イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(24-1)飲酒に関する聖書的な指針と飲み過ぎの弊害 | ヨハネのブログ

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I am Japanese female Christian Masako
Katahira, age 66.

I stay at Kagoshima,Japan after 2-year-stay of Yerevan, Armenia from September 2022.
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Yohane no blog.

 

 1980年の前後だと思われますが、中南米のある国で,エホバの証人の結婚式の披ろう宴が夜の明けるまで続き,人々は一晩中酒を飲んでいました。その結果,一つの会衆の長老団と奉仕の僕全員がその立場から除かれたということがあったそうです。(ものみの塔1983/7/15飲酒-あなたは聖書と同じ見方をしていますか)

 

 ですから、エホバの証人は、パーティで飲み過ぎないということでも、神の律法を守るよう組織として努力を払っています。また、会衆で大勢で定期的に星を見に行って、寒かったので、テントの中で夜遅くまで皆でお酒を飲んで暖をとったということもあったことを知っています。それで、エホバの証人も交わりの席で、飲酒をすることがあります。


 

 それで、今回の記事は、飲酒に関する聖書の指針と、それを守る必要性を考えてみたいと思います。



 

(1)クリスチャンの交わりの際主催者は飲み過ぎや酩酊にならないように気をつけることが必要

 

  ペテロはクリスチャンに仲間に世の人と異なる基準を持つよう次のように勧めました。「かつて皆さんは,恥知らずな行い,激しい欲情,飲み過ぎ,ばか騒ぎ,飲み比べ,忌まわしい偶像崇拝にふけっていましたが,世の人々の好むことを行うのはもう十分です。堕落した放蕩の道を皆さんが人々と一緒に走り続けることはありません。」(ペテロ第一4:3,4新世界訳改訂版)

 

 ですから、世間では普通に行われることかもしれませんが、聖書は、「飲み過ぎ」や「飲み比べ」を非としています。(ペテロ第一4:3,4新世界訳改訂版)飲み過ぎや飲み比べは、世の人々の好むことです。放とうの道であると述べられています。

 

 また、聖書は「酩酊(めいてい)する人」は神の王国を受け継げないので排斥するようにと指示しています。新世界訳の旧版では、この「酩酊する人」は、「大酒飲み」となっています。 (コリント第一5:11-13;6:9,10)

 

 

 

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聖書はお酒を飲むことを非としてはいないが飲み過ぎを非としている


Flickr/Menno van der Horst



 

 さらに、聖書は、監督や援助奉仕者の資格に酩酊を避けることを求めています。監督は『酩酊』を避けなければならないと述べられています。(テモテ第一 3:23)さらに,パウロは「援助奉仕者」 の資格のひとつに、『多量の酒を飲まない』ことをあげています。他の聖書翻訳でも、「酒を飲み過ぎない」今日の英語聖書、「自分たちの飲む酒の量に節度を守る」エルサレム聖書』となっています。(テモテ第一 3:8) 

 

 聖書の言葉を考慮すると、一晩中か、非常に遅くまで開催される酩酊を目的としたパーティの開催は、非とされています。イザヤ書に、こうあります。「酒を飲むために朝早く起きる人たちには災いがある!彼らは夕方遅くまでだらだらと過ごし,ぶどう酒にのまれる。彼らの宴会には,たて琴と弦楽器,タンバリン,笛,ぶどう酒がある。彼らはエホバの行いについて考えず,その方の偉業を見ようともしない。」(イザヤ5:11,12新世界訳改訂版)

 

(2)酩酊のもたらす弊害

 

    聖書は飲み過ぎや飲み比べを非としています。飲み過ぎや飲み比べには、健康被害が伴います。飲み過ぎのために急性アルコール中毒で命を落とす若い人もいます。急性アルコール中毒とは、短時間にアルコールを大量摂取したとき、分解できなかったアルコールが血液を介して脳に達し、脳の神経細胞を麻痺させる中毒症状です。


 

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Payton Chung

 

急性アルコール中毒で昏睡状態に陥り死ぬこともある

 

 


 

 その症状は吐き気や嘔吐、酩酊、歩行障害昏睡呼吸停止となり死に至るケースもあります。 東京消防庁「他人事ではない急性アルコール中毒」によると、クリスマスや忘年会の多い12月に出動回数が多くなっています。そして、急性アルコール中毒で搬送された人の年代別では、男女ともに20歳代の人数が抜きんでて多くなっています。

 

 世間では、大学の新入生歓迎コンパ等で先輩に一気飲みを強制され重症の急性アルコール中毒となり、死亡した例もあることを耳にします。お酒を飲み慣れていないため、自分の適正量や限界を知らず、つい飲み過ぎてしまうようです。「飲み比べ」は確かに結果が悪いです。



 

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とりわけ若者は一気のみで急性アルコール中毒になり死亡することもある

Miguel Castaneda

 

 


 




 

 

  イザヤ書の中でも、神の民は、時間の制限なく大酒をすることが非とされていますが、そうすると、多くの場合、酔っ払ってしまい、理性をかなぐり捨てて、後で後悔するような性の不道徳や「ばか騒ぎ」や暴力行為に至ります。(ペテロ第一4:3新世界訳改訂版)

 

 実際、飲み過ぎは健康問題を引き起こすだけでなく、大酒は若い人の場合とりわけ、事件・事故につながりやすくなっています。
 

 例えば、日本の外務省の資料によると、リオのカーニバル期間中は特に,飲酒,薬物等によって興奮した若者達による乱闘騒ぎや,銃の乱射等が頻発するということです。

 

 厚生労働省のサイトによると、スウェーデンで行なわれた調査では、18歳・19歳時点における週の飲酒量と、その後15年間の全体の死亡率は比例していて、その多くが暴行によるものでした。このことは、大酒が暴力行為につながりやすいこと、暴力行為のために命を落とす結果になることを示しています。



 

 また、その他にも若い男性では中年男性に比べて、低い血中アルコール濃度でも死亡交通事故を起こしやすくなるという調査や暴力事件を起こしやすいとする報告があります。 それで、若い人の場合、より低濃度より少ない量の飲酒でも、死亡事故や暴力事件につながりやすいことになります。

 

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若い人の場合大人より少ない量で酔ってしまい事故になりがち

 

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とりわけ若い人が酔っぱらうと殴り合いなど暴行につながりがち






 

 それで、クリスチャンの交わりでも、とりわけ、若い人がアルコールに度を過ごさないように交わりを開催する人の方で配慮が必要です。アルコールを飲む時間に制限を設けたり、準備するアルコールが適正な量となるように配慮することが賢明です。 20歳以下の飲酒は日本では禁じられていますから、その法律に従うことが賢明だと言えます。若い時に、アルコール依存になる人は、やはり、年をとってアルコール依存になっている割合が高いという統計があるからです。


 

(3)どのようにクリスチャンのパーティの主催者がパーティの設定を楽しく聖書的なものにできるか

 

 カーニバルなど多くのキリスト教やそれ以外の宗教のお祭りや交わりには、偶像崇拝と性的な不道徳や泥酔や理性をかなぐり捨てた「ばか騒ぎ」が結び付けられています。

 

 ですから、クリスチャンのパーティは、最後にはめをはずして性の不道徳や偶像崇拝や放とうや泥酔に陥ることを意図したパーティであってはならないと言えます。ですから、パーティの主催者は、そのパーティの結果がそうならないよう配慮をする必要があります。

 

 夫婦がふさわしい服装で共に出席して、結婚の絆が尊重されることを示しているようなパーティであれば、性の不道徳に陥るような影響は最低限にできます。反対に、そのパーティは、もし、出席者が裸だったり、露出しすぎていて性的な欲情を強く刺激するような装いで開催されるならば、それは、結果的に、性の不道徳や乱交や理性をかなぐり捨てた振る舞いにつながり得ます。

 

 クリスチャンがパーティに行く場合、フォーマルな服装の必要はないかもしれませんが、健全でおしゃれな服装をしていくことができると思います。

 

 でも、男性だけ、あるいは女性だけで、夜がふけるまで、神との関係や人生の目的や将来の計画、聖書的な問題や社会問題について話し合いを続けるということがあるかもしれません。それは、聖書の中で非とされているとは言えないと思います。イザヤ書があるパーティを非としている理由のひとつは、エホバの行いや偉業について考えていなかったという理由もあるからです。(イザヤ5:11,12新世界訳改訂版)普通は、それは性の不道徳を促進することを意図してはいません。

 

 しかしながら、最近は、同性愛的な傾向がある人が増えています。そのような健全な目的の集まりであっても、夜遅くまで出席しているならば、性的な刺激を受け、性的欲情がかきたてられるというのであれば、その人は、そうした集まりから早く退出することが必要かもしれません。

 

 男女混合の場合は、ふさわしい時間の設定は望ましいのではないかと思います。聖書は、楽器の演奏を伴う「夕方遅くまでだらだらと過ごす」パーティを非としています。ですから、そのパーティや交わりの解散の時間を設定されていることが望ましいのではないかと思います。

 

 また、決して聖書は結婚式の宴会のようなパーティを楽しむことを非としてはいません。(ヨハネ2:1,2)ですから、その交わりが聖書的にふさわしいかどうかは、その交わりが性の不道徳や大酒をはめをはずした「ばか騒ぎ」にふけることを奨励するものであるか、ふさわしく時間も設定された健全な楽しみを目的としたものであるかどうかということになると思います。ですから、クリスチャンの交わりを主宰する人がそうしたことを考慮するならば賢明だと思います。