何はともあれ、お疲れ様でした。

しかし、検証はしないといけない。こういうことを繰り返さないためにも。

相撲ファンが望み、「(ここで気楽に「横綱」へ上げろ!」、「日本人横綱はなんでいないの?」などという方々は大相撲年間から遡って勉強してほしい。

 

厳しい言い方だが「横綱の器」じゃなかったと思う。

僕的には「名大関」、「横綱に手が届きそうだった力士」という称号で終わってほしかった。

 

稀勢の里は真面目な男だと思うから、一人きりの日本人横綱という環境に大いなるプレッシャーとストレスを抱え込んでしまったと思う。

「横綱」には後ろがない。

大関は陥落しても再チャレンジの権利がある。

しかし、「横綱」にはない。

それが「横綱」という最高位なんです。

 

だから慎重に結論を出さないといけない。

 

これで日本相撲協会のいい加減さと、変節する横審の罪は重い。

そして「大相撲」、特に「横綱」に関しては時代の流れに合わせてとか、時代が違うから、などという言葉は通用しない。

20頃の白鵬を見たとき「張り差し」なんてやってなかった。

朝青龍に真っ向から掴んだ横綱だった。「大横綱誕生」を確信した。

頂点に立ったら変わるのか?本当に悲しい限りだ。正直、「みっともない」と思ってる。

 

稀勢の里、これで日本人横綱が居なくなった。

彼は何の責任もないし批判などもっての外だ。稀勢の里は稀勢の里の相撲を貫き通して引退した。

立派だと思う。

 

少子化、相撲をやってる子どもは少ないと思う。

「横綱」は日本人から出ないかもしれない。

稀勢の里にはそれを突破し、部屋から「横綱」を排出してほしい。

 

そして外国人に対する相撲教育が足りないと思う。

一連の相撲教育が足りないと思う。

高見山、曙、武蔵丸などがモンゴル人力士のようなことをしたか?否である。

 

まあ、第50代横綱・佐田の山は「外国人に敗けたらやめる!」と言い放ち、高見山に金星を上げさっさと引退したけどね(笑)