部屋で過ごす時、何かをしていても何をしていなくても、音楽をかけっぱなしにしていることが多いです。
FMラジオや自分でチェックした曲をランダムに流したりしています。
何気なく聞いているだけなのに、不意に歌詞が入ってくることがあります。
それが切ないものであれば、そのことがきっかけで自分の中にある寂しさや恋しさの感情を目覚めさせてしまうようです。
どうやら今夜はトヨを思う夜だったのかもしれません。
短いしっぽがかわいいね
怒っているような表情もかわいいね
普段の暮らしで、周囲の人とトヨの話をすることがあります。
私からわざわざトヨのことを話し出すということではなく、猫や動物が話題の際に、会話の流れの中で自然とトヨのことを引き合いに出しているという感じです。
自然と。
極めて自然に「トヨ」が口を衝いて出てくる。
トヨが死んだばかりの頃は、周囲の人たちとの会話でその名前を声にすることが憚られていました。
トヨを話題にすることで胸が苦しくなってしまうのではと恐れていたからです。
実際には、胸が締め付けられる程でもなく、ただ、自分の中の奥のほう(それが何かはわかりません)を、ぎゅっと掴まれる感覚がありました。
苦痛、疲労、悩み、疼き、そういったものが、他人と過ごす時には隠れていたはずなのに突如蠢くといった感じでしょうか。
小顔のとよちゃん
とてもかわいいね
トヨを思わない日はありません。
思い出はたくさんあります。
悲しいことも、楽しいことも、笑ったことも、泣いたことも、いろいろとあります。
トヨは私の一部であり、すべてです。
トヨと少しでも近づきたくて、トヨの気持ちを感じたくて、トヨのすべてを知りたくて、ただ傍に寄ることも、強く抱きしめることも、その目線を追うこともありました。
猫の一生は、人と比べるととても短いものです。
私自身は、毎日毎日を積み重ねる内に気がつけば今の年齢になっていました。
私にも幼い頃があり、学生時代があります。
社会人になってからのほうが既に長くなりました。
人との出会い、別れ、世の中の変遷、個人としても様々な出来事を体験し、そんな中でトヨと巡りあい、猫を知りました。
日溜まりでのお昼寝は気持ちいいね
トヨは、私の人生のある一時期を駆け抜けて行ったように感じます。
ある日突然現れ、共に歩み、そしていつの日からか私より先を走っていました。
手の届かない所へ行ってしまいました。
トヨは、おっとりとした、優しい猫でした。
コメント
コメント一覧 (4)
大変なエネルギーが必要だね
喪ったものの話を意識的に無意識的に言葉にすることが
そうかも知れない。
でも、私には合っている。
常に何かを考えている訳でもないんだけどね、何かが時々引っ掛かる。
日常の言葉や光景や会話の中で、欠片のように何かが引っ掛かっていて、それらがちょっとしたきっかけでわーーーっと押し寄せる。
んーー。
押し寄せる、ではない。
まとまる、かな。
まとめたい、かも。
母を見ていて感じていたことをトヨにも重ねて、言葉(文章)にすることで、私自身の現状というか、こういうことを私は考えているんだなと改めて気がつくこともあるし、まとまってくる。
「天国の月、おいらにはまだ見えない」
という歌詞が今回のきっかけ。
死をイメージした唄なのかどうかはわからないけど、死そのものよりも死に向かうときのことを私は心の何処かで常に考えているのかもね。
無意識に抱えている思いのひとつなんだろうな。
母にも若い時代があり、父にも若い時代があり、幼い娘を可愛がった。
その頃の母と父は幸せだったんだろうな。未来をどう思っていたのだろう。
妻に先立たれ、近しい人が年々居なくなる状況を父はどう感じているのだろう。
父もいずれ居なくなる。
姉も、私も、みんな。
此処があってよかったと思う。
私は書いて(書きながら)考える人だから。
会話ではこんなにまとめられない(笑)
トヨちゃんお空から見守ってくれているかな?
常にありがたい存在です。
いつもトヨのことを考えるたび、漂っているのだろうとは思います。