【過去シリーズ①】生まれてから就園まで | 魚鱗癬(ぎょりんせん)と闘う日々

魚鱗癬(ぎょりんせん)と闘う日々

魚鱗癬という皮膚の病気(国の指定難病に認定されています)を知ってもらいたくて登録しました。上手く書けませんが、何か一つでも伝わり、そして多くの人に病気を知ってもらいたい。そう願っています。内容が暗くならないように心がけます。よろしくお願いします。

私の過去というのは、このブログでは書いたことがなかったので、いくつかのシリーズとして書くことにします。

 

魚鱗癬という病気が、今ほど認知されていない時代に、私は学齢期を過ごしていました。

 

第一弾は、幼稚園に通うまでを書きたいと思います。

 

今から書くことは実際に親から聞いた話のみで構成されます。

というのは私は小学校1年生以前の記憶が全くございません。

幼稚園のお友達の事すら覚えていないのです。(卒園後も関わってきた子は覚えています)

では話を始めますね。

 

私は生まれてから2歳何か月かまで、ずーっとNICUに入院していました。

健康な赤ちゃんなら一週間ぐらいで退院するようですが・・・・・・

2年もの間NICUなんて最後、死ぬ。としか思えないんですけど・・・・・

ある日、突然、病院を追い出されて、住む所に困って(貧困ではない)慌てて探したと聞いております。

私の父親の実家近くには帰れない。ということで離れた場所で探していたそうです。

 

退院して最初の1年間は自宅に籠って生活をしていました。

お買い物も私が寝ている間に行っていたと聞いています。連れて出るわけにはいかなかったんですね。

 

魚鱗癬の症状を和らげる、飲み薬は、1錠飲める体重まで達しておらず、飲むことは出来ませんでした。

その時の皮膚は全身が茶色くて、あちらこちら血がにじんでいた状態だったと言います。

それではお外に出られませんよね。今の時代でも同じかな?

4歳になる直前ぐらいに体重が薬飲める重さまでなって飲み始めたそうです。

飲み始めてから、どれぐらい経ってからかは聞いていませんが、しばらく飲み続けていると、

皆がビックリするぐらい、手先と足先以外の皮膚が一般の人と変わらない見た目になっていったそうです。

先日アルバムを引っ張り出してきて、写真を見たのですが、飲み始めた頃と飲んで1年ぐらい経過したころの写真は明らかに違いました。

まるで別人・・・・・皮膚の症状が良くなってきたころに、就園問題が浮上。

とりあえず慣らしの為に母子教室(ポニー教室という名前だったことは憶えています)に通うことになった。

母子教室での写真はたくさんありました。先生と遊具で遊んでいたり、公園で遊んでいたり・・・・・プールに入っている写真もありました。

慣れてきたころの写真は笑顔のものが多かったです。母子教室と並行して?(卒業したのかも?)今度は集団生活に慣れる必要がある。ということで、児童相談所?に行って相談をして、一先ず主に知的に障がいがある子供が通う施設に通うことになりました。

知的と身体混合の障がいの子もいましたし、会話が出来ない知的障がいの子もいました。

今思えば、そこに通っていた子供は全員障がいが重かったっみたいです。

その中で入園式の時に名前を呼ばれて返事したのが私で、そのあとに呼ばれた子供は全員返事をしたのだとか。

ちなみに私は実年齢より2歳年下のクラスに入ったのです。

そこで1年間過ごして、おしゃべりなど覚えたそうです。2歳下の従妹からも、お喋り学んだとか・・・・・・

補足ですが、こういう所に行ったものの、この時は障がい者手帳取っておらず、特別に通わせてもらっていました。

手帳を持っていたら、もう一年ぐらい通えたかもしれませんけど・・・・・・

1年経過したころ、幼稚園に行く年齢になってしまい、卒園しなければならなくなりました。

幼稚園に行くのには高いハードルがありました。

条件付きで入園を認めてもらい、初めて健常者の中に入ってゆきました。

トイレ一人で出来る。とか園外保育は必ず親付きとか・・・・色々ありました。

持ち家から引っ越ししてくるときに、幼稚園の運動会の映像を見ました。よその子の親が撮ったもので私がメインではなかったのですが、

みんなと同じように競技をこなしている自分がいました。足痛いのに・・・・暑いのに・・・・・色々突っ込みたかったですけどね。

幼稚園での生活は、何でも皆と同じようにしたいと必死だったそうです。駒廻しの練習をして家のドアガラス割ったり・・・・・

公園行くのでも親付きでないと私は参加不可能でした。楽しかったのかどうかは定かではありませんけど・・・・・・

覚えているのが入って右側に私がいたクラスの教室があり、その並びにトイレと保健室があったんです。

っでしょっちゅう保健室に行っていたもんやから、担任に「保健室の子になるんか?」と言われた記憶があります。

竹馬にも乗れず何か別の物で代用していました。

みんなと同じことしたいのに出来なかったということが沢山あった幼稚園時代でした。

当時の担任の先生が、このブログ見ていたら奇跡ですけど、

先生が卒園文集(園児の親と先生が書くもの)に寄せていた内容が忘れられません。

その内容、丸々、私の事書いていました。題名が「〇ちゃんとの出会い(こと?)」みたいな感じだったと思います。

出来なかったことが、練習して出来るようになってクラスのみんな大喜びしていました。と書いていました。

私は先生の記憶に残る子供の一人となったようです。今でも覚えてるんでしょうか?

 

義務教育へと続く・・・・・

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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