白山巡りに行ってきた(6) | マキオカのネイチャーな日々

マキオカのネイチャーな日々

山梨県の牧丘に手作りの2区画だけのキャンプ場を作りました。

広い空には満天の星。
ティピィの煙突からはバーベキューのけむりと笑い声。
ハイジのブランコは空まで届きそう。

いるだけで気持ちが和んでいく。そんな不思議なキャンプ場から贈ります。

こんにちは。今日も楽しいマキオカです。

石徹白(いとしろ)の大師堂で上村十二人衆の子孫達に代々守られた虚空蔵菩薩像を拝観した後、藤原秀衡公が寄進奉納した元の場所であったという白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)に向かう。

大師堂、白山中居神社のある石徹白は、白山頂上と長滝寺との中間地点にあり、白山信仰が隆盛の時代には「白い神の郷」と呼ばれ、古くは天領として栄えたという。
藩政時代には神に仕える村として、いずれの藩にも属さず、名字帯刀を許された一種独特な村だったらしい。

白山中居神社と大師堂は2キロほどしか離れていないので、あっという間に到着。
鳥居の向こうには巨杉の森があり、石段を下りるとすぐ右手に澄んだ水をたたえた神池が広がっている。

白山中居神社 鳥居 (1)

                           白山中居神社 池

白山中居神社 鳥居後ろ


大杉木立の中の参道は一旦宮川に向かって下り対岸に向かって登ると、落ち着いた雰囲氣の境内に着いた。

菊理媛大神を祀る大宮殿、須賀・地造神社があり、石垣の上には本殿が建立されている。
周囲には大杉が社殿を取り囲むように林立し、背面はブナ原生林が広がっている。

本殿の創設は、景行天皇12年(83)に、「白山の真南で宮川の上流、長龍滝と短龍滝の間で朝日が直射し、夕日輝く処に、伊弉諾尊を祀り給え」とのご神託のあったのが始まりだとか。

それはそうと。

白山の名は、先の藤原秀衡公の逸話はもとより、歴史上に度々登場する。

平安時代の女流作家、清少納言の代表作「枕草子」には、『(白山の雪は一年中消えないとされていたので)白山の観音様に庭に作った雪山が消えないようにと祈った』という話がある。
また、日本に来たイエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』に、織田信長が「予は白山権現の名において汝に誓う」と言った一文があるという。

※閑話休題
寺を焼き討ちするなど、宗教に冷たいと思われがちな織田信長だが、劔神社の神官を務めた忌部氏(斎部、いんべ)が先祖であったという説がある。
祖先を藤原氏や平氏に結びつけて名家の出であると唱い、家系図を粉飾してきたとも言われる織田信長。
出自をカッコよく言い繕うのは、今の時代でもアルアルですな。
もし越前織田庄で1800年の歴史を持つ劔神社(つるぎじんじゃ、延喜式内社の織田神社)が織田信長の先祖だったとしたら、信長にとっての神とは白山権現であったのかもしれない。

※Kさんからの追加情報
「織田信長は、越前二宮の織田剣神社の社家、忌部の系統の織田家の子孫です。 白山の鶴来は織田家は関係ないです。
剣は神仏習合時代の護法の剣に由来するのでしょう。」とのこと。
打てば響くように即座にこんな情報をくださるKさん。
毒舌家だけどありがたーい先生です。

それはともかく。

かつて隆盛を誇ったであろうこの神社は、コロナの影響もあってか訪れる人もまばらだ。
古に思いを馳せていると、Kさんが本殿の前でご祈祷を始めた。
Kさんが祝詞を奏上している傍らで、わたしとふんどし息子も一緒に参加させて頂く。
すると、ご祈祷が終わったぴったりのタイミングで、12時の合図の鐘が鳴り響いた。

おおー、これは凄い。
こんなにも待ち構えていたように鐘が鳴り響くなんてこと、ある?
偶然か必然か。

感心しているとKさんは「えー?大事なご神事ってこういうもんだよ。こういう経験、ないの?」と、得意げに仰る。
「ぐぬう・・」
感心しながらもちょっとムッとするわたし。

い、いいんだもん。
ど素人のわたしでも、なんとなーく「あ、ちゃんと神様に届いた」って思える時があるんだから。
そんなスゴイ合図貰わなくたって大丈夫なんだからね!
そう自分に言い聞かせていると。

大宮殿の方から「神社の方がお話してくださるそうです」と声を掛けられた。
神社の関係者の方が鍵を開けて下さり、古いながらも綺麗に整えられ手入れされた広い畳敷きの大宮殿に上がらせて頂くことができた。


                      白山中居神社 拝殿

ふと見ると、奥の方に天井に吊るされた巨大な書が。
これは何?

案内して下さった方が「畳の上に大の字に寝転ぶと分かりますよ」と教えて下さったので、遠慮なく横になり天井を見上げると立派な「白山」という文字。

                        天井絵 (1)
                       (これ、天井です)

おおー、カッコいい!!
きっと名のある方の書に違いない。

いろいろお話を伺いながらお札をお受けすることができた。
ありがたや。

そこから車を走らせ阿弥陀ヶ滝へ。
駐車場からしばらく歩くと、霊峰白山の峰を源とする落差約60メートルの大滝が姿を現した。

                     阿弥陀滝

緑樹の間から、瀑音を響かせ落ちるさまは、豪快かつ不思議な静謐を感じさせる。
「日本の滝100選」にも選ばれているこの滝は、奈良時代はじめ、霊峰白山を開いた泰澄が女神のお告げによって、この霊泉を長滝と名づけ、霊場の1つとしたんだそう。
その後、白山中宮長滝寺の僧道雅が、この滝壺で護摩修行したところ、忽然と阿弥陀如来が現れたことから『阿弥陀ヶ滝』と呼ぶようになったという。
江戸時代後期には、葛飾北斎が諸国滝廻り八図の中で、木曽路の奥阿弥陀ヶ滝と題して描いている。

感激したのか、ふんどし息子は早速滝に向かって、携えてきた法螺貝を吹く。

                           阿弥陀滝 法螺貝

それに合わせるように岩笛を吹くOさん。

美しさと激しさが共存した瀑布は、神秘的な雰囲氣を醸し出しながら、法螺貝と岩笛の音を包み込んでいく。
あまりに気持ちよかったのか、Oさんが岩笛を吹き終わっても、ふんどし息子は法螺貝を口から離さない。

滝の北側には洞窟があり、石が積み上げられ何体ものお地蔵様がおわすが、そこでも吹く。
やたらに吹く。
しつこく吹く。

                  法螺貝吹くれい (1)


袴を身に着け法螺貝を吹いているふんどし息子を、他の観光客の方達は遠巻きに見ていたが、そのうち「取りあえず関わらんとこ」といった様子でお帰りになっていく。
堪りかねたわたしが「もういい加減法螺貝を吹くのはやめなよ。ほかの観光客の方々もいらっしゃるんだから」と止めた。
が、母の親切な忠告を無視し、頑固に法螺貝を吹き続けるふんどし息子。

滝から駐車場に向かう道でもまだ吹き続けているふんどし息子にイライラしつつ、皆に聞こえないように「だーかーらっ!迷惑になるからやめろっつってんの!!」と、押し殺した声で注意する。
すると「うるせえな。別にいいじゃないかっ!」という反抗的な返事。

「よくないっ!自分達だけがいるわけじゃないんだからね。ほら、他の観光客の人達、帰っちゃったじゃん!」
「法螺貝のせいとは限らないじゃないか!オレは吹きたいんだ!!」

ぬおぉぉー、ゆ、許せん。
空氣も読まずに屁理屈ばっかり抜かしおって!
いつものように、二節三節だったら文句を言いはせんわ。
わざわざ言うってのは、よっぽどのことだとわからんのか!
人の迷惑も顧みずぷーぷーぷーぷー吹き散らしてからにっ!!

駐車場に着き車に乗り込むが、車中はグループの方も一緒だ。
人前で罵り合うわけにもいかず、黙り込むわたし達。
険悪な空氣が流れる。

そんないがみ合いが昼食のお店に入るまで続く。
               
                 アユの塩焼き

鮎の塩焼きと味噌カツ定食をたらふく食べお腹がいっぱいになると、あーら不思議。
あんなに腹を立てていたのがウソのように雲散霧消している。
どうやらふんどし息子も同様らしい。

「わたし達って仲良しスピ親子というより単純バカ親子なのね」と改めて思い知ったのでした。

つづく