エーリッヒ・フロム『愛するということ』
ほとんど富野作品批判として読んでしまいまった。
(エーリッヒ・フロム『愛するということ』)
このへんは富野作品の基本プロットというかキャラクター像の要約かと思いました。
あれはうぶな主人公が社会に投げ込まれてなんとか適応しようとしてギクシャクするのが基本線ですからね。
その作品を支持するのは、組織に適応的な良く鍛えられたガンダムオタクというか、ただ明日へと永遠にアムロ。
欠落を抱えて何をどうすればいいのかもわからないまま、自分の問題を目の前の敵を倒すことにすり替えて、突然本当の敵はザビ家だとか言い出す、そういうのがリアルな人間描写だと思ったいた時代が僕にもありました。
『現代文明は、孤独に気づかないように、さまざまな鎮痛剤を提供している。それはまず第一に、制度化された機械的な仕事の、厳密に決められた手順である。これがあるために、人びとは、自分のもっとも根本的な人間的欲求、すなわち超越と合一への憧れに気づかない。しかし、機械的な仕事だけでは孤独を克服することができないので、娯楽までが画一化され、人びとは娯楽産業の提供する音や映像を受動的に消費している。さらには、次から次へと物を買いこみ、すぐにそれを他人と交換したりして、孤独を紛らそうとする』
『現代文明』を富野作品とか商品展開に置き換えてもしっくり来る感じ。
フロムは愛を見失った現代人を『ロボット』と呼んでるし。
隠された超越との合一欲求がストレートに出てるのが、富野作品ベースの福井作品ですかね。
資本主義市場で上手くやれず挫折するのが富野作品で、上手くやれるのが富野作品をワンパターン化した福井作品かもしれない。
飲むと喉が乾くからさらに飲んでしまう塩水みたいな。