江戸城天守 復元模型 [城]
皇居東御苑の本丸で、江戸城の天守閣の復元模型を展示する、というニュースを拝見して、これはぜひ行きたいと思った。
お恥ずかしながら、東京に来てから皇居に行った経験が1度もないのだ。
皇居も訪れてみたいと思っていたので、楽しみにしながら先週の日曜日に行ってきた。
江戸城の天守閣については、以前日記にしたが、子供の頃から江戸城の天守閣って見たことがないし、記憶にもない。誰もがそうではないだろうか。お城の天守閣と言ったら、大阪城や姫路城、名古屋城、松本城、熊本城とか思いつくところ、代表的なところはそこら辺の天守閣を思い浮かべると思うのだが、不思議と天下のお江戸、東京の江戸城に天守閣ってあったっけ?という感じだろうと思う。
自分も前回の日記にするまでまったく知らなかった。
日本史大好きなのに。(笑)
日本史大好きなのに。(笑)
その前にお城の天守閣について、お勉強してみることにする。
NPO法人江戸城天守を再建する会のTwitterで紹介されていたYouTubeで大変参考になる映像素材を見つけたので、紹介したいと思う。
「天守閣の歴史について」
講師:三浦正幸広島大学教授
三浦先生の説明は、とてもわかりやすく、大変参考になります。
ぜひ見てみてください。ものすごく面白いです。
お城マニアの方には堪らないと思います。
ぜひ見てみてください。ものすごく面白いです。
お城マニアの方には堪らないと思います。
ちょっと内容をかいつまんで説明してみると、
最初にお城の天守閣というのを作ったのは織田信長だそうだ。信長は天守ではなく、天主と呼んでいた。天の主、まさに信長らしいが、信長以降、城を造った大名達は”天守”と呼んだ。彼等は宗教上のある種のおそれから、天主と呼ぶのをためらったのかもしれない。
織田信長が最初に天主を作った。永禄12年(1569年)京都の二条城に作った天主が日本で初めて作った天主であろうと考えられている。(4階4重だった。)
この当時はいまの二条城とは違った位置にあった。室町幕府15代将軍足利義昭のために作った天主。それ以来、天主というのは天下人の象徴と位置付けられた。
織田信長の安土城。
本当はもっと綺麗な図なのだけれど、パワポに圧縮して張り付けると、屋根にもわれ縞ができてしまっているが本当はすごい綺麗な復元図。天正四年に作り始めて天正七年(1579年)に完成。
自分は、お城の中で、この安土城が一番大好き。
なんか日本のお城っぽくない。南蛮の国や唐の国の風情がある。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。
それが和様と混ざったようなまさに独創的。
やっぱり信長らしいお城だと思ってしまう。
安土城が、日本の他の名城の外観と比較して、あまりにその外観が奇異と感じるのは、ずばり5階の朱色(赤)の八角形の円堂の外観のところなのだと確信している。 城全体の外観のバランスを観たとき、この赤い八角円堂の部分が、思いっきりインパクトが強くて、我々への印象度を強くしている。
自分が子供心に、思いっきり衝撃を受けたのも、この5階の赤い八角円堂の部分だった。
天の主という意味の天主は、まさに信長の天下を象徴するものであった。
屋根が五重。地上六階、地下二階。このとき初めて屋根を五重にしたことから、天下人の天主(天守)は屋根が五重の天主(天守)というのが正規の形になった。
五重より少ない四重、三重という天守が部下たちの天守になった。
信長の天主の壁は”黒漆塗り”だった。非常に豪華だったのである。
城の上に鯱(しゃちほこ)を最初に乗せたのが、信長の安土城が最初だったようである。それ以降、日本の天守にはすべて城の上に鯱(しゃちほこ)が載るようになったそうである。
豊臣秀吉の大坂城
信長の跡を継いで、天下人の象徴という意味で建てた。
天下人の象徴なので、五重の天守で、地下六階。地下二階であった。
城の壁は黒漆塗りで、そこに木を彫った彫刻になっていて、そこに金箔を塗り込んだ。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻がひしめいていて、城の外側としては日本で一番派手な天守だった。
さすがに天下人の天守だけある。
自分は、今回このYouTubeを見て初めて、この大坂城の復元図を拝見して、秀吉の大坂城というのはじつは黒い城だったのだ、という事実を知った。
結構ショックでした。(笑)
いまの大阪にある白壁の大阪城とは似ても似つかわぬまったく別物のお城だったんですね。黒漆塗りの壁に金箔の彫刻。。。この秀吉の大坂城を見て、いかにも派手好きの秀吉らしいと思いました。まさに日本歴史上でもっとも絢爛豪華な派手なお城だったのである。
秀吉は部下たちにどんどん天守を建てることを勧めたのだが、徳川家康だけはどうしても天守を建てなかった。
家康は非常に聡明な人だった。
なぜかというと、天守というのは、天下人の象徴。そうすると大坂城の天守が日本で一番大きくて立派である。もし家康が江戸に天守を建てたとすると、秀吉の大坂城天守を超えることはできない。
もし秀吉の大坂城より少し小さい天守を建てたとすれば、秀吉の政権の中で秀吉の下にいるということを天下に示してしまうことになってしまう。
それでは天守という意味がまったくない。したがって家康は自分が天下を取るまで、天守を建てなかったのである。
徳川時代の江戸城
家康が天下人になったので、もちろん五重の天守。
壁が全部白壁であった。
屋根は鉛瓦。鉛は錆びてくると真っ白になってくる。真っ白な屋根に白壁で、この江戸城はまるで、”雪をかぶった雪山のようだ”、と言われていた。江戸城は真っ白な城だったのである。
江戸城の天守閣は、
慶長天守(家康)(1607年に完成)→ その後解体
元和天守(秀忠)(1623年に完成)→ その後解体
寛永天守(家光)(1638年に完成)→ 1657年に焼失
元和天守(秀忠)(1623年に完成)→ その後解体
寛永天守(家光)(1638年に完成)→ 1657年に焼失
が存在した。
上の図の左から慶長天守(家康)→元和天守(秀忠)→寛永天守(家光)である。
なんで3代に渡って、天守閣を解体しては再建築したのかは、一言で言うと、子供は偉大な親の影響を排除して自分の存在を強調したい、親を超えたかった、ということらしい。
初代将軍家康の慶長天守より2代将軍秀忠の元和天守が大きく、3代将軍家光の寛永天守は、元和天守とまったく同じ寸法で、意匠が多少違うというところの差だけだそうである。
江戸城天守閣の特徴は、日本の歴史上もっとも大きい天守閣だったということであろう。そして、3代家光のときの寛永天守が日本最大規模の天守閣となった。
ところが明暦の大火で、江戸の街の多くは焼失し、江戸城も天守閣をはじめ、多くが焼失した。その後本丸御殿は再建されたのだけれど、天守閣を再建するのは、費用もかかることから、見送られた。(天守台は再建された。)正確には江戸城天守閣再建を諦めたのではなく、”永引”という言葉で、永く見送られた、という意味で、いつかは再建される可能性の意味合いを残した、というニュアンスだそうである。
戦国の時代は平定され、江戸時代は平和だったから、天守閣はもうなくてもよかったんですね。
だから3代将軍家光以降のときから、すでに江戸城には天守閣は存在しなくて、ずっとその後いまに至る訳だから、自分が子供の頃から江戸城に天守閣の存在の記憶がまったくなかったのは当然のことなんですね。日本の誰もがそうだと思います。
この3代家光のときの寛永天守の時代の建築資料が詳しく大量に現在にも保存されていることから、”江戸城天守を再建する会”というNPO法人が設立されて、この寛永天守の時代の天守閣をいまの令和の時代に再建しようという動きがあるみたいである。
このコロナ禍のこのご時世に天守閣などの再建に予算を回したりしたら、それこそ世間中の大批判を浴びそうですが(笑)自分は夢があっていいな、と思いますね。公金に頼らず、民間の力、クラウドファウンディングなどで夢をつなぐ感じで進めているようである。
いまの皇居、江戸城に天守閣があったら、それこそ日本の城権力図はガラリと変わるような気がします。やはりいまは大阪城が天下人の城で1番権威があるような気がするけど、ここに江戸城天守閣が再建されてしまうと結構そこのバランスが微妙に違ってくるような感じがしますね。
この寛永天守の資料に基づいて、この寛永天守の復元模型を、いまの皇居、皇居東御苑の本丸に小屋を建てて、そこに展示するというイベントが9月29日から公開されているのである。
本天守復元模型は,外観,構造など,復元のために重要な資料が比較的多く残され, 確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものだそうだ。
これはぜひいかなきゃ!である。
そして皇居も初体験である。
そして皇居も初体験である。
皇居東御苑は大手町にある。
皇居東御苑の大手門
内側がみるとこんな感じ。
大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城した。
江戸城の鯱(しゃちほこ)。
鯱は、明暦の大火の後、江戸城再建時に制作されたもの。
「番所」とは警備詰所のことで、江戸城の番所のうち、百人場所、大番所、同心場所が残っている。
同心場所
登城者の監視に当たった。
登城者の監視に当たった。
百人場所
江戸城本丸への道を厳密に守る警部詰所。
大番所
ここいは位の高い武士が勤務していた。
都心のど真ん中にこんな森の中が存在するなんて、という感じの別世界ですね。
ここから本丸のほうに上り詰める。
そうすると本丸御殿があったところがいまは一面芝生になっているのだが、その周りを歩いていくとあった!
江戸城寛永天守の復元模型は、この小屋の中にある。
この復元模型を展示するためにつくった小屋であろう、おそらく。
もちろん検温、手を消毒のコロナ対策はある。
この復元模型を展示するためにつくった小屋であろう、おそらく。
もちろん検温、手を消毒のコロナ対策はある。
これが今回の大本命!
江戸城寛永天守の1/30スケールの復元模型である。
江戸城天守閣は以前CGでの復元図を拝見していたので、特段驚きはしなかったが、そのときにも抱いた印象であるが、やはり地味ですよね。(笑)
信長の安土城や、秀吉の大坂城のような絢爛豪華な感じ、魅せる城、という感じよりは、堅実な意匠の印象を受けます。
やはりそこは家康の堅実な性格が垣間見れるなのだろう、と思います。
やはり長い時代の平和を築くのは、じつは堅実さが一番いいのかもしれません。
やはり長い時代の平和を築くのは、じつは堅実さが一番いいのかもしれません。
派手、絢爛豪華は、意外や短命に終わるのかもしれません。
江戸城天守閣を再建するにあたって問題視されていることをご存じですか?
それは天守閣を再建すると、そこから現在の天皇陛下のお住まいを見下ろすことになる、という問題。でもそれは再建する会側は、それは天守閣の窓を閉めてしまえばなんの問題もないとしています。
これでミッションコンプリート!
あとは、皇居東御苑の散策モードに切り替え。
まずは江戸城の天守台。
明暦の大火で江戸城が焼失したときに、江戸城再建時にこの天守台は再建された。
(このときは天守閣も再建する気十分だったんですね。)
(このときは天守閣も再建する気十分だったんですね。)
この上に天守閣が乗っかる感じですね。
この天守台から見下ろすと一面は大芝生が一面に広がっているのです。
あまりの美しさに言葉も出ません。
あまりの美しさに言葉も出ません。
この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいたのである。
本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていた。表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場であった。
このように正直、普段は本丸御殿で生活や執務をおこなうことが多いので、正直天守閣は、もはや無用の長物で、あくまで権威の象徴を見せつけるものでしかないので、お江戸の平和な時代には、必要のないものだったんですね。
この大芝生の上に寝転がってみました。
芝生がチクチク体に刺さって痛かった。(笑)
でも気持ちが良かった。最高ですね。
天守復元模型を展示している小屋の裏側に展望台があります。
江戸城を囲む濠。
さらに散策モードへ。
この凛とした佇まいの美しさ、わかります?
究極の和の美しさを感じます。石垣が美しすぎる!
究極の和の美しさを感じます。石垣が美しすぎる!
つぎに二の丸雑木林や二の丸庭園のほうを散策します。
すぐに大手休憩所。
ここの自然の緑の世界は本当に美しくて、まさに和の美の極致、わび、さびの世界、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもある。
こうやって絵を書いていらっしゃる方も多し。
特に二の丸庭園の美しさには心底驚き。
ここはまさに造られた美、植樹など、ここまで意識し尽くされた構図の美しさ、はひたすら驚きでしかないです。
これはひたすら見てください、というしかない。
自分はここに居て、とても都心とは思えない別世界にいる感じであった。
自分はここに居て、とても都心とは思えない別世界にいる感じであった。
最後のこの皇居東御苑内にある建物を紹介。
本丸の天守台の横側にある一連の建物。
宮内庁楽部庁舎
桃華楽堂
桃華楽堂は、香淳皇后の還暦を記念して建てられ、香淳皇后のお印の「桃」にちなんで命名された音楽堂で、昭和41年(1966年)に完成した。屋根はテッセンの花弁を象り、八つある壁面は、各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれている。
ここが宮内庁書陵部庁舎である。
宮内庁御用達の書物関係の図書館のようなものなのでしょう。
もちろん部外者立ち入り禁止です。
以上が、皇居東御苑の全貌。ここを散策するだけでもかなり足が棒になる感じで相当歩きました。でも都内のど真ん中にある自然の美しさで驚き。素晴らしいですね。
敷居、ハードルは高いと思いますが、江戸城天守、再建されると夢がありますね。
この日の体験がトリガーになって、秋のツアーの松本・京都・名古屋に加えて、急遽、姫路を加えることにしました。
日本で最初の世界遺産に指定された白鷺城こと、姫路城を体験しないと。
日本で一番美しい天守閣ですね。
この秋のツアーで、少なくとも松本城、名古屋城、そして姫路城と3つのお城を廻れそうです。
2020-10-09 21:57
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