観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

マツダ・コスモスポーツ 後期型

2019-12-13 05:06:01 | 乗り物(鉄道:船:飛行機:バスなどなど)

 


1967年5月に国産車初のロータリーエンジン搭載車として発売。1972年(昭和47年)から1975年(昭和50年)までは一時期絶版車となっていたが、同年に復活。1990年(平成2年)からは同年から展開されたユーノスブランドのフラッグシップモデル、ユーノス・コスモとして登場し、1996年(平成8年)まで発売された。
モデルは全てクーペタイプのボディを持っていたが(3代目のみ4ドアセダンも設定)、その性質は世代によって大きく異なっていた。また、3代目以外は世代ごとに異なるサブネームをつけて発売されていた。

初代・コスモスポーツ(1967年 - 1972年)
マツダ・コスモスポーツ(初代)
前期型
製造国      日本
販売期間 1967年5月 - 1972年
設計統括 山本健一
デザイン 小林平治
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン 10A型982cc2ローター
駆動方式 FR
最高出力 110PS/7,000rpm(L10A)
128PS/7,000rpm(L10B)
最大トルク 13.3kgf·m/3,500rpm(L10A)
14.2kgf·m/5,000rpm(L10B)
変速機 4速MT(前期)/5速MT(後期)
サスペンション 前:ダブルウィッシュボーン
後:ドデオン・チューブ
全長 4,140mm(前期)
全幅 1,595mm
全高 1,165mm
ホイールベース 2,200/2,350mm(前期/後期)
車両重量 940kg(前期)
コスモスポーツは、1967年(昭和42年)5月に2シータークーペモデルとして発売された。同時に世界初の実用・量産ロータリーエンジンを搭載した自動車でもあった。

なお、世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確には旧NSUヴァンケル社が1964年(昭和39年)に発売したリアエンジン車のヴァンケルスパイダーである。これに搭載されたエンジンは、ロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであり、いわば「見切り発売」であった。またそれは、シングルローターのエンジンであった。これに対し、コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。このため10A型エンジンは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンである。また、10A型エンジンは、多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンであった。
ロータリーエンジンの特性は、それまで各種のロータリーピストンエンジン理論において証明されていた。しかし、100年以上の理論的蓄積にもかかわらずロータリーエンジンは量産されるには至っていなかった。このため、10A型エンジンの搭載車であるコスモスポーツは、ロータリーエンジンを量産車のエンジンとして最初に搭載した記念すべき存在といえる。
1968年(昭和43年)8月、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してニュルブルクリンクで行われた84時間耐久レース「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、ポルシェ、ランチア、BMW、SAAB、オペル、シムカ、ダットサンなどと激戦を展開した。結果は、完走を果たすのみならずポルシェ・ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)入賞となった。参加59台中、完走はわずか26台であった。
コスモスポーツに搭載された10A型エンジンは、それ以降ファミリアロータリークーペ、サバンナRX-3などに搭載された。10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総アルミニウム合金であった。コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)が鋳鉄に変更されている。コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼が溶射されており高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波焼入れ加工したものが採用され、量産化・低コスト化が図られている。また、加工法もコスモスポーツの砂型鋳造に対し金型鋳造とされ、大量生産された。
コスモスポーツは、前期型(L10A型)が1967年(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、1972年(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車まで累計1,176台が販売された。


プロトタイプ
1963年(昭和38年)10月26日から11月10日に開催された第10回全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)に、マツダロータリーエンジンとして、400cc×1ローター(35PS)と400cc×2ローター(70PS)の2種類の試作エンジンが出展され、併せて「ロータリーエンジン テスト用試作車(コスモスポーツのプロトタイプ)」の写真パネルも会場に掲示された。車両の展示はなかったが、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツの一次試作車「MAZDA 802 (L402A)」のステアリングを握り、遠路はるばる広島から自動車ショーの会場に乗りつけて話題をさらった。また、帰路には各販売会社、メインバンクの住友銀行、池田勇人首相などを訪問したというエピソードも残っている。なお、初めてコスモスポーツのプロトタイプが一般に公表されたのは、自動車ショーが開催される6日前の1963年10月20日付け朝日新聞紙上においてであり、これは朝日新聞のスクープであった。
ちなみに、一次試作車は少なくとも二種類存在し、「広 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年8月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行式の3ブレードで、クウォーターピラーのエンブレム取り付け位置は下寄り、カーラジオのアンテナの取付け位置はリアガラスとトランクリッドの間、横長のテールランプは中央に仕切りのある四灯タイプ、という仕様であった。「広 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年10月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールが有り、ワイパーは平行式の2ブレードで、クウォーターピラーのエンブレム取り付け位置はピラーの中央、カーラジオのアンテナの取付け位置は右リアフェンダー上部、横長のテールランプは中央に仕切りがなく外観上は二灯式に見えるものであった(内部に仕込まれていたランプの数は、32-85車に準じていたと思われる)。
この二台の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車ショーの駐車場に姿を現した。一次試作車は、自動車ショーが開催されるまでに5台製作されている。

翌1964年(昭和39年)の9月26日から10月9日に開催された第11回東京モーターショーに、初めて実車(プロトタイプ)が正式に出展された。出展時の名称は「MAZDA COSMO」であった。搭載されたエンジンは、399cc×2ローターのL8A型(70ps/6,000rpm)。ショー出展車は二次試作車で、一次試作車とはテール部分の意匠が大幅に異なり、量産車に近いものとなっていた。また、サイドウインドウに三角窓が追加され、ワイパーは2ブレードの対向式となり、外観上の特徴の一つであるフロントフェンダーのルーバーが、一次試作車の六つ穴メッキ物から細いスリットのメッキ物に変更されていた。二次試作車までは、ルーフの後部に左右のクォーターピラーまで覆う白いカバーが取付けられていたことも、外観上の大きな特徴であった。二次試作車は複数製作され、ワイパーが平行式2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴のホイールが装着されたもの、センターロック式のワイヤースポークホイールが装着されたもの、クォーターピラーの幅が狭いもの、カウルトップの通気口が一次試作車と同様に格子状のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状でないもの、ドアのアウターハンドルが長くドアパネルに窪みがないもの、フロントターンシグナルランプのレンズがアンバー色のものなど、様々な仕様が存在した。
1965年(昭和40年)10月29日から11月1日に開催された、第12回東京モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称はこの年も「MAZDA COSMO」であった。ショーの会場で配布されたパンフレットには「革命的なエンジンは(中略)ローター数2、単室容積500cc」と記載されていたことから、出展車には491cc×2の10A型エンジン(プロトタイプ)が搭載されていたと考えられる。三次試作車と思われる出展車は、白いルーフカバーが省略されルーフ全面とクォーターピラーが白塗装となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠が少々変更されていた。また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接スリットをプレス成型した簡素なものとなっていた。これは、部品点数と製造ラインでの工数を削減しコストを下げるための設計変更と思われるが、結果的にフロントフェンダーの意匠がFerrari 400SAに酷似してしまったことが悔やまれる。この時の展示車は最終生産型と発表され、全国各地のマツダディーラーに委託して実用化テストを行う事が公表された(その際、詳細を公表せず)。「社外委託試験車」と名付けられた試作車は、車体各部の特徴から三次試作車の「MAZDA COSMO」或いは三次試作車の改良型だったと推察される。社外委託試験は当初、1965年(昭和40年)8月から開始され、貸与される試験車の数は30台の予定であった。
1966年(昭和41年)10月26日から11月8日に開催された、第13回全日本自動車ショーにも続けてコスモスポーツのプロトタイプが出展された。出展車の名称は「MAZDA COSMO SPORTS」だった(市販モデルの名称は「MAZDA COSMO SPORT」)。実用化テストに基づき更なる改良が加えられ、1967年(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた。
市販までに、社外委託試験は各地のディーラーに貸与された「MAZDA COSMO」47台により、1966年(昭和41年)1月から12月まで1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。

前期型
コスモスポーツの前期型L10Aには、10A型ロータリーエンジン(491 cc ×2)が搭載された。9.4の高圧縮比とツインプラグによって110 PS /7,000 rpm、13.3 kgf·m /3,500 rpm を発揮した。車重は940kgと比較的軽量であった。
エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったフロントエンジン・リアドライブであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。サスペンションは、フロントがダブルウィッシュボーン+コイルスプリングの独立懸架、リアは独立懸架こそ断念されたが、バネ下重量の軽減を図り、ド・ディオンアクスルをリーフスプリングで吊る形式が採用された。ステアリングギアにはクイックなラック・アンド・ピニオン形式を採用している。トランスミッションは4速フルシンクロで、ブレーキは前輪がダンロップ型ディスク、後輪はアルフィン・ドラムであった。なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。

ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダのアイデンティティーともなるフロント・ミッドシップの発想が既に生かされていた。重量物であるバッテリーは、前期型ではトランクに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。

ボディ
ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミモノコック方式であった。ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前ヒンジ(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。開発当初、当時の社長である松田恒次から「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。
全高は1,165 mm と低かった。「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナー小林平治の意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・オーバーハング、ボディー中央を走るプレスラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。ボンネットの低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。また、バンパーを境に上下に分けたテールランプも特徴的である。ただし、全長に比してリアオーバーハングが大きいスタイルのため、運動性の面では不利なものとなり、「スポーツ」の名とは裏腹に、むしろグランドツーリングカーとしての性格が強くなった。

内装
フルパッドのダッシュボードに組み合わされるアルミニウムのインパネは艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連メーター(左から時計、燃料計、電流計、速度計、回転計、油温計、水温計の順)が整然と並ぶ。内装は天井も含めて黒のビニールレザーのフルトリムとされ、通気性を考慮し、シート中央のみ白黒の千鳥格子柄のウールを使用している。前期型のL10Aは法制化前のため、ヘッドレストが無い。
前後に調節可能(テレスコピック)な3本スポークのウッドステアリングホイール(一部、1970年 - 1971年式:ナルディ社製Φ380)が標準となっている。床敷物は真っ赤な絨毯で、シフトノブは自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすこと無く操作できるショートストロークとなっている。クラリオン製オートラジオ、トグルスイッチを上下に作動させるタイプのセミオート・アンテナ、メーター照度調節、ホーン音質切替え(市街地用、高速用)、2スピードワイパー(払拭中にスイッチを切っても停止位置に復帰するタイプ。高速時の浮き上がりを防止するフィン付き)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・グローブボックス・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。
ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトも装備されていた。リアガラスは非常に曲率の大きなものが用いられ、室内の開放感を高めた。RX-8、および歴代RX-7のリアガラスは、このオマージュとされる。助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元にはフットレスト、グローブボックス脇にはアシストグリップも装備された。
内装のデザインは、相馬亮一をチーフとする内装チームが担当した。

販売価格
価格は148万円で、同時期の趣味性の高い車種で比較すると、いすゞ・117クーペの172万円ほどではないが、ダットサン・フェアレディ2000の88万円、日産プリンス・スカイライン2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価であった。

走行性能
ロータリーエンジンの走りは、レシプロエンジンとはまさに異次元の感覚をもたらした。当時、ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は4,000 rpmを過ぎたあたりから騒音と振動が大きくなり、100 km/h を超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならないこともままあった。しかし、ロータリーエンジンはレッドゾーンの7,000 rpmまで静粛かつスムーズに吹けあがった。
カーグラフィック誌によるマツダ製ロータリーエンジン車の燃費テスト結果。
コスモスポーツ (L10A):8.3 km/L(試験距離:公道998 km、サーキット108 km、1967年9月号)
カペラロータリークーペGS:7.07 km/L(試験距離:4,300.6 km、1970年10月号)
サバンナRX-7リミテッド (SA22C):7.68 km/L(試験距離:1,555 km、1978年6月号)
サバンナRX-7 GT-X (FC3S):5.0 km/L(試験距離:1,007 km、1985年12月号)
アンフィニRX-7 type R (FD3S):5.2 km/L(試験距離:970 km、1992年2月号)
各年代の道路事情やテスト条件の相違などから一概に結論付けられないが、以上の車の中では、燃費性能でトップの値を記録している。

後期型
1968年(昭和43年)7月には早くもマイナーチェンジ(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、ラジエーターエアインテークの拡大、ブレーキ冷却口の新設、ホイールベース・トレッドの拡大、トランスミッションの5速化、前後ブレーキへのハイドロマスター(倍力装置)が装着された。ラジアルタイヤ標準化(155HR15)、ポートタイミングの変更にともなう吸入効率向上によるパワーアップ(110 PS /13.3 kgf·m → 128 PS /14.2 kgf·m)等を施された。この結果、最高速は185 km/h → 200 km/h、0-400 m 加速も16.3秒 → 15.8秒となった。
マイナーチェンジによって、当時としては高級品であったヂーゼル機器製のカークーラーがオプションで装着可能となった。このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、スナッチが発生しにくいロータリーはTOPギアで低速走行が可能であったため、当時の取扱説明書では「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびO・Tにし、エンジン回転1,500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。」と注意を促している。
また室内のウォッシャー・ワイパー・ディマー・ターンシグナルの4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。3点式シートベルト、調整可能なヘッドレストも後期型より装備された。パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備された。
この後期型(L10B)の価格は158万円であった。なお、車両型式名はL10Bとなり、エンジンの排気量は変わらず型式も10A型のままであったが、ポートやキャブレター、マフラーなどの仕様が数回変更された。


コスモスポーツの発売に合わせ、東洋工業は、1967年6月1日の新聞各紙に「世界の注目をあつめてロータリーエンジン搭載車いよいよ登場!」と題する全面広告を出した。その広告は全面であることを生かし、市販量産車としては世界初のエンジンであること、耐久性、革新性、スムーズさ、スタイリング、保証制度、装備、発表会の告知等を訴えるものであった。その翌日の6月2日、今度はトヨタ自動車が2000GTの全面広告を出しており、当時のトヨタのマツダ・ロータリーに対する対抗意識が垣間見える。
その後、6月6日から11日にかけて、東京都中央区日本橋の高島屋で、コスモスポーツ発表会が開催された。コスモスポーツ1号車が出品され、展示会・撮影会・試乗会といった内容であった。
松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助は松田恒次と親交があり、ロータリーエンジンを評価して、コスモスポーツの顧客第一号となった。
翌1967年(昭和42年)には、調布 - 八王子間が開通した中央自動車道に、高速パトロールカーとして警視庁第八方面交通機動隊に配備された。

1971年 (昭和46年)の特撮テレビ番組『帰ってきたウルトラマン』にて、防衛チームMATの専用車両「マットビハイクル」として後期型が登場している。その未来的なフォルムを生かして、大きな改造は無くほぼ量産車そのままの外観で使用されている。また、同作のオマージュ要素が強い「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」にもNERV官用車として登場している。
また俳優・歌手の京本政樹がこのコスモスポーツを愛車としており、俳優の千葉真一も当初、愛車としていた。


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