読書家にとって最も困難な質問
とは、「おすすめの本を教えてください」である。
前段。
例えば初対面やそこそこくらいしかあっていない人と話すとき、いつだって話題に上るテッパンネタは趣味の質問だ。何が趣味か聞いて、そこから掘り下げて会話を大きく広げてずらして流してゆく。ほかに言えるような趣味もないから、とりあえず読書というしかない。でなければ睡眠か動画視聴だ。別にそういってもいいのだけどしかし。これは最近知って驚いたが、会話の暗黙のマナーとして、質問には広げられるような答えで返さなければならないらしい。そんな空気読みができようはずもなく。
このテンプレートに最もそぐわない質問が、「おすすめの本を教えてください」である。厄介なことにこの質問は、会話の2ターン目で最も発生しやすい質問である。
1ターン目に趣味を聞くことで会話の大まかな方向を決め、答えがあり、2ターン目にそれを掘り下げる仕方によって、会話の輪郭を作ってゆく。「読書」をテーマにしたこの作業において、例えば「読書の何が好きか」「読書は5W1Hするものか」などが選択されることはほぼない。一番とっつきやすく、かつ、話題が広がりそうで、個人の人間性に迫りやすそうなコスパのいい問いとして「おすすめの本を教えてください」は選択される。
中段。
誰との会話でも発生しうるこの問いほど、誰とも答えが合わないものはない。(文字通りの意味に捉えてよいならともかく(そんなためしはあったことがない))会話という場面において、返答するときには、相手が話題を広げられそうなものを選択することが良いとされているようである。そんなもん、初対面とかそこそこの付き合いの人のそれなんて、しったこっちゃない。相手がどういう人間か知っていたとて難しい。なまじ知っているからこそ、相手が興味のありそうな本、相手の文脈に沿った本が高速で頭の中を流れてゆく。もちろん、ぴったりくるものはない。あれでもない、これでもない、しかしこれでもなく、それも違う、そうしているうちに時間は経って行き、相手は沈黙を訝しみ、ああとにかく何かしら、話題にできそうな本を答えないといけない。
まあ無難に話題な本を答えておけばよいか。しかしこうなるとまた困りものである。ドラマ化されたとか、映画になる予定とか、感涙必至とか、緊急増刷とか、実は読書家はあんまりそういう本を読まない。自分の趣味に合う本を掘り下げていく過程で、流行りものに割く読書時間が無くなっていくのである。次第に買って積むことすらしなくなる。辛うじて内容のわかる有名作家、例えば村上春樹や東野圭吾なんか答えても、もし相手が知らなければなんともいえない微妙な空気がそこに生じる。むしろ、相手は自分が無知であること(それも、世間の常識に!)を暴露されてかすかに傷つく。また、読んだことがないと話が合うことはない。ドラマ化していれば、必ず結末やディティールが異なる。話してゆくうちに、言葉にできない違和感が会話の空気を支配する。会話は成功には終わらない。そして、同じ作品を読んだことがあっても、話が合うことはない。読書家になるために必要なたった一つの才能は忘却である。思い出そうとするたびに逃げてゆく自分の頭をさまよいながら、見知らぬ相手との会話も続けていかなければならない。いつかどちらかが破綻するのは目に見えている。
また、読書家同士でもこの会話は成立しにくい。前述のとおり、読書家には自分の趣味を掘り下げてゆくタイプの人が多い。読書に割く時間は少なくとも、興味のありそうな本はついつい買ってしまう、というのが読書家の習性である。こうして積ん読がうまれる。積読を消化しよう、自分の興味を追求しようと考えると、それはもう自然に読書の趣味が合わなくなってゆくものである。たまに合う人もいるけれど。そういう人は丁重におもてなしせよ、絶対に逃がすな。
というわけで、「おすすめの本を教えてください」の返しに流行りものや有名な本を持ち出すのは難しいことが分かる。しかし、突然沈黙したり、不自然に話題を変えたりするわけにもいかないし、同じ質問をおうむ返しするわけにもいかない。それは会話のルールにそぐわない。だから、この質問に対する答えは、やっぱり文字通りにとらえて「自分の最近読んだおすすめの本について、これのどこが良くてどういう点が良くて特に主人公がはなしの展開において急転直下の展開を迎える時のモブキャラとのかかわりに関するところの作者のこれまでの作品と比較することにおけるテーマの変遷について作家論的観点から同時代の作家と比較検討し考慮してゆく過程における読者論的自分語りのナラトロジックなパースペクティブからアジェンダをセットアップしてレジュメを述べました。聞かされる側の気持ちがよく分かったところで、この記事も質問も終わり。簡単だけど、してはならない質問がこの世にはあります。頼むから勘弁してくれ。
■
ども。
ここ二日ほど体調が整わず、半日寝ては動画を見たりものを食べたりという生活が続きました。
何もできないというのも身体に悪いもので、ただ摂取できるものを無節操に摂取し続けるだけの生活になります。
今日久しぶりに外出した時の、世界の情報量の多いこと多いこと。すれ違う人と顔が向き合っただけで、その顔面だけで簡単に頭が処理落ちしそうになります。
きっと未来では「現実なんて贅沢やめとけよ、俺らは一生バーチャルで楽しんでるのが身の丈に合ってるのさ」なんて世界になってるんでしょうか。
バーチャルで再現できるものは、人間が意識的に再現できるものだけで、人間の感覚器官に入出力できないならともかく、意識の俎上に上がらないものは再現できないからバーチャルはリアルにとってかわることは出来ない、なんて論をどっかで見ましたけど、ちょっと納得しました。
目に映る世界もバーチャルみたいなもんだから、目に映る全てのものがVtuber!!
とか言って遊んでる場合じゃないですね。バーチャルの解像度
わたしってなんでしょうか。
わたしは、行為をしているときに、行為に照らされて現れる主体のことをわたしと考えます。最初から確固たる自分自身なるものが存在して、それが自分以外の世界や自分の行為を統御しているのではなく。その都度あらわれるものとして。
なにもしてないときはなにものでもないわけです。
外出しているときにちゃんと築いた世界との境界がただただ溶けていく感覚でこの二日間を過ごしたといいますか。ゾウリムシが徐々にほどけて死んでいく動画を思い出しました。
ただただ布団と画面とに一体化した二日間でした。ただただ受けるだけだった。粗末な情報量で脳がフォアグラ。
様々なタイプの人がいますが、少なくとも自分は何か外との接点がないと、色々なものを維持できないんだろうなと思いました。
思い出しました。
いまから引っ越しの段ボール箱から探し出して再読するのはめんどくさいけど、多分上の文章と大筋ははずしてないと思います。
小さなころからなんかズレてた主人公が、ついに外界との接し方を、コンビニ勤務というタスク最適化ゲームに見出して生きていくも、30歳を超えたなりの、いわゆる普通の生き方をしてもらうよう周囲から要請されて、しかし…みたいな感じだったと思います。
村田沙耶香さんはもっと(ギャグ方面に)ぶっ飛んだ主人公や世界観、まだ笑いようのある設定を書く作家さんだと思っていたので、この本読んだ時にあまりに淡々としててちょっと怖かった覚えがあります。『タダイマトビラ』レベルでも、まだ救いがあったと思っています。未読の『しろいろの街の、その骨の体温の』が気になるところ。
本にかこつけた自分語りのターン。淡々と他人事に生きていく人について。
何事かに追い詰められた人間は、ただ淡々と過ごすことによって一日一日を乗り越えてゆきます。これは周囲や自分の経験から。
感情を殺すしかないからね~、でも説明にはなると思うけれど、私の実感では違います。
おそらくイメージされているのは、感情を表に出したら研磨されてしまうことが続いて、いつしか表立っての起伏が無くなってしまい、そのうちに自分を見失ってしまう、と言ったものでしょうか。典型的なイメージで、その通りの人も少なくないでしょう。でも、このイメージはあまりに共有されすぎてしまっていて、リアリティのないストーリーのように感じられます。
追いつめられると、拠って立つものが必要になります。それほどの信頼が身近に寄せられない場合、自分は自分に拠って立つしかありません。その時に、自分が揺れ動いて感情的でいては困ります。そして、耐えられるほどに心が強ければ、自分の中の夾雑物を落とすような選択をします。そうなると、淡々と日々を過ごすことしか可能で無くなってしまうようになります。仕事、家事、睡眠。中途半端に心が強いからで、あまり心の耐久がない人はさっさとメンタルクリニックに通えるでしょうし、本当に強い人は頼れる人を探すか作るか、環境ごと離れるか、すると思います。
反応は出来るんですよ。なんなら他の人よりよっぽど出来るようになります。
自分から何もできなくなるんです。唐突に主人公の話に戻り。
主人公は、周囲から教えてもらった普通をトレースしようにも、根本的にOSが違うので、表面上の動作しかトレースできないような主人公だったはずです。
恋人云々の下りも、誰かに求められれば出来る、みたいな話だったはずです。
必要なことは自明だし、それに対して反応は出来るけれど、全く未知のことに対してのチャンネルが閉ざされてしまうような。自分語りフェイズの終わり。
この本に対する反応は、大きく3種類だったと思います。
気持ち悪い、根本的に何が語られているのかわからない人。
主人公に共感して、自分の無理解エピソードが感想欄に噴出する人。
主人公に共感したりしなかったり、ともかく、自分が主人公を苛む一般的で普通の人側だとわかっちゃって、自責の念に駆られる人。
下二つの立場は、なんか違いますよね。共感できない
どうもこの本が、主人公を鍵に、現代社会と現実の読者自身の間の摩擦を読みだす扉を開くために読まれたような印象を受けます。何も考えなくても、普通って何だろう、みたいな問いが自明に浮かんじゃうというか。
本を利用しようと思ったら、本に翻弄されて、本の一要素に過ぎない表の面で満足してしまったような。
この本の最後は、主人公がコンビニを生きることを選ぶ、それも、そうするしかないという受動的なニュアンスで、みたいなストーリーだったはずです。
社会から要請される何者かにならねばならぬ、と日々苦労を重ねている周囲の人たちを尻目に、主人公は繰り返しの日常へ戻ります。
主体性があるのはどっちなんでしょうね。というか、どちらにも主体性はないので、「主体」性みたいなものがそもそもないと考える方が自然かもしれません。初めの方に書いた、確固たる自分があるというより、行為の都度に主体が生成される…を思い返します。
確固たる自分探しゲームをして、社会から選んだ理想の人生モデルの模倣に徹するのと、淡々と行為するのと。「欲望はすべて他者の欲望である」。
どっちが善悪の価値の問題ではないと思うけど、前者の人生は後者にさんざん支えられていることを思います。
あとこの本、主人公の年齢になってから読むとまた違ってキツい印象を受ける気がします。この本は明らかに読者の年齢を選ぶだろ。プラスマイナス10歳ではちょっと正確に物語の印象が得られなさそう。今思い返すと、周囲の人は普通を強要してくる愚民どもじゃなくて、心の底から親切で優しかったことがわかります。もっと年を取ってから読むと、周りの人たちが選択の余地なしにそういうしかなかったんだ、みたいなどうしようもなさの心境が分かるのかもしれません。
本は読者の年齢を選ぶ、というのが最近の学びです。「何事にも時がある」。
■
ども。
1年前のことすら忘れつつあるので、記憶のためにまたブログを書きます。老後かな。
今は、大学がある日は午前から午後にかけて学校に行き、大学があろうがなかろうが午後から夜にかけて働いています。
大学に行くにしても、もう対面講義は一つか二つしかありません。
講義は今年から100分、通学に使う時間はその倍。移動時間が無くなるだけでどれだけ時間が余分に使えることか。
といっても、その時間もどうせぼーっとしてるかギリギリまで寝てるでしょうけど。寝たり起きたりするあの支離滅裂なまどろみの時間くらいしかリアリティのある楽しみがない。
蜂の物語について。
思い返してみると、主人公蜂が巣の掟から離れて自由にふるまえるようになるのは、まず言葉(声)を、次に秘密を得てからです。
だからなんだというわけではないけれど、ディストピア小説を読むときに奪われてたものはこの辺りだなと思いました。次読むことがあったら気を付けて読んでみよう。
きっと声だけじゃダメなんでしょうね。声は自らの意志を伝える能力であり、言葉を発するという事は、言葉しか発さず、いつしか言葉という形式に支配されることでもあります。
言葉を道具として扱うためには、言葉を自分から突き放して対立するための武器、としての秘密が必要なんでしょうね。言葉には明け渡すことのできない領域。
ディストピア的支配は、言葉という伝達形式の特有の拘束という面もありながら、言語自体の操作に及びます。『華氏451度』ではもろに辞書編集してたし。アニメのサイコパスなんかで、デジタルに対して紙の本を扱うのはこういう事情もあるんでしょうか。マキシマが言っていた「本は読むスピードを調整出来て、読みながら自分の調子をチューニングすることもできる」みたいなのも、物心ついたらいつの間にか勝手にインストールされていた思考の秩序でもある言葉を支配するためのデバイス、象徴だったのかもしれません。
蜂の物語の続き。
ディストピア社会は、一つの目的のために個の自由を重視しない立場です。たいていその目的が乗っ取られてたり、そもそも嘘だったりする。
今流行りのワクチン接種にかこつけて考えると、理性的に考えた場合、ワクチン接種をしない選択肢は十分あがってくるものと思います。
コロナ症状も、副作用の症状も、この私が発症するか否かという点においては、人数比のパーセンテージなんか何の役にも立ちません。
理性的に考えた場合、コロナの感染かつ発症かつ後遺症の確率と、ワクチン接種かつ副作用の確率を考えた場合、ワクチンを打たないという選択が行えてしまうことになります。ちゃんと計算したら絶対そうはならんやろというところですが、早くもワクチンが効かない変異型が!?とかやってる昨今、よくわからんものを身体に入れるのは出来るだけ少なくしたい、というのは当然の心性だと思います。書いててそういう気分にもなってきた。
理性に従って自己の保存のことを第一に考えた場合、ワクチンを打ったり打たなかったり出来てしまいます。ここで、ワクチンを接種させるために必要なのは、他人や共同体に関する視点です。自分がかかるかどうか、自分に副作用が発生するかどうかではなくて、子孫や同族への感染確率を下げられること。
蜂社会だと大層ワクチン接種が楽なんだろうなと思ってしまいます。奇形児を即座に捨てる社会なので、種の保存のためにワクチンを打つことに疑問は抱かれないでしょう。
一方で、自己?が強すぎると、ワクチンを打たなかったり、なぞの狂信に従って反ワクチン運動を行動にまで移すことが出来るようになります。今日もそれに対応した市の職員が発症したりしてましたね。
(バーチャルでなくて)現実での共同体と自己の間でいい感じのバランスが取れるといいんですけど、帰属してない共同体にまで、もしくは共同体にまで、自己犠牲に対する大きな返礼を期待するのが難しい今ではもう無理なのかなとも思います。「永遠の命は死より来る」「汝の死に賞賛を」をちゃんと保証してくれる、蜂の共同体もまたマシなのかもしれません。隣の芝。
蜂の物語
ども。
全く本を読まなかったので、読書習慣を復活すべく読みました。
装丁が良い。装丁だけで買ったところがある。私的本棚に納めたくない本大賞2021ノミネート作品。
今年出てた本だと、『透明性』とか、『田園都市と千年王国』とかがノミネートされています。それはともかく。
表紙から浮かぶイメージに違わず、宗教のもつ、私から脱け出て大きなものが動いているあの感覚が感じ取れる本でした。直前の文章に主語がないのはタイポじゃないです。直接〈集合意識〉なるワードが出てきてるしな。
蜂の視点で語られたディストピア文学、と帯には書いていました。『侍女の物語』になぞらえて評された驚きの文学!なんて折り込んだところには書いてましたけど、それが驚きに値するのかどうか。
蜂は、人間よりも強く社会的な習性を持つ生き物で、ここがディストピアものにおいていい感じに管理社会のリアリティを増すものとして働いているように感じます。人間が主人公ではえがけないような強い管理社会。
身体的な面においても、蜂は生まれた身体によって運命が決まっています。なんか反抗したり、自由を求めたりしちゃう人間よりも数段純粋なディストピア。可能性がないんだもの。
中世の(と言っても1000年間もありますけど)キリスト教社会は意外と宗教的な統制が取れてたわけではなかった、みたいな話をよく聞きます。キリスト教的な世界観が社会を覆っていたのは勿論として、しかし、異なる価値観をもった蛮族だったりもいれば、その規律にしたがわないちゃらんぽらんな人も多くいました。聖職側にも。社会がしっかりディストピアであるためには、とても高い技術力も必要ながら、なによりみんなが真面目でなければならない、とは私の今年前半の学びです。蜂にはそれが許されません。精神も身体も、生きる意味さえも。
キリスト教の聖句を蜂の用語に変えただけでこれほどまでにも(姉妹に祝福あれ、我らが罪を取り除く者よ…はAgnus Deiですね)宗教が強く社会の紐帯として働いている管理社会がはっきりイメージできるものか、と思いました。
ヘンに人間臭いところが無くて、細かな習性やイベントまでしっかりミツバチの生態に沿っているところが、中途半端な共感を拒んでいて好きです。
一度読んでわかる本は、読む必要がありません。それは、私の中に元々あったことを違う仕方で言っているだけです。それは、別の仕方で異なる本を再読しているにすぎません。それは、共感においても同じだと思います。
共感できない、私の同一性に取り込まれることを阻んでくる本からこそ、視点が際立ち、考えることがたくさん浮かんできます。全く似ていて全く同じでない
香りに対する語彙が豊かなのもこの本の面白いところですね。蜜蜂ならば当然なんでしょうけど、私は人間なので。とても官能を刺激されます。
■
ども。
久しぶりのブログ。
ここ最近は、飲食店に対する休業要請に従って完全休業、一か月近く何もしていませんでした。
人生の中で1年か2年くらい働かない期間があっても大丈夫、というか病気して働けなく期間がある、とは思っていますが、こんなに早く来るとは思っていませんでした。
運悪くウーバーイーツにも目覚めてしまったため、家から一歩も出ない日が続きましたとさ。3キロ太った。
何もしないといいつつ勉強、が生き馬の目をくり抜きあうような昨今のビジネス界隈事情ではありますが、本当になにもしてない。モンハンライズして、ユーチューブ見て、パズル雑誌を何冊か解き終わりました。すでに老後。
香川に行ったり東京に行ったりはしました。特に東京には、しばらくいけなくなるでしょうから。到底小麦から出る噛み応えではないし、讃岐うどんはきっとゴム。
自由席1号車1番A席に乗るというささやかな夢を成し遂げました。
お酒関係では、ブランデーの勉強しようとしてました。
勉強しようにも、日本語で読めるブランデーの解説本は全くないので、出来ることはとにかく飲み比べることでしょうか。これは継続中。
いまのブランデーの立ち位置としては、「熟成年数に対する値段がおそらく一番安いお酒」でしょうか。
20年もので10000円を切るのは今のところ、ブランデーくらいのはずです。ウィスキー全般はじわじわと高騰しつつあり、12年物ですでに10000円を超えるようなものも増えてきました。
ただ、30年でも20000円未満だったり、50年ものでも6桁行かないところがあったり、他のお酒と比べると、現状破格の値段ではあります。
熟成させるお酒は基本的に15~20年を超えてからが本領なので、この値段で買えるのはありがたいと言ったところです。5桁するお酒は高いという感覚を忘れずにいたい。
映画を見に行きました。
FGOの映画の後半部。
この一月、もしくは二月以上、まともに通読や通覧してなくって、本当に久しぶりで新鮮な体験でした。こんなこと言うようになるとはね。積ん読は増えるのに。読まず。
ゼミ関係の本や、シンエヴァなんかは見てたけど、頭にもやがかかっていたようで、何も覚えていません。
しゃばけや鬼人幻燈抄、鬼滅まどろみバーメイドテロール教授なんかの新刊もいくつか読んだはずですけど、シリーズ物の続きなので、いかんせん通読する感覚ではないと言いますか。
時系列から切り離された断片を見ていて、全体ではないというか。
例えば日常物のアニメだと、12話×前後半で24のエピソードを、季節感や進級に合わせつつそこそこ並べていく構成になります。一つ一つのエピソードに、その順番でなければならないという必然性は薄く、そのエピソードでなければならないという必然性もそこまで高くありません。
これを極端にすると、休み中にユーチューブばっか見てた私の生活になります。
5分くらいの断片を、いつ何を見ても良い。一貫性はない。世界観は一定でないが、ある程度同じチャンネル、大まかなジャンルには縛られるため、そこそこ分かる。
対して、フェイトのようなストーリー性の高い作品だと、12話×20分で4時間、この短い時間の中で大きな目的を果たして、かつ、齟齬をきたさないようにそれぞれのキャラクターの行く先を描かなければならないために、物語の一つ一言の必然性が大きなものになります。400頁しかない小説も同様に。
意味の・必然性の密度が全然違う感覚があります。
それに、その時間のなかで完結する、それ以上物語が広げられない、という制約も強い。
久しぶりに密度の高いものを見て、満足しました。
扱われているテーマが自分好みなのもあり。フェイトはサブキャラをサブキャラにとどめないで、ストーリー上で要請された役割以上のものを背負わせてくれるので、誰をとっても見ごたえがあります。
FGOやってた人には周知の事実だったんでしょうけど、マシュ・キリエライトに宿った英霊の正体が分かるシーンが好きでした。FGOやってなくて、かつアーサー王関連の知識があってよかった。
休み中にずっと読んでた本。ゼミのせい。
いわゆる「読み」の立場には3つの次元があって、それは作者、読者、テクスト、です。
作者の読みは、いわゆる作者の気持ちや作者の意図を読み取る読解の方法ですが、バルトによって、理論的にこれを知ることが出来ないと告げられてから、見向きする人があんまりいなくなりました。
読者の読みは、読者が思い思いの物をテクストに読み込む方法です。
今ではSNSのおかげで一見当たり前のようで、(というかこれしか方法が取れなくて)テクストの内容如何に関わらず、思った連想をそのまま述べる、いわゆるクソリプを可能にしてしまう原理でもあります。タイトルの「深読み」、文中では「過剰解釈」はこのことを指しています。
なお、文中でジョナサン・カラーが「浅読み」と呼ぶべきだと指摘していて、私もこの方が適切だと思います。
エーコがわざわざ「深読み」というワードを使うのは、エーコが問題にしているものが、神曲から、ほとんど無理やりに近いような方法を使って、当時の政治家の名前とその行く末を読みだしてしまうような読解だからです。求めている真理が必ず当該テクストに隠されているというヘルメス主義的な信仰。
これに対する第3の立場が、テクストです。テクストが言っていないことを指して、解釈と呼ぶのは難しいとする立場(連想とはいえるでしょうけど。)。
テクストが何について言っているのか、まさか文字通りだけを読むわけにはいかないので、この立場は正当性を主張するのがそうとう難しい立場になります。
エーコの主張は、「テクストの経済性」という概念を用いれば、解釈が明らかに誤っているかどうかだけなら判別できるという主張でした。解釈が一義的に正しいかどうかは判別できない、というお約束があります。
ある解釈が、テクスト自体の一貫性と食い違わず、その説明以上に経済的な(合理的な、の意味で用いている?)説明が与えられず、不特定多数を示さない(でかい主語とか、ですかね?)限りは、その解釈は正しいと認めることが出来る、というようなものでした。
ただ、このレベルを満たしたテクストがいくらあるのかという問題はぬぐえません。エーコは相当ハイレベルなテクストで行う知的ゲームのことを解釈と呼んでいるようです。推理の楽しみ以上に楽しいのかね、これ。
また、個人的には、このテクストの読み方は、有限の複数の可能性を探り当てていくゲームに近く、「この私が読む意味」があんまりないと感じます。極論、駒が多く、かつ明確でないチェスみたいなもんです。テクストには外から何か読み込んでこそ、この私が対決し、変質してこその読書です。
久しぶりにブログ書きました。Twitterばっかしてたけど、140文字以上書けるのはやっぱ楽しいですね。
三重旅行記 鳥羽水族館
ども。
とくになにということもなく日々が過ぎてゆきます。
前の連休で三重に行きました。Gotoさまさまですね。思ったより遠かった。
鳥羽水族館を目的に行きました。
現存する水族館の中で二番目に古い水族館。一番目は魚津、三番目は須磨。
古い水族館ならではの、レトロな魚種説明がいいですね。1990年代フォント。
線がシャープすぎなかったり、無駄に光らなかったり、ただ淡々とそこにあるだけ。
薄暗い中でみるにはちょうど良いですね。
現存する水族館の中で、最大の展示数を誇る水族館でもあります。1200種。
そこらの水族館では水槽に一匹だけ、珍重されているようなうつぼも、鳥羽水族館にかかれば、中水槽に50匹ほどすし詰め。
ごついイセエビが何匹も水槽の角にかたまって何とも言えない球体を作り。
懐の深さと無神経さのちょうどいい間をゆくようなバランス感覚。
ひそかな水族館ブームに乗って全国に水族館が作られている昨今、
とりあえず初手大水槽、途中でクラゲを光らせて動物とチンアナゴグッズを売るような量産型水族館が増える昨今、
おおらかでユニークな展示が見られるこの水族館は良いですね。
水族館にしては珍しく順路が無いのも特徴です。すみだ水族館もだっけ。好きな順に好きなだけ見られるのが良いですね。
一つ一つの水槽も、ただのハコでは無しに、生活環境が再現されています。
大水槽なんか、とりあえず白砂だけひいとけみたいなところが多いですからね。
鳥羽水族館の価値観を感じます。不便なところにあっても、変わらず大盛況のまま続いているのは、展示する生き物に対するこういう態度なんでしょうね。というか普通に人多かったんですけど。コロナとかもう関係ないんですね。
しかし場所が不便だわ。一度新幹線で名古屋まで行った方が早いとは思わなかった。
鳥羽には泊まりませんでした。一人で旅館は予約できなかったので。悲しみ。
四日市に泊まりました。
旅行に行ったときには、その土地の場所を食べるようにしていました。この時までは。
何もなかったですね。
梅田の繁華街を一部だけ切り取ってきたような駅の西側、
高い建物がなく、4車線の道路のよこに幅広い道が広がる東側、
観光向けの街でないことをひしひしと感じました。
どちらかというと、県内の人が仕事のために集まるハブのような印象を受けます。
勉強になりました。
何件かバーに行きました。
街場のバーのタイプとしては、全く異なる3種類のバーでした。
1軒目が、席も少なく交流を密にするタイプのバー、
2軒目が、その町のオーセンティックの代表のような、ご老人がマスターのバー、
3軒目が、中の人も若く、知識もしっかりしていてネットの住民に受けそうなバー。
1軒目は、数少ない常連さんを密に回していくようなバーでした。地域の中の、さらに特定の層への密着型。
置いているお酒も、ある程度知名度があるスタンダード品か、名前やラベルが印象的なものが多かったように思います。
歓迎もされず、追い出しもされず。食べ物がおいしかった。
バーフードってめちゃくちゃ手間かかるのであんまり好まれないイメージがあるんですけど、おいしいから頼んじゃうんですよね。
2軒目は、オーセンティック風の、バーコートをきっちり着て、権威的な語りをするバーでした。
しかし、その日は年配の常連さんばかりだったようで、特定の層をけなしてコミュニケーションするような語りが目立ちました。若者で悪かったな。
年齢を重ねた人が、オーセンティックという記号をまとう為にいくようなバーでした。
対応も微妙だったし、二度は行かないと思います。忙しかったのかな。
常連さんを贔屓するのは当たり前ですが、当然客は嫌な気分になるという話。
3軒目は、最近はやりのミクソロジー系のバー。
バックバーにも普段見ないようなお酒が多く。尖った棚構成してるなと思いました。
どの種類のお酒にも、必ずどこのバーにもあるような銘柄が3種類ほどあります。
これは、目指すお店の店風?や、お客さんの層によってある程度異なります。
若い実験的なお店には、新世代のスタンダードや、ネットで有名になった3銘柄、
古くからあるお店や年齢層が高いお店には、漫画や雑誌、常識として口伝えで有名になった3銘柄。
どっちも無かったと思います。バックバーをなめるように見たわけではないですけど。
それでも、目につくところにそれがない、ということが一つの意思表示だと思います。もしくは目が節穴。
尖ってるなぁ。
気になってたフォーピラーズのブラッディシラーズを試しました。
ジンに、シラーズ種のブドウを3kg程度漬け込んだ破格のジンです。
赤葡萄の甘い果実みを想像していましたが、結構甘さ控えめでスパイシーなんですね。
トニックの銘柄と相性とかあるんでしょうか。宣伝文句ほどは甘くなかった。
最近はやりの色が変わるジンの系譜でもあります。
バタフライピーのエンプレス1908、オールドキュリオシティシリーズとか。
色が変わることへの強い期待感に味が伴っている銘柄の登場が待たれるところです。まぁ5桁万円超えると思うけどな。
アニーホールバーの5周年記念のグレンスコシアをいただきました。
鳥羽に行った数日後に、偶然京都水族館帰りにアニーホールバーみつけてシンクロニシティを感じていました。
グレンスコシア、現行の若いのしか飲んだことなくて。
キャラメルプリンや白桃みたいな、デザートウィスキー(造語)だと思ってました。
ここまで塩辛くて、本で読んだキャンベルタウンらしい味わいのするのは初めてでした。
塩辛いしちょっと土っぽい味すらしました。けど、あとから強い・重い甘みがやってきます。いわゆるトロピカルでフルーティではないけど、しっかり重い果物の香り。昼下がりに喫茶店で友達と食べるパフェがこんな味だとうれしい。そんな友達がいるともっとうれしい。
グレンスコシアの、味の可能性の幅広さを感じました。他の銘柄も飲んでみたい。
というか、19年ものなんですね。長熟ってここまではっきりシャープに味がするものなんでしょうか。これまでの経験値が覆される。
全部のバーにアハトロ・ディーヴァがあったのが気になります。テキーラの中では相当攻めたチョイスだと思うんですけど。赤ワイン樽での熟成を経て、果実味とピンク色がついたテキーラです。
鳥羽水族館はニッチ・地方都市で観光を目指すな・自分に分相応なバーを見極めるスキルをつけろ、といった感じです。勉強になりました。
余談。
旅行に行くときには必ず、未読の本を持って行って、道中で読むことにしています。
もしくは、かならず旅行先で書店に行って、本を買うことにしています。
旅行の目的の半分くらいは、道中での読書です。
今回はこれ。
内容が素晴らしいのはもちろんとして(これを読んでたら進路に強く影響したと思う)(アウグスティヌスが結構ラディカルで面白い)
家で読み返した時、鮮明に道中の田園風景と旅行の色々な質感が思い出されて驚きました。
そういわれれば、その本を連想するとき、東京に持って行った1冊や
九州に持って行った1冊で
その旅行の色々な景色が思い出されます。東京は葛西臨海水族館からみる開けた夕焼け、福岡の海の中道水族館付近の植生とリゾート感、あの強い風。
こいつ水族館ばっか行ってんな。
雑文
ども。
5月も終わり、コロナも終わり。かけ。ですね。
まぁ終わらないんでしょうけど。今年は難だわ。
オンライン授業。
罪。抑揚のない1時間半の音声に、集中せざるを得ない点がギルティ。ということで落ち着きました。
Vtuberとかよく見ますけど、あの人たちが2時間をトークで乗り切る技術は相当のものなんだなぁと思った次第。
最近読みました。
この人の本読んだことないと思ってたけど、『ドS刑事』読んだことありましたね。
やっぱりこの表紙のインパクトが強すぎて、他の著作が覚えられない。
『東京プレデターズ』は、Youtuberものです。この人(七尾与史さん)最近ユーチューバー始めたって聞いたけど、こんな形になるとは。
例えば動画の最初30秒で面白いと思わせないと動画は最後まで見てもらえない、とか。
そういう技術でもって、youtuberの人たちはあの世界に命かけてるわけですね。何事にもそれなりの技術が要る。
すきなyoutuberはきまぐれクックかねこです。魚捌く動画にはなにか別種の快感がある。
Vtuberをよく見ます。笑いのにじさんじ、芸人のホロライブ。声の低い人が好き。
最近買った本のメモ。
自粛解除か?くらいの雰囲気の時に、なんか書店の本棚に並んでた。
あの日の棚の雰囲気みるに、ニーチェやらフッサールやらの全集系は棚からのけて、昔流行った本を棚に置いてみる、とかそんな戦略だったんでしょうかね。不謹慎ながら書き入れ時だったでしょうし。
このワードは私が生まれる前の流行だけど、自己愛人間のワード自体はつい最近よく聞きましたね。『他人を攻撃せずにはいられない人』『結局、自分のことしか考えない人たち』あたりがちょっと流行ってた覚えがあります。精神ハック系のコラムが全部自己愛性パーソナリティ障害で埋まってた時の飽きようよ。なんでもすぐに理由を求めて飛びつこうとする。
読まないかもしれない。多分現状読まない。
読まなくても本棚に置いときたい本ですよね。人生ルートの分岐のうち、特定のルートでは必ず読むことになると思う。
なんとなく、読むために本を買うより本棚作るために本を買っている気がしてきました。将来はコレクターかもしれません。『女ぎらい』もおいときたい。
なんか新刊コーナーに並んでた。作者買い。
なんか新刊コーナーに並んでた。
思想界では今、自閉症が流行りです。
背景に、いわゆる現代思想がフロイトから始まる精神分析の流れを一つの重要な側面としていること(残りはフッサールとニーチェですね)、現代思想史がその中でもパラノイア(分裂症)の特徴と時代精神?をその特徴の一致から説明する流れであったこと、今の時代がパラノイアでは説明が付けられなくなっていること、今の時代が自閉症的である(これは、俗な意味や精神病としての病状ではなく、精神分析的な区分において)こと、あたりから。
本屋大賞ノミネートだったはず。
本屋大賞どいつもこいつもどんでん返しと裏の顔(自由律都都逸)。
そういうタイプの小説ばかり、多くの書店員が勧めようとして選んでいることに、なにかしら感じざるを得ないものがあります。
本屋大賞、商業のためにやってるのか、書店員の世相反映でやってるのかわからなくなってきた。
この人のうたが好き。どちらかというと、詩を読んでいる感覚がある。一瞬破断する世界。
梅田蔦屋書店、読書の学校より。今十講でしたっけ。
同上。ちょっとだけ読んでるけど、この人の文章好きかもしれない。
この人みたいな視点で接したい。
なんか出会うべくしてであった。これから読みます。
ウェルベックとかもそうだけど、自分の人生に不可逆の強い打撃を与えてくる予感がある。
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ども。
オンライン授業にも段々慣れてきた昨今、どうお過ごしですか。
こちらでは、レジュメが配られて、それについてのレポートをかけ、なんていう課題が出たりするわけです。
レジュメは最低限の名詞の羅列なので、とてもレポートになんかできないんですね。
調べようにも図書館は開いてないし。家に資料がないと詰み。罪。
それで買った本。
いくつかテーマを選べるうち、スーフィズムが一番簡単そうだったので。
レポートはまず出してこそ。
神秘主義、面白いですね。
理性によってとらえられない神へのアンサーとして、神と個人との二者関係がある。
神は人間を超越する超越者だからこそ神として権威をもちますしね。
あと、理性が次第に知という権力になっていくのもあるかもしれません。
カシコイ人にお前の信仰はこうでこうで~なんて賢しげに決めていただかなくて結構。
でも、論戦なんかしたら負けるのは必至。相手の土俵だし。
なら、絶対口出しできない神と個人との関係に引きこもるしかない。
愛をパスとして神人合一を果たす、みたいな主張だと思うんですけど。
仏教では偽涅槃という言葉で、神を身に降したまま現世に帰ってこず、自らが神のようにふるまうことを厳しく戒めます。
イスラームはどうなんでしょう。レポート用の端折り読みではそこまで読み取れなかった。
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ども。
案の定更新できないけど読書記録としてだけでも機能させたいという思い。
最近買った本の一覧と買った理由。録。
https://booklog.jp/users/placetoplace
作者買い。好きな作者さん。
昨日発売なんですね。食べ物に関する小説が好きなんですけど、自分の好きな作家さんが書いてくださるなんて。読むのが楽しみだし特別なときに読みたい。
教科書類。
日本近代文学。
当時の青年像の比較ですって。『三四郎』からちょっとずつ読み進めてるけど、すでにちょっと共感羞恥。
多分文学批評の授業。
多分ポストコロニアルとフェミニズムとカルチュラルスタディーズ。
江國香織はちょっと読むだけでダメージ強いですね。傷つきたくなさ。
カルチュラルスタディーズとフェミニズムスタディーズ。授業動画見て自分で考えるのでは限界があると悟った。知らないことは考えられない。
カルスタの教科書。
実際の事例から検討してみよう。同じカルスタ関係で、あと音楽論をとっています。
フーコー関係。権力を問題にする↑の分析とのつながり。
なんか社会学関係の本多く買っちゃった。読むんかしら。
話題書。
『リスク社会』といい、社会情勢の影響をとても強く感じます。影響されやすい性質。
惰性。
お酒。
後者すごいですね。シンガニとかちゃんと載ってる本初めて見た。ボリビアの地酒、マスカットの蒸留酒。紅茶と合いそう。
表紙買いシリーズ。
伊藤野枝みてると、他人に迷惑かけても自分の好きな道を突っ走るのがアナキズムと思えなくもないですね。相互扶助が基本だけど、この人見てると自信がなくなる。
小説。表紙買い。
本読むのが好きなのに好きな本を読めない矛盾。今学期も頑張っていきましょうね。
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ども。
「コロナ禍によって世界が変化したのではなく、世界の様々な問題が可視化されただけだ」
みたいなことをミシェル・ウェルベックが言っていました。
(この鮮やかな表紙に見覚えがあると思う。未だに外国文学の棚で平積みになってるところさえある。中国SFが流行りのいま、さすがにSF棚で平積みはされてないだろうけど)
(最近の文芸書、彩度も光度も高い表紙ばっかですよね 急な傾向だよな)
自分とのかかわりでいうと、思ったよりみんな日常にこだわるんだなぁという発見がありました。
9月入学を勧めたい意見なんかもそうですよね。
システム的な問題というより、何気ない日常をこれまで通りすごすために9月入学を求めてるような。
日常にこだわる教授の話。
大学の先生たちも、今まで通りだったら学生が到達できたであろう地点に持っていくために課題を出します。その結果が今の課題地獄なんですけど。
文部科学省の通達によると、一つの講義にかかる総時間は14回授業×4・5時間で63時間。×約70講義。
もしくは、就活のために4回生をフリーにしようとする場合、3回生までは、1週間の拘束時間は4.5*10講義で45時間。通学時間は含めませんし、学費を稼ぐための時間も含めません。そんな時間大学生にあるかいな。計るのがそもそもおかしいと言われればそれは正しい。
実際のところ、大学は人権を得るために行くところなので、楽な単位を数多く回収して、卒論という名の可燃ごみを製作して、最後に大卒の称号さえ得られれば、時間をかけない方がコスパがいいわけです。KOKO格差社会。
教授たちもそのあたりはわかっておられたので、心ある人でも講義は社会人養成講座や人格の涵養っぽい感じで押さえて、本気で学問するなら大学院からみたいな雰囲気だったんですけど。理系は多分違うよね。
とまぁ計算で出る勉強時間は実際不可能に近いんですけど、緊急事態に即して教授たちが本気出しちゃって、「いつも通り」机上の空論時間通りに勉強させようとした結果学生も苦労するし教授も苦労する、というような事態に。
バイトできないからその分時間あると言われればそれはそう。でも、メンタルは保てないですし。無駄になるかもしれないものに努力できる人は少ない。
教授でも今まで通りにこだわるんだなぁとおもいました(こなみかん)。
もちろん全員がそうではないし、とりあえず乗り切ることを主眼に置いている教授だったり、とりあえず単位を回収することを目標にさせる先生だったり。
弱さに対して優しい先生が幾人かいてくださって助かります。
神学部は人間の弱さに対して相当理解のある学部ですけど、他学部もそうだといいなぁ。この段落は弱さの話。
「どんなやつでも留年したやつの言葉に価値なんかない」なんてツイートを見かけたもので。文言とは裏腹に、サークルにかまけて留年したやつ、みたいな文脈で。
留年することにめちゃくちゃ忌避感と差別意識あるんだなあ。思ってるほど一大事じゃないのに。他人の弱さに厳しい。傷つけやすさが高い正論。
ちゃんと成功体験積み重ねてる人にはこんなことわかりませんし。というか、「弱さに打ち勝つ」ことが成功の要件なので、自然に自分と違うルートを歩んだ人を弱い格下扱いしてしまう。自覚はない。
これは思った以上にやりがちな事例で、例えば「なんで筋トレしないの?痩せるし鬱も無くなるし肩もこらなくなっていいことづくめだよ!」がそうです。圧倒的ギルティ。できたらしとるわ。身体も言葉もマッチョイズム。俺にできたからお前にもできるはず。みたいな素朴な差別観。
積読だけど紹介しようという気持ち。
こんな感じで自分と価値観を断ち切っていけないと、生きていけなさそう。圧倒的レジリエンス。そしてレジリエンスすらも習得すべき社会人スキルになる。そういう価値観を断ち切っていけ。
この人の本だとこの往復書簡が面白かったです。
人文書界隈でめっちゃ流行りでしたよね。
この手紙が一年前のGW頃から始まっていたらしく。
Twitterで補遺に当たる部分を公開されています。
『急に具合が悪くなる』を読んでくださった皆さまへ
— 磯野真穂|人類学者 (@mahoisono) 2020年4月27日
去年の今日、宮野ー磯野の往復書簡が始まりました。
“今回の磯野さんとの仕事で自分のことをはじめて哲学者と名乗れる気がする。楽しみ”
宮野さんは書簡の始まる直前にこう語っていました。 pic.twitter.com/6KR7KHjHrN
「現状を維持したい」という思いは、こういう不測の事態の先送りを求める気持ちで、それは自分の不確定性・偶然性という意味での弱さや脆弱性を拒絶することから始まる。
みたいな感じでまとめたらいい感じにまとまりませんか。この記事。