昭和54年(1979年)6月、小学校4年生でした。

 

その日まで、何もわからずマスコミ、メディアこぞって江川を取り囲み、非難の嵐。

「22歳にもなって自分の将来も決めれないのか!」←今の子決めれるかいな・・・。

「国会議員まで出して巨人に入りたいのか!」←22歳の若者が国会議員まで引っ張ってこれるはずはない。

「巨人に入りたい!他球団なら嫌だというのは我儘だと思わないのか!」←しゃーないやん、入りたいんやから。

といった具合に煽るメディア、江川卓は完全にヒール。

僕も長いものには巻かれろ的に「江川は好かん」的な発言をしたりしてました。ジャイアンツファンですが。

 

マウンドを均し、振り返って投げたストレート

僕は口を開けたままでした。

一球でファンになりました。

そして、彼のことを調べ始めました。

野球雑誌、スポーツ雑誌、そして一番詳しく載っていたのは「輝け!甲子園の星」という毎回買っている雑誌でした。

最後の雑誌は「Number」でした。

彼が買って僕にくれました。彼とは、高校卒業後、二人で飲んだ時は、政治~大相撲~取っておいたように江川の話で、何度、居酒屋へ行ってリピートです。

例えようのないストレートの速さ、美しさ、史上一番のストレートを投げれた投手でした。

 

ちなみに彼に実家の玄関にはまだ薄く「たくやははいるな(拓也は入るな」という文字が残っていました(笑)

はい、よく喧嘩しました。全部勝ちました。彼が彼の祖母を連れてきて「こん、たくわんづけが!!」と叩かれました。

たくわんづけ??何??

「あー、俺がたくやだからたくわんづけか」とあとで気づきました。

そういえば彼の左眉の上に小さな染みがあり、僕が「醤油(しょうゆ)」と呼んだことが端を発したんだった。

今思えば、鹿の下東地区は壮絶だったな。

上の人に僕がしゃくれてるからゴリラと呼ばれたり、僕より8つ上の浩成(ヒロの字は間違ってると思う)くんは、みんなにクソ姉ちゃんと呼ばれてたし(男だけど)、さすがに僕は呼べませんでした。隣の神恵丸の利坊はミスと呼ばれてたし、勝本浦でペーロンの漕を折った3人のうちの一人なのに。野球が上手かった安弘くんは、ベタ安。

また、大幅に逸れたので戻します。もし、小学校まで話が及ぶと卒業アルバムの名前と一致しみつけることは、他の小学校の人は無理だと思うので。

 

彼が速かったのは高校二年の夏の予選までだと思います。

調べればわかります。頭部へのデッドボールを受けて以来、「投げるのが恐ろしくなった」と。

これは彼なりの解釈で、自分の投げたボールが当たったら・・・。

自惚れてるように感じますが、実際彼はプロに入っていわゆる内角攻めをしていません。

内角をえぐり、バッターが腰を引き、次にアウトローのスライダーで決めるという奴ですね。代表的な選手としては東尾などは強烈でしたね。

 

高校時代公式戦記録

完全試合2回

ノーヒットノーラン8回

一安打完封は数知れず。

まさに怪物です。

 

江川の初めての甲子園は3年生、1回戦の相手は優勝候補筆頭・名門北陽高校(大阪)

北陽は舐めていた。「栃木の田舎モンのピッチャーがなんぼのもんや」、「栃木での数字やんか」と。

 

江川は特に緊張もしてなかったらしい。

飄々と投げた第一球、甲子園のスタンドが静まり返った。北陽の選手は頭を捻りながら、次打者に声をかけることなく、あっという間の三者三振、何人目だっただろう。北陽のバッターがバットに当てた。「おぉー!!!!」とスタンドから声がでた。

打ったんじゃないですよ。当たっただけですよ(笑)

終わってみれば何のことはない。4安打奪三振19完封勝ち。

ちなみにこの大会(春の選抜)での奪三振60という数字は未だに破られていない。

そして準決勝までしか投げておらず、2回戦の小倉南戦は7回まででマウンドを降りている。

 

時は46年を経ている(笑)

 

夏の大会、数多くの球団は江川を倒すために練習していると言っても過言じゃないだろう。ビデオを見ると笑えますよ。

ほぼ、バント練習に見えますから。

江川の高校時代の投球を見たいと思い探しに探しまくり借りてセットして方を落としました。

当時はバックネット裏からのカメラなので、現在のセンターからの撮影と違う。

速いというのはわかるが、比較の使用がない。

 

その前に書いていかないといけない。

先に書いた「高校時代が一番速かった」というのは練習試合、親善試合、すべて受ける。地元の名士の声もこの頃は絶対だったらしい。

数字は忘れたが、早稲田実業・ハンカチ王子の比じゃない。

作新学院を呼んでおいてダブルヘッダーを組む。対戦相手は違う。

江川は投げ続けたが、肩は明らかに消耗している。

そして法政時代・・・。

「水を飲むな!」の時代・・・。

 

さすがと目を瞠る練習試合は広島県野球、当時は広島商業・達川光雄がいた。

彼らは打つことを諦めていたというか否定していた。とりあえず、ランナー1、2塁、もしくは2、3塁という状況をデッドボール、フォアボール、バントヒット、内安打を含めて作る。

ここからが広商野球、広島カープが先か?広商が先か?と言わんばかりの広商野球、前のランナーがスタートを切る、同時に後ろのランナーもスタートを切る!前のランナーは少し緩めに、タッチアウトの瞬間に後ろのランナーはホーム前まで来ている。猛ダッシュ!!

アウトになったものの、広商魂の真髄である。

後の達川曰く「誰にも比べられん、当たらんもん、速かった」と。

 

3年の最後の甲子園

雨の中、対戦相手は言わずと知れた銚子商業、雨の延長12回1点を許してしまい、満塁。江川はみんなをマウンドに集めた「ストレート投げていい?」、「ここ(甲子園)にいるのはお前のおかげだよ。好きなボール投げろよ、ストレートだろ?」と笑って散っていったらしい。

言ったとおりストレートを投げ、雨で滑り、大きく逸れ、フォアボール、ゲームセット。

 

超高校級の豪腕投手として驚異的な活躍を果たし、怪物のニックネームを欲しいままにした。甲子園の通算成績は6試合に登板し、4勝2敗、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で、奪三振率14.0は、歴代でも断トツの記録である。

 

自責点3、笑える(笑)

 

松坂が春夏連覇を遂げ「松坂世代」という言葉が生まれた頃

ジャーナリストの横浜高校・渡辺監督へのインタビュー

ジャーナリスト「松坂投手とかつての怪物・江川と打倒・江川で挑んだ監督は、どちらが速かったですか?」

横浜・渡辺監督「比べ物にならない」

ジャーナリスト「え?」

横浜・渡辺監督「比べ物にならない。江川だよ。あんなもの高校生が打てる球じゃない。フィールディングなど総合的に比べれば五分五分かもしれない。球の速さだけを比較したら子どもと大人だよ。あんな球投げる高校生は、もう出てこないと思うよ。」

 

法政大学へ

江川はプロに行く前に学業として大学へは行くように言われていたらしい。

結構、知られてないが彼は慶應義塾大学を受験している。

なぜか?

当時、慶応にはスポーツ特別枠がなく、一般入試しかなかったからだ。本人、一般入試で合格する自信はあったらしい。結果は不合格、一説には慶応は敢えて落としたと思う。

他の学生への配慮を考えれば、落とすほうが賢明だと思う。

 

大学時代は法政黄金時代を築く

奪三振数の記録を作る。この記録を抜いたのはソフトバンクに帰り咲いた和田毅である。

この記事を読んだ時、驚いたのを覚えている。

そして、欲がないというか、江川らしいというか、通算47勝は山中正竹氏の48勝についで2位である。

江川の登板の順番なのに「うちは(法政大学)いっぱいいるから」と譲っている(笑)

 

いざプロ野球界へ

ある著名人のコメディ辞典の欄に

江川卓→元阪神の野球選手と一行だけなのには大笑いしてしまった。

 

プロ野球へ、巨人へ入るにあたって空白の一日

ドラフトで権利を獲得した日から、翌年のドラフトの前々日まで優先契約権がある。なぜこういうことになっているからは知らない。

中一日空くのである。

その空いた一日を使って巨人が電撃契約、法的な解釈はあと(問題はないと思う。NPBが甘い気もする。天下りは真剣に仕事をするはずがない)にするにして、認めないNPB、巨人は翌日のドラフトをボイコット。22歳の江川は叩かれた。冒頭述べたように、江川という商品価値の高い商品に対して周りが、あれこれ手を考え江川が欲しかった結果である。

大人になって振り返り22歳の江川に何ができただろう。家の電話はなりっぱなし。体調を崩し、江川自身も彼女(現・奥様)がいなかったら、耐えられなかって思う。

結局、コミッショナー裁定で江川が一旦阪神に入り、巨人・小林繁とトレードで一応、野球界は落ち着きを取り戻した。

後々の話だが、小林繁に空港でバッタリ会い、江川夫婦は土下座している。

小林は「もういいんだよ」と笑って去っていった。江川夫妻はしばらく立てずに泣いていたという。

 

通算135勝72敗3S 

でもこれ、たった9年です。一年あたり15勝8敗です。貯金7、立派な計算できる投手です(笑)

彼が速い球を投げれたのは昭和57年9月くらいまでだったと思います。

昭和56年、最多勝20、最優秀防御率、奪三振、勝率、全てのタイトルを総なめにした。

しかし、沢村賞は同僚の西本聖の元へ

要因は、「世間を騒がせたから」野球に関係ないしww

勝手に騒いだのは大人でこの年でも江川はまだ26歳である(笑)

昭和57年は勝ち星は巨人が上回りながら、中日が優勝した年だ。

江川は19勝して残り登板予定は4試合、当然ながら藤田監督はローテーションの軸の江川をあてる。

僕自身、「一つは勝やろう」と思っていた。

しかし、4連敗、優勝を逃す。そのうち1試合は9回表まで4点差で勝っていながら。

彼の肩は終わっていた。

それ以降、「もう一度だけでいいから、もう一球だけでいいから、あのストレートを見せてくれ」と思い、テレビ観戦をしていたが、見ることはなかった。

 

昭和59年オールスターの8連続奪三振、よく江夏の9連続奪三振と比較されるが、江夏はキャッチャーフライを「追うな!」と田淵を制している。だから田淵が獲っていれば9連続はない。

江川はその日は、僕の好きなストレートほどではなかったが速かった。

江川らしい、というか笑えるのは、YouTubeなどで確認すると、クルーズ(日本ハム)あたりから、肩の回転が違うのが笑える。

かつて彼は「5の力の選手に10のを使って抑えるのはおかしい。6でいいはず」、これ以来「手抜き」と言われ始める。

落合博満がカスリもせず「なんであんなに速いのに、ペナントで打たれてんだ?」

 

結局、僕は「江川の美しく速いストレート」をそれ以降見ることはなかった。

いつか、みれる。と思い画面に食い入っていたが見ることはできなかった。

この「美しい」というのは結構、難しい表現で、逆回転数が強烈なスピンを起こさないと軌道がホップするように見えない(物理的にはホップはしない)

近いストレートを投げれたのは、津田恒実(広島・故人)、西崎(日本ハム)、伊藤智仁(ヤクルト)、藤川球児(阪神)くらいじゃないだろうか。

 

中日に監督・星野が誕生し、1対4という凄いトレードで1億円を球界が突破した。

落合へのテレビのアナウンサーが「セ・リーグのどの投手と対戦したいですか?」

落合「江川」

テレビアナウンサー「江川投手ですか。北別府投手などいますが」

落合「なに言ってんだよ。日本一のピッチャーは江川だろ?だから江川だよ」

これは痛快だった。北別府は前年、20勝を始め、タイトルを総なめにしていた。落合はわかっていたのである。

 

落合がペナントのバッターボックスに立った時、「怖い。打たれる」というのを強烈に感じた。

正直、本物のスラッガーがセ・リーグに来た、と。

王さんが引退し、山本浩二、衣笠祥雄は晩年を迎え、掛布雅之はちょっと波があり、我が若大将はポップフライが多く(汗)

セ・リーグはスラッガー不足だったのである。以来、中日戦はハラハラだった。

強烈だったのは、西本聖というシュートをえぐりこむ投手がジャイアンツにいた。彼が、素晴らしいシュートを投げ、インコース低め、内野ゴロしかないという球を落合は、左足を思いっきり開き、ボールの真正面になりバットをセンターへ押し出した。僕は寒気がした。センターバックスクリーンへホームラン。西本は困った苦笑いをしていた。

 

これを大人になってやってみた。レフトには届く。しかし、ライト、センターへはどう工夫しても届かず沈んでいくで有る。

あっ、遊びですよ。草野球やってたから福岡市内の方はわかると思いますが、東区箱崎の汐井公園球場です(笑)

 

昭和57年、突然の引退発表

 

僕は引退会見を見ながら泣きました。

あとにもさきにも、プロ野球選手の引退などで涙を流したことはないですね。

 

いろんな意味で、僕よりあらゆる場面で泣いた数が多いのは若大将じゃないだろうか?ww

 

スラーブ

コシヒカリ

ラビットボール

マスクメロン

江川が新球として名前をつけた球です。

投げたのを見ると全てカーブです(笑)

実は彼は指が短くフォークボールを投げれなかったという事実があります。

います?今?ストレートとカーブ2種類で勝つ投手、時代は違いますけどね。

金田が投げてた時代よりは比較対象はできるとおもいますよ。

 

敗戦投手になりスポーツ紙の一面を飾る投手を僕は知りません。

100球で降板すると「100球肩」と叩かれる→今の先発投手の交代基準投球数は?w

中4、5日は負担が大きすぎる→今、ピッチャーの登板感覚って一週間では?w

新聞を読めば、「株式を見てる」とか。

スポーツ新聞を読めば「競馬予想してる」などなど。

 

新聞記者はみんな江川が好きになってたんだと思います(笑)

何かやってくれないか?と期待を込めて。

 

落合博満13打数4安打、打点1、0本塁打

ランディ・バース83打数19安打、打点6、3本塁打

ホーナー14打数1安打、打点1、1本塁打

 

ただ、ヤクルトスワローズの渡辺に打たれてた記憶があります。

若松でもなく、大杉でもなく、杉浦でもなく、8番打者渡辺に(笑)

ちなみにオールスターで清原和博も江川からは打ってないです。

 

これ凄いでしょ?

江川が真剣に投げた打者です。そう彼は本気を出すと凄いんですw

これをマスコミは「手抜き」と言いました。

引退後、彼はいいました。先にも書きましたが「5の力のバッターの10の力を使うのはもったいないでしょ?だから6か7の力で投げます。そりゃ、僕だって投げミスはあります。4,5になってしまい、打たれると手抜きと言われる。野球というゲームは一番から九番まで10のチームなんてないでしょ?だから体が持つんです。」彼は遠まわしに高校野球に対する提言をしています。

遠征試合、練習試合、高野連、学校は考えるべきだと。

 

 

日テレの「うるぐす」で青年監督・原辰徳が出演した時、最後のツーショットで江川が「僕と彼の人生の違いはクジです」と言った時は腹を抱えました。

僕と友達の二人の江川に対する評価は一生変わらないと思います。

球速でいえば江川は高校時代160km出てたと思います。でも400勝投手・金田正一も出てたと思います。

ただ、江川は弱小球団にいても280敗は金田のようにしなかったと思います(笑)

 

大谷翔平との比較は?と聞かれそうですが、愚問だと思います。

江川は日本のプロ野球投手、大谷翔平は生まれついてのメジャーリーガーです。

そして野球とベースボールは違うと捉えています。

 

大谷は今後160km後半のボールを投げるでしょう。

 

しかし、江川の150kmの方が美しいとは信じています(笑)

もう、江川のような投手は現れないと思います。

こういう表現をされたアスリートはたくさんいますが、現れました(笑)

でも、江川は違います。

 

江川が引退してもなんとなくですが、テレビ観戦はしてました。

ほぼ見なくなったのは、松井がメジャー表明してからですね(笑)

 

僕は彼に対して「三冠王取ってからいけよ」という思いを抱いてました。

日本最終年、彼は50本塁打を打ちました。

投手が怖がると四球が増えます。すると打率が落ちなくなります。するとストライクを投げざるを得ず、ホームランが増えます。

そして三冠王が近づいてきます。

 

まあ、人の人生ですからね(笑)

 

ただ、僕はいつまでも言い続けると思います。

ナンバー・ワン投手は江川卓だと(笑)

 

 

もし、最後まで読んでいただいた方がいらっしゃれば、本当に感謝です。

何分、文章が長いもので(笑)