着物を着てお稽古場の初釜へ。今年で17回目の初釜。初釜が済まないと正月気分が抜けず、一年が始まらないような感じになってきている。一年、一年、自分の人生の歩みがどうなのか、を考えるよい機会になっているようにも思う。寄り付きは松村景文の盃に亀、本席は清巌和尚(!)の「上無片瓦」。清巌宗渭(1588-1661)は江戸初期の臨済宗の僧。千宗旦の参禅の師で、今日庵の逸話で有名。改めてその逸話を確認してみたい。
正保五年(1648)七十一歳の宗旦は不審庵を江岑宗左に譲り、後庭に隠居するための茶室を建てる。席が出来上がると、席名を乞わんと師事する清巌和尚を招待するが、約束の時間になっても和尚が来ない。待ち倦んだ宗旦は「明日来てください」と伝言を残し外出する。その後来訪した清巌和尚は、新席に入り「懈怠比丘不期明日」と壁面に記し、家人の引留めにもかかわらず帰ってしまう。程なく帰宅した宗旦はその意を感じ、師僧に対する不遜の態度を恥じ、改めて大徳寺に参向し、「今日今日と いひてその日をくらしぬる あすのいのちは 兎にも角にも」という一首を献じて詫びたという。
もし明日死ぬとしたら、人は今日一日をどう過ごすだろうか。明日が必ず来る、という保証はどこにもない。明日こそは、来年こそは、と言うのは簡単だが、今日、今を懸命に、大事に生きられなければ、明日、来年を大事に生きる事などできない。私たちに確実にあるのは「今」だけなのだ、ということ。
茶室「今日庵」の今日(こんにち)には、そうした意味が込められている。その真意はまだまだよく分からないが、茶室には、そうした名前が付けられるものだということを改めて考えて、今後の茶室の設計にのぞみたい。
「上無片瓦」中国語辞典によれば「上无片瓦,下无立錐之地」上には一片の瓦もなく、下には錐を突き立てる土地すらない。極めて貧しく無一物である、という諺。こちらも意味がまだまだわからないが、「本物」の掛軸を、生きたカタチで床の間で拝見できたという経験は、床の間の設計へと活かしていきたい。

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