行為者が「なぜそういう場所を選んだのか」という(意図せざるかもしれない)効果は十分に可視化されたといわざるを得ません。

 

法は非人間的になろうとする人たちに(自律的な)人間であることを強制します。しかし,幾度も法は非人間的な人間に敗北し続け,そしてなおそのような非人間的な人間と対決し続けています。法が完全な勝利を収めるときというのは来ないのかもしれないのに。我々は今日も不安定な吊り橋の上に立っているのです。


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