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ども。
どうも物語論が自分のしたいことに最短経路らしく、大学ではその勉強をしています。
しかし勉強していると、読み書きの意味が分からなくなってくるよなぁ。虚無虚無。
どこぞのイスラームが国境の国では、職業小説家がいるにも関わらず、小説が読まれないんですって。
なんでも、コーランに全て真理が書いてあるのに、被造物が書いたものから真実を知る必要はないからだとか。
意味や因果を見出す方がパラダイムの周回遅れなのかもしれませんね。
パラダイムってこんな意味で使わない気がするな。特定の時代の特定の地域の常識って意味で書きました。
今年も恒例の演奏旅行を終えました。
今年は立案引率だったので、精神的には楽でしたね。人任せが得意でないので。
その分計画立案交渉引率する手間かかったけどな。実質手間なのは引率なので。
なぜか生徒が行程立案することになってて驚きました。プロに丸投げ。
それでも反省点の塊なので来年に向けて、記録しておかないといけませんね。
素晴らしいことにマニュアル完備なんですけど、原案が10年以上前、かつ口伝併用なのでいい感じにマニュアル書き直さなければね。マニュアルあるなりに困ることはあります。
演奏旅行のお供。
これこれ。新潮社の、黒い表紙に赤い箔で文字が書いてあるやつ買いました。
表紙買いはありますよね。
もう一冊。
これこれ。寺山修司。「ことばを友人にしよう」。
表紙と人物イメージがあんまり一致しない感じで逆に気になりました。何を狙ってこの表紙なんでしょう。
三冊目。読んでないから省きます。
思想系の人で、フランス第x大学に留学してたら割と個人的に文章が好きなのではないかと言う推論を。読めてないけどな。忙しかったんじゃ。
太宰治も寺山修司も、高校の時に近代文学が専門だった先生に習ったのである程度は知ってました。専ら歴史秘話ヒストリア。
世間のイメージみたいなものの提示もあって、かつそうでない例の提示もあって、受け取り方は自由、みたいな先生だったのでありがたかったと思います。無駄にイメージがつかなかった。
そのおかげでと言うかなんというか、太宰に鬱々しいイメージついてるのがよく理解できてなかったんですよね。授業では『ヴィヨンの妻』『桜桃』を扱ったので。
読んでよくわかりました。これはあかん。
よく使われる表現に、「通奏低音のように○○が響いていて…」がありますけど、基本的にこの本通奏低音で構成されてますよね。メロディー不在ハーモニー不在。倍音構成はかろうじて変わる、みたいな。
感想書くふりして自分語りする輩が嫌いなのでそこらへんの言及は控えますけども。
後書きには、作者論的に、太宰の精神の自叙伝である、みたいなことが書いてありました。違うと感じたからわざわざ書くんですけど。
ここまでフィクションとして高度に構築されたものを、作者が自らを述べた自叙伝として読むには無理があるよなぁと。それだけです。
しかし、『こころ』並みに読まれるのはわかる気がします。一時期には中高生の麻疹のようなものとまで言われてたらしいですけど。そりゃ飲み込まれるわね。
この人の言葉のセンス、言葉に対するセンス、が好きなんですよね。内容云々ではなく。
物語言説から物語内容は生み出されるらしいですけど、このレベルまでセンスもった人だと、どんな現実を書いても魔法になる。
そんなレベルの人が選んだ箴言集だそうで。つい。気づいたらレジに。
箴言集と言うと、旧約聖書の箴言(コヘレトの言葉)だったり、超訳〇〇の言葉シリーズが思い浮かぶんですけど。もしくはロシュフコーとか。
個人的には、箴言集の類は、言葉を排して現実を暴き出すものと、言葉を弄して現実を覆い隠すものと、の二つに分けられると思っています。いました。どっちにしろ上から目線。
これどっちでもない気しますね。ただただ圧倒的脳内書庫から言葉を集めて、そこに意味を見出す(させる)、のような。むしろ箴言集かどうかを疑うべきか。
選語のセンスももちろん抜群で。短い言葉の中に、多く含みを持った言葉が並んでいます。これ、嫌いな人は嫌いだろうな。マザーグースに楽しみを見出す人は大好きそう。
「名言」などは所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨てていく、といった態のものであることを知るべきだろう。と、後書きにはあります。何かに固執しがち。