「この関わり方は、正しいの?」
って時々聞かれるんやけど、これは僕には判断つかないんだよね。
「子育てには正解がない」
なんてよく言われるけど、これってつまり、
「自分がやりたいようにやるしかない」
ってことなんやと思うんよな。
その中には、
「人の意見を採用して、その通りにやる」
ってのもある。
子どもが親の思ってる通りに育っていくのかは、その関わり方をやってみやんと分からん。
しかも、親の思ってる通りに育てていくのって、めっちゃむずくって。
自分が、自分の理想通りに生きてきたなら、
「自分と同じようになってほしい」
って思うやんか。
自分が、自分の期待外れに生きてきたなら、
「自分と同じようにはならないでほしい」
って思うやんか。
どちらの想いを持って子どもに関わっても、
「〜してほしい」
「〜させる」
「〜すべき」
みたいな子どもに何か強制する気持ちが出てくる。
子どもも最初は主体性持ってるから、反発するのよ。
いわゆる、イヤイヤ期とか、反抗期ってやつやけど、あれは子どもの反発の前に、親からの強制力(=子どもが納得する前に動かそうとする、変えようとする力)が働いてる。
「子どもは反発することで、自我を保つ」
なんて言うけど、子どもが反発して勝ち得た道は、親が望んでた道でも、子どもが望んでいた道でもない。
言わば妥協の道。
誰かがその道を行きたかったわけでもない。
ある物体に、違う方向に2種類の力をかければ、結局、かかる力はその間の方向になる。
力学で言う「力の合成」とか、数学で言う「ベクトルの合成」の考え方やね。
親が子どもに期待して、
「子どもには、こうなってほしい」
「子どもには、こうならないでほしい」
って思っても、そのどちらでも、子どもは親に反発しながら生きていくから、少しずつ自分が行きたかった道からは外れていく。
だから、僕は、
「親がどう育てたいか?」
よりも、
「子どもをどう育てるのが正解か?」
よりも、
「子どもはどうしたいのか?」
に寄り添う関わり方をしたいな、と思う。
親が行きたかった道でもなく、親が行きたくなかった道でもなく、他の人が指し示してくれた道でもない。
「子どもが行きたい道」
にいけるようにサポートしてやる。
子どもに、
「あんたは、どうしたいんや??」
って問いたい。
昔、家庭教師をしてたことあるんやけど、子どもに何か教える前に、
「今日は何をしたい??」
って毎回聞いてた。
最初は、明確な答えが返ってこなかったんやけど、そのうち、明確に答えてくれるようになってきた。
そしたら、自分で答えたことやから、けっこう楽しげに自分から勉強してくれてた。
まぁ、すぐ後ろに親がおったから、その圧力もあったかもしれんけどね笑
子どもの行きたい道に寄り添ってみると、子どもの力強さは増していく気がする。
親の期待に応えるような生き方してると、肩肘に力が入って、ガッチガチのコチコチで生きてしまう。
とっても生きづらい。
こないだBASEメルマガでHSPの話を書いたんやけど、生きづらさには結局、自分がHSPであるかどうかはあんまり関係ない。
親の期待に応えるような生き方をすれば、HSPであってもなくても生きづらいし、
自分の行きたい道に進んでいけてたら、HSPであってもなくても人生楽しめる。
HSPの話は、BASEメルマガのバックナンバーで読めるから、良かったら読んでみてね。
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ここまで書いてきたことをまとめると、結局、
「この関わり方で合ってるかどうか」
ってのは、
「子どもが行きたい道に行けてるんか?」
ってことに尽きるんとちゃうかな。
「親が、子どもが行きたい道に行かせる」
わけじゃなくて、
「子どもが、自分が行きたい道に行くのを親が邪魔しない」
ってことの方が圧倒的に大事。
親がサポートできなくても、子どもが行きたい道なら、子どもが何とかする。
ピアニストのふくしひとみさん(Twitterで見てて大好き)は、子どもの頃にピアノを買ってもらえなかったから、近くの公民館に行って弾いてたそうな。
やりたいことは、親が邪魔さえしなければ、子どもでも何とかしようとする。
やから、
「子どもが行きたい道に行く」
ってのの本質は、
「親が支援する」
じゃなくて、
「親が邪魔しない」
の方やろなと思う。
そのために、親の
「こうしてほしい」
「こうしてほしくない」
をどこまで手放せるかが大事なんかなとおもう。