現在,日本学術会議の第25期の任命に関し,揺れが見られます。このことについての主要な論点はもはや私が触れる必要はないと思います。そこで,本稿では,日本学術会議法をはじめとする諸法に見られる文言に関わるもののお話をしておこうと思います。

 

とりわけ行政法の世界では,ある行政庁が特定の法的行為を「できる」とか,「する」とか,「しなければならない」といった文言を見出すことができます。これを,素朴に「可能」,「必然」,「義務」という意味内容で読んでしまうと,解釈学的には読み誤ることになります。そもそもにおいて,行政には様々な場面で裁量が認められると考えられていますし,同時に比例原則という大きな縛りを受けてもいます(警察比例の原則は典型です)。

確かに法律レベルの立法では官僚や内閣法制局,さらには法学者が文言に注意を払いながら立法されています。しかし,立法ミスはあり得るし,法文上の用語と講学上の用語がズレることは,行政法の世界ではままあります(拙稿「自転車免許制批判(1)」参照)。したがって,同じ法律内での文言の使い分けについては,形式的な違いとして解釈を分ける理由の1つとはなれども,決定的なものではありません。法解釈はあくまで「目的的解釈」であり,その法条の目的を無視してはなし得ません。まずは,当該の法条の目的が何なのかを特定し,その上でその目的に適合的な解釈がなされなければなりません。

 

こう考えればわかるように,上記に掲げたような「できる」とか,「する」とか,「しなければならない」というのも,まずは法条等の目的から逆算的に意味を理解する必要があります。とりわけ,「できる」の場合には,一見すると「可能」の意味に見え,そこに安住しがちになります。しかし,目的的には,実はただの「権限付与」しか意味しておらず,「できる」と書かれていながらも(時には,一定の場合には)「しなければならない」という義務的に理解されることもしばしばあります。他方で,「しなければならない」と書かれていても,要件部分について広範な裁量を認めることができるのならば,事実上はただの可能である場合すらあり得ます(例えば,「非行行為があった場合には,懲戒処分をしなければならない。」とあっても,「非行行為」の部分を極端に狭く解釈する裁量があるならば,事実上は恣意的な処分を可能にし得ます(しかし,それは,「懲戒処分」という不利益処分の性質上困難なだけです))。

 

あくまで重要なのは,その法条がいかなる目的を持っているのかを特定し,それが過度な権利制約や義務賦課をもたらさないかという法学的感覚を身につけることです。


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