毎日積み重ねる『自分づくりの授業』
本日のテーマ

『「覚える」と「理解する」は違う

~本当の学びとは何か~』

 

 

以前に読売新聞のコラムで、芭蕉とシェークスピアの意外な面が紹介されていました。
どうやらこの二人は知識人ではなかったようなのです。

 

芭蕉の自筆本には誤字、誤記が多く、当時の知識人の姿とはかけ離れていたといいます。
(白百合女子大名誉教授の田中善信氏の『芭蕉の学力』より)

 

また、シェークスピア、一般には、没落名家の息子で、18歳で26歳の女性と結婚、それほど高等教育を受けていない英国人だとされている。
(2014年4月に鮎川信夫賞を受賞した詩人の高橋睦郎氏より)

 

とかく学歴が高いと、優秀な人のように思えてしまいます。

しかし、優秀な芭蕉もシェークスピアは学歴がなかったのです。

この二人の例は、学歴だけが人の能力を決めるのではないことがよくわかります……。

 

 

今の世の中では、高学歴なのに? 

と首を傾げてしまう言動をする人がいます。

高学歴を誇っている人が、
 マナーが悪い…
 常識に欠ける…
 自分勝手な振る舞いをする…

などなど人間性を疑いたくなるよう人がいます。

 

そんな時、

「学問とはいったいなんなのか? 知識を記憶しているだけ?」

と思えてなりません。


(学歴だけでは人格を形成することはできない)

 

ただ記憶するだけの詰め込み教育では社会に出ても学んだことを役に立てることは難しいでしょう。
また、学ぶ側も、覚えたら(記憶)、それで学んだように錯覚してしまっているのかもしれません。

ココで肝心なことは「覚える」ことと「理解する」は違うということです。

 

「人は何故、学ぶのでしょう?」
わたしはこのよう考えます。

「人生を充実させ、人格を向上させために、もの事を知り、よくもの事を考え、よりよいもの事を選択するため…」

 

だから、学ぶことは知識を覚えることではなく、知識を活かすために理解することだと思うのです。

 

「知識を得た」ということには三通りがあると思います。
覚える
記憶にとどめて忘れないことで、その知識をどのような意味で、どのように使うかまでの応用をきかせることができない段階です。

 

わかる
はっきりしなかった物事が明らかになることで、これもまだ、どのような意味で、どのように使うかまでの応用をきかせることができない段階です。

 

理解する
筋をときほぐすことで、物事のしくみや状況、また、その意味するところなどをわかること、納得することであり、得た知識を自分のために活かすことができる段階です。

 

わたしは人にもの事を教える時に心がけていることは、
「教える」

ではなく、
「理解させる」

ようにしています。

 

理解させるとは、理由や意義を教えることです。
そのことを“あいさつを教える”ことに例えてみましょう。

 

「あいさつの仕方」
を教えるのではなく、
「あいさつは何故するのか? するとどうなるか? しないとどうなるか? という“あいさつの意義”」
を教えます。

 

これが理解させるための教育だと思うのです。

 

知っていることを相手に単に教えることは誰にでもできます。
でも、覚えさせることは少し難しくなります。
でも、わからせることはそれよりも難しくなります。
でも、理解させることはもっと難しくなります。


誰かに何かを教える時に、覚えてもらうのではなく、理解してもらいたいです。
相手に教えたいことを理解させることは、簡単なことではありません。
理解させるとは、理由や意義を教えることだからです。


現代教育では、意義を教える教育から遠ざかり、覚えさせる教育をしているような気がするのです。
「教育」とは、「教えて育てる」こと、覚えさせただけでは人は育ちません。
そこには理解させることが必要なのではないでしょうか……。