イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(31)勘違いで表象物にあずかると神から裁かれるのか | ヨハネのブログ

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 統治体の兄弟たちは、わたしがエホバの証人として表象物にあずかり始めた時、ある程度、注目されていたようです。

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(25)統治体に手紙を書いた後ルームメイトを組むのを妨害した地域監督は事故死する

 

 それは、今思うに、統治体の兄弟たちは、成り行きを見て、エホバ神のご意志を見てみようという考え方をされていたかもしれません。今回は、統治体の兄弟たちの考え方がどんなものであったのかを推察し、それが聖書的にどうかを考えてみたいと思います。
 

 

(1)統治体のわたしに対する待遇の背後にあったかもしれない考え方


 

 統治体の兄弟たちは、昔、コラとダタンとアビラムなどに起きた事態を念頭に置いていたのかもしれません。ものみの塔20032/15号の「主の晩さんはあなたにとってどんな意味がありますか」という記事の中では、「間違った思い込みをするのはなぜか」という見出しのもとに、「そのような召しを実際には受けていなかったことを知りながら,天的な王また祭司となる召しを受けた者のように振る舞う人を,神は好意をもってご覧になることはないはずです。・・・エホバは,レビ人であるコラを死罪に処されました。コラがせん越にもアロンの家系の祭司職に就こうとしたからです。」とあります。

 

 これは、聖書のどのような出来事に基づいているかを説明します。祭司職はレビ族のアロンとその子孫に受け継がれることになっていました。(出エジプト29:9;40:15。民数記3:10)ですから、アロンの子孫のひとりが大祭司として奉仕し、その他のアロンの子孫の男子は、大祭司を補佐する祭司となりました。


 

0aaron and his sons

モーセの律法下では大祭司はアロンの息子のひとりまたアロンの男子の子孫は補佐する祭司になると定められていた




 

 アロンも、レビ族のひとりでした。レビ族の男性は祭司にはなりませんでしたが、祭司たちを助けて幕屋にかかわる奉仕を行うことができました。(民数記3:6-9)

 

 コラはレビ人だったので幕屋にかかわる奉仕をすることはできましたが、アロンの子孫ではなかったので、祭司としての仕事は許されていませんでした。でも、コラとその仲間のレビ人の男性250人が、「香入れを取ってそれに炭火」と「香を載せて」捧げるという祭司だけに許されていたことをしようとしました。(民数記16:6-10)


 

0korah rebellion
コラとその他のレビ人はモーセとアロンまた祭司の取り決めに反抗しエホバの裁きを受けた




 

 コラとその支持者は、祭司でなかったのに、祭司としてふるまったので、火がエホバから出て、コラとその250人の仲間を焼き尽くしました。それで、彼らはエホバに裁かれ、命を失ってしまいました。(民数記16:35)

 

 それで、ものみの塔誌の中には、新たに表象物にあずかる男女に対して、否定的な見方が記されており、もし、高慢になって資格もないのに祭司の立場、つまり、油そそがれたクリスチャン男女の立場に立とうとすれば、エホバ神から不興を買うことになるとみなされています。

 

 それで、表面的にわたしが正規開拓者を降ろされたことを聞いた人は、その種のことだとみなしたと思います。つまり、わたしが祭司級でないのに、せん越に祭司の立場に立とうとしたので、証人の中で正規開拓者の立場から降ろされて、ある程度エホバ神から裁かれたとみなされたと思います。

 

 でも、そのことは、証人も証拠もあるわたしの証言が不当に退けられることによってなされた裁定でした。わたしは、エホバの証人の組織の中で起こることは、それが正当な理由に基づいていれば、エホバの正しい裁きを反映する場合もあると思います。でも、不公正な扱いがされていて、エホバ神の裁きを正しく反映していない場合もあると思います。

 

 エホバの証人の組織の中で、立場を除かれたり、排斥されるならば、それはエホバ神の不興と裁きを反映すると考えられているのは、とりわけ、エホバの証人の統治体は、ご自分たちの権威が、モーセとアロンの権威によって表わされていると考えておられるからです。しかし、わたしはモーセの権威によって表わされていたのは、神の子メシアであるイエス・キリストだと思います。(使徒3:22,23。申命記18:18,19)

 

 イエス・キリストの権威は、何よりも神の言葉に基づいています。それで、たとえ、神の言葉聖書に従っていれば、統治体の言うことに従わなくても、モーセによって表わされていたイエスに従っていないということにはなりません。

 

イエスと統治体の権威に関する聖書的な考察(1)統治体の権威に逆らうことはモーセの権威に逆らうことと同じですか

 

 ですから、エホバの証人の統治体の意見と同じでないとしても、聖書中のイエスのご命令とご要求に従っていれば、モーセの権威によって表わされていたイエスの権威に逆らっていません。その場合は、イエスの是認を保っていると思います。

 

(2)天的な希望を抱く人々に対する要求は昔祭司職に求められていた要求とは異なる


 

 昔は祭司職は、その血統の人に限られていました。つまり、モーセの兄弟アロンの家系の長男がおおむね大祭司として用いられました。また、アロンの子孫が補助的な祭司となりました。レビ人の男性は、祭司たちに仕えることになっていました。(民数記3:5-10)


 

 それで、イスラエル人の祭司たちは、特定の人間の家系から選ばれていました。結果として、その立場は間違えようのないものでした。その家系にない人が祭司の仕事を行うなら死に処せられることになっていました。(民数記3:6-10) 


 

 そして、一世紀から神の王国を受け継ぐという天的な希望がイエスによって差し伸べられ始めました。(ルカ7:28)天的な希望をとらえる者たちに対する神のご要求は、過去のイスラエルの祭司職に対する要求とは異なっています。

 

 祭司職の場合は、ひとつの家系だけに限定され、それ以外の人々は排除されました。天的な希望を抱く人は、何らかの家系に属していることが求められているわけではありません。彼らはあらゆる国籍、民族、部族の中でキリスト教の信仰を持つ人々の中から選ばれます。(ガラテア3:16-18)また、昔、大祭司も補佐する祭司も男性に限られていましたが、天的な希望の場合には、女性も選ばれます。(ガラテア3:28)

 


 

0people with men and women of various nationalities

昔の祭司と違って天的な希望は女性にもあらゆる国籍や人種の人々にも差し伸べられる




 

 イエスは、神の王国への召しに招かれる人は多いと言われました。「招かれる人は多いですが,選ばれる人は少ないのです」と言われています。(マタイ22:14新世界訳改訂版) すから、どちらかというと、定員よりも多くの人が神の王国に招かれるわけです。それで、このような招きは、エホバもご存知で行われているのではないかと思います。


 


神の王国はオーバーブッキングすなわち定員よりも数多く招かれている




 

 ですから、神の召しは最初から定員よりも数多く差し伸べられていますが、そのような招待を受けていること自体は間違いではありません。しかし、召しを受けた人は、忠実さを示して神とイエス・キリストの招待に値するように努力することが求められます。(マタイ22:7,8)


 

 例えば、アナニアとサッピラは自分たちをよく見せるために偽りを語って神の王国に入るという希望を失ってしまいました。でも、当初、彼らが神の王国の希望を与えられていたことは間違いではありませんでした。(使徒5:1-10)


 

0annaias and saphira1
アナニアとサッピラは偽りのために神から裁かれたが彼らが天的な召しを受けていたのは間違いがなかった




 

 ですから、表象物にあずかっているクリスチャンのすべてが神の王国に入るわけではないとしても、それらの人々が神から神の王国を目標にするように招待されているのは間違いがないのではないかと思います。ですから、それは、勘違いとか思い込みとは言えないのではないかと思います。


 

(3)天的な希望を与えられる人にどのようなことが求められるのか

 

 では、天的な希望が与えられる人にどのようなことが要求されるのでしょうか。当然、エホバ神に対する信仰が求められ、毎日聖書を朗読するという努力が求められると思います。昔、油そそがれた王たちは、毎日、聖書を読むことが求められました。(申命記17:18,19)


 

0read the bible2

神の王国への召しを受けた人は聖書を毎日読むことが求められている



 

 さらに、彼らには、正しい生き方をすることが求められています。神の王国の婚宴のたとえ話の中で、イエスは神の王国に招かれた人が「結婚式の服」を身に着けることが求められることが書かれています。(マタイ22:11,12新世界訳改訂版)啓示の書では、新しいエルサレムの子羊の花嫁の身に着ける衣とは、「上等の亜麻布の衣服」であって、「聖なる人たちの正しい行い」であると説明されています。 (啓示19:7,8)


 

0wedding feast
王の息子の婚宴の際結婚式の衣つまり正しい行いを身に着けていない人は追い出されてしまう




 

 それで、イエスの霊的な兄弟たちは、聖書の中で「神の王国を授けられることがない」「正しくない人」にならないようにする必要があります。ですから、「性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人盗む人,貪欲な人,酩酊する人」などにならないように努力する必要があります。 (コリント第一6:9,10新世界訳改訂版)


 

     例えば、七つの会衆のテアテラ会衆のかの女イゼベルは、天的な希望を持っていましたが、会衆内で性的不道徳と偶像崇拝を推進していました。(啓示2:20)それで、イエスは彼女の影響力を受けていた者たちを大患難に投げ込むと言われました。(啓示2:22)

 

 さらに、わたしたちは皆罪人なので、基本、神の律法を守る努力をしていても、完全に守れないことがあります。そのために、罪を犯した時には悔い改めて、イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせて、その信仰のゆえに罪を許していただき、神のみ前に義なる立場を保つようにすることも必要です。(ローマ3:23,24新世界訳改訂版)でも、罪を犯したなら、「悔い改め」て、故意に罪を繰り返さないように努力することが求められます。(ルカ15:7。ヨハネ第一3:9,10)

 

 さらに、イエスが命じられたことを宣べ伝え、イエスの弟子を作る努力は求められると思います。(マタイ28:19,20)それで、家から家への個別訪問や電話での証言や非公式の証言などあらゆる手段を使ってイエスの命じられたことを行えます。


 

(4)油そそがれたクリスチャンに求められるのは有能であることではなく忠実であること


 

 油そそがれたクリスチャンは最善を尽くしますが、その能力はさまざまに異なります。また、その仕事の成果もさまざまに異なります。でも、イエスはご自分の是認される霊的な兄弟に、必ずしも有能であることを求めておられるわけではありません。

 

 なぜなら,イエスは、「これら最も目立たない人の1人にしなかったのは,それだけ私にしなかったのです。この人たちは永遠の死を迎え」ますと言われています。(マタイ25:40,45,46) ですから、その油そそがれたクリスチャンが有能で、成果を出しているかどうか、つまり、目立っているかどうかは重要ではありません。

 

 イエスは、「少しの力」で、最善を尽くして神とイエス・キリストに奉仕をするならば、その忠実さに基づいて是認をされ「守る」と言われました。イエスは啓示の書の七つの会衆のひとつフィラデルフィア会衆の成員を、試練の時に「守る」と言われましたが、その理由は、彼らが、「少しの力」で、「私(イエス・キリスト)の言葉を守って,私(イエス・キリスト)の名を否定」しなかったからです。(啓示3:8新世界訳改訂版)


 

 ですから、この聖句からもイエスがご自分が是認され保護される油そそがれたクリスチャンに求めていることは、有能で、成果を出していることではなく、「忠実」であることが分かります。また、管理人に期待されているのは忠実であることです。」と述べられています。(コリント第一4:2新世界訳改訂版) 

 

 また、タラントのたとえ話の中で、イエスは1タラントをあずけた怠惰な奴隷以外は、5タラントであっても、2タラントであっても、能力にかかわらず忠実に増やす努力を行ったことをほめて是認しました。(マタイ25:14-23)

 

0any talent is ok

主人は5タラントでも2タラントでも増やす努力した奴隷をほめたので能力や成果にかかわりなく受け入れられる



 

    また、その成果の量ではなく、忠実に最善を尽くすという努力をするクリスチャンにイエス・キリストが好意を向けられるという原則は、貧しいやもめがした寄付についてイエスが言われたことからも分かります。イエスは寄付箱にたくさんの寄付をした裕福な人たちではなく、「ごく小額の小さな硬貨2枚 」をささげた貧しいやもめを「たくさん入れた」とほめられました。(ルカ21:1-4新世界訳改訂版)

 

0jesus praise a widow
イエスは多額の寄付をした裕福な人ではなくわずかであっても最善を尽くしたやもめをほめた
イエスは能力や成果ではなく忠実に最善を尽くすことを評価される



 

 エホバの証人は、「忠実で思慮深い奴隷」は、ご自分たちが有能であるという理由で、エホバの証人の統治体であると解釈しています。2017年のものみの塔誌の中でも、その理解が掲載されており、その理解は2013年以降であることが説明されています。


 

 しかし、エホバ神は聖霊で油そそがれたクリスチャンに最善を尽くすことは求められても、有能であることを必ずしも求められません。ですから、イエスに是認されて任命される「忠実で思慮深い奴隷」とは、能力や成果が違っても、忠実な努力を続けて最善を尽くす油そそがれたクリスチャンすべてを表わしています。(マタイ24:45-47;25:21,23)

 

 それで、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、ご自分たち有能な油そそがれたクリスチャンだけを忠実で思慮深い奴隷とみなすのは間違っていると思います。



 

(5)エホバ神はご自分の油そそがれたクリスチャンに対する是認と不興をどのように表明して行かれるか




 油そそがれたクリスチャンと主張する人々の数はとても多く、実際にエホバに是認されない自称油そそがれたクリスチャンも存在することになると思います。わたしはエホバ神は、歴史の大きな流れの中で、自分がどの油そそがれたクリスチャンを是認されているのか、誰に対して不興を覚えているかを明らかにしていかれると思います。

 

 そのことは、過去にエホバ神が神の民であると主張する人々をどのように扱われてきたかということから分かります。例えば、一世紀に神から是認されている唯一の国家であると考えていたユダヤ教の人々は、エルサレムで過ぎ越しの祭りを行っていた時に、ローマの軍隊の軍事攻撃を受けて、その多くが命を失ってしまいました。

 

 また、昔、古代ユダの人々は、バビロニア世界強国によって滅びることを許されました。でも、その時、忠実なエレミヤやダニエルの仲間は、その滅びを生き残りました。エホバ神は、歴史の中で示されたご自分の方法とその同じ方法で、ご自分の民を扱っていかれると思います。


 

0jerusalem destruction2
エホバ神は古代ユダ王国がバビロンから軍事攻撃を受けて滅びるようにされることによってユダに対する不興を表明されたー同じような仕方でエホバ神はご自分の裁きを表明されるはず

0jeremiah survived

迫害されたいたが正確な預言を行っていた預言者エレミヤはエルサレムの滅びを生き残った

 



 

 それで、これから将来、エホバの不興を買っているキリスト教団体の本拠地となっている国家は滅びるか、大きな打撃を受けることになると思います。そのようにして、個々のキリスト教の組織に対するエホバ神の裁きは表わされると思います。

 

 でも、エホバ神は、ただ国家的、組織的に十把一からげにして裁かれることをされず、その中で忠実なクリスチャンには、救われる機会を差し伸べられるはずです。

 

(6)エホバ神は単にエホバの証人の組織以上の自称クリスチャンすなわち全世界のクリスチャンをご覧になっている

 

 ですから、単にエホバの証人の組織の中で、役を降ろされるとか、そこから退けられるということによってエホバの是認は示されるわけではないと思います。実際、一世紀のイエスの弟子たちは、その当時受け入れられていたユダヤ教の体制からは、排斥されました。でも、イエスの弟子たちは、ユダヤ教の体制から退けられても、エホバ神の是認は失ってはいませんでした。

 

 それは、なぜかというと、一言で言うと、エホバ神は忠実不忠実を問わず、その信仰が強いか小さいかを問わず、全世界のキリスト教の組織、また、自称キリスト教の会衆を見ておられるからだと思います。

 

0jesus rules the earth
イエスはエホバの証人だけでなくすべてご自分を主として認めるクリスチャンを世界的な視野でご覧になる



 

 エホバ神とイエス・キリストがご覧になって監督されているのは、単にエホバの証人の組織だけではありません。啓示の書の中に出てくる七つの会衆は、その中に、忠実な成員と不忠実な成員が含まれていました。

 

 

 User:jobas

イエスは忠実不忠実を問わず全世界の自称クリスチャンをご覧になっている

 


 

 ですから、エホバの証人がその七つの会衆のどこであっても、別の会衆に忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンが存在し得ます。ですから、神に忠実な聖霊で油そそがれたクリスチャンはどこかの七つの会衆からは排斥されても、忠実であれば、その七つの会衆のどこかで、存在し続けます。

 

 その中で、忠実に神のご意志を行うグループをイエスは、最終的に是認されますが、イエスの是認は、そのグループが大きいか小さいかは関係がありません。ただ、神に忠実につき従うという努力を払っていいるクリスチャンのグループは是認され、イエスの保護を受けます。

 

 そのことについては、以前も論じましたが、いずれまた検討していきたいと思います。