上野戦争、関東大震災、戦災をくぐりぬけて残ったこの護国院大黒天は、1717年に一度焼失しているとのことです。
もしかしたら、そのころ江戸は何らかの危機があっての「護国」ではないか、と思ってみました。
そういえば、護国寺はどうだったのか・・・・・ こちら
護持院が1717年に焼失して護国寺境内へと移されたとのこと。
1700年前後はもしかしたら危機と思われる状況があったのかもしれません。
森鴎外が「護持院原の敵討」という作品を残しています。
史実としてはその敵討は1830年代の出来事のようです。
1913年に発表されたこの作品にどういう意味があったのでしょうか。
「敵討」について
護持院に着目すれば
1700年ごろのものとしては
忠臣蔵、伊勢桑名藩での野村騒動など。
1830年代に着目すれば
大塩平八郎の乱
1910年ごろとすれば
日清、日露戦争、あるいは大逆事件
そのほかにも多くの殉教者たちとか旧幕府側など複雑な集積といったものなどにも思いを巡らしたということはないでしょうか。
単純な思考での防衛ではいけないというか。
どうしても自分には甘く、恩恵を施してやったのに敵と思われたんでは心外、
みたいな感覚はやめる必要があると思います。
そういった蓄積された複雑なものに思いを向ける必要があるのかもしれません。
夫婦関係の蓄積のように長年の愛憎が積み重なっている・・・・・
まず感謝を伝えるということがコツかもしれませんね。
また、多くの朝鮮半島からの方たちがいなかったら、日本復興はできなかったと思います。
海外で暮らして日本に帰ってきた人たちの多くが日本の食の豊かさをいうんですけれど・・・・・
これは日本には、見えないところにいろいろなところの出身者がいて、影響力を持っていたということかもしれません。
ありがたいと同時にともすればマイナス面もあったでしょうが・・・・・
日本出身の日本人が主張するべきところを怠けた面も否めない?
損得で考えてしまうところがある?
面倒なことは他人任せの国民性があるのかもしれません。
空気を読むことも大事なんでは?
日本は大陸との往来を繰り返してきた。
大陸から様々な時代に渡ってきた優秀な人たちが先祖にいる、
その人たちは和を重視して日本を作り上げてきた
ということを主張するべき。