皆さん こんばんは! 不妊相談ひとすじ25年 宮崎市の漢方相談薬局・漢方の麗明堂、一般社団法人認定の子宝カウンセラー 薬剤師の金丸です。
今朝は、車の温度計で外気温が3℃と表示されてびっくりしました。皆さん、風邪をひかないようどうぞ気をつけてくださいませ。
麗明堂のお便りのまごころ通信を書かせていただくときに、「本当のまごころ」とは何だろう・・・と私自身が思っていたちょうどその時に、今回の斎藤さんの記事を拝見して、とても心に沁みました。
今日は、第2話です。どうぞ最後までご覧くださいませ。
宮崎県国富町教育相談員
斎藤正健さん
昭和18年宮崎県生まれ。宮崎大学を卒業後、県内の小学校に勤務。教頭、校長を歴任し、現在は国富町教育相談員。不登校児の学校復帰に向けた支援を行う適応指導教室で、今も子供と触れ合う。
どうかお守りください
そこでの発表をきっかけに、戦前から人知れず続いていた健康被害が明らかとなり、全国的なニュースとなりました。各地から医師や科学者、弁護士など、様々な支援者が土呂久の谷へやってきます。
救済の手は広がったものの、土呂久の現実が公(おおやけ)になることに、複雑な思いを抱く住民も少なくありませんでした。『農産物が売れなくなる』『嫁が来なくなる』。風評被害を恐れたのです。度重なる調査や検査も、住民の負担になっていたのでしょう。ある家のお祖母ちゃんは精密検査に向かう途中で倒れ、そのままなくなりました。漬物をいただくなど、優しい、優しいお祖母ちゃんでした。
もし私があんな発表をしなかったら、調査も検査もやらずにすんだだろう。お祖母ちゃんが亡くなったのは、自分のせいだ…。そう思うと夜も眠れません。
「数年で転勤する先生に、何が分かる!」
そんな声も聞こえてきました。あったかい宮崎でも、山深い土呂久の冬は寒さが厳しく、凍り付きます。深夜の調査を終え、帰る途中に涙があふれだし、バイクから降りて、冷え切った土呂久谷を見下ろしながら祈りました。
「私が倒れたら、土呂久のみんなは救われません。神様、どうかわたしをお守りください」
集落の人の心の中には、何十年もの間、誰にも分ってもらえなかった怒り、苦しみ、悲しみが溜まっていました。その肉声を聞きテープに録り続けた私には、土呂久の人たちの心の叫びが痛いほど伝わってくるのです。すぉの不自由な体を周囲からさげすまれ、人間不信で閉じこもっていた佐藤アヤさん。私は会うのを断わられれば断られるほど、アヤさんが不憫に思われてなりません。拒まれて帰るとき、アヤさんが寝ている奥の部屋まで聞こえるように言いました。
「あなたの病気は恥ではない!あきらめないで自分の苦しさ、願いをみんなに訴えてほしい。私も頑張るから!」
あきらめ気分で三度目に訪問した時でした。
「アヤが先生に会いたいそうです」
兄の建蔵さんの思いがけない言葉に驚いていると、奥からアヤさんが這って出てきました。そして、目に涙をいっぱい浮かべながら、こう言われるのです。
「もう私とほかの人とは別の世界に住む人間。そう思って、誰とも会いたくなかったのです」
アヤさんが心を開いてくれた瞬間でした。たまらず私はそばにすり寄り、その手を握りしめました。冷たい、やせ細った手でした。その日から、アヤさんは手に筆をくくりつけ、便せん何十枚という手記を、時に短歌を織り交ぜながら書き続けてくれました。その年の昭和48年2月に、国は土呂久の慢性ヒ素中毒症を公害病に定めます。水俣病、イタイイタイ病などに続く、国内第4番目の公害認定病でした。
私が今日評したあの日から半世紀が経ち、再び豊かな自然が戻ってきました。しかし、人口は当時の4分の1ほどに減り、歴史を伝える施設もありません。公害に奪われた人生を懸命に生き切った人々の記憶を次世代へか足りる具と共に、自然のありがたさと命の尊さを教えてくれる土呂久を過疎化から守ること。それが今の私の務めではないかと思っています。
≪続きは、また次回に…≫
心の生涯学習誌『れいろう11月号』より
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