前記事で紹介した「老猫専科」。作者の南里さんはワークショップなども日本各地で開催されており、参加できないのが残念です。

ミヌーは落ち着いて毎日を過ごしていますが、私は毎日不安でいっぱい。ミヌーの一挙手一投足を、常に視界の端で見守っては一喜一憂。多分ミヌーも「重いな〜」と感じているはず。どうしても私の場合、南里さんがおっしゃるところの「愛」が「圧」になってしまうようです。。

そんな時は、南里さんのブログを読んで軌道修正。

以下抜粋です。


「そばにいる人が物事を肯定的に受け止め、余計な心配や不安を持たないこと。これは当の猫さんが十全に生きるための必須条件だと私は思います。


生きて今、いっしょにいられることへ感謝の気持ちを持ちましょう。
ありがとう、いっしょに生きてくれてありがとう。

彼らは死を怖れません。
死を憂い、怖れるのは人間だけです。
つい、自分たちの思い込みや恐怖を猫たちに当てはめてしまいがち。
かつて私もそうでした。
猫たちは家族の思いに応えようとします。
結果、頑張ってしまうのです。

何とかして、元の元気な頃のあの子に戻って欲しい...という気持ちは期待となり、その通りにならなかった時、失望に変わっていきます。
その時、ガッカリされてしまう側の猫たちの気持ち.....


老いの坂道を下り始めた愛猫は、どんなかたちで残りの生を過ごしたいだろう?
その坂道を、ゆっくりと一緒に景色を楽しみながら伴走できれば...

私たちは愛猫に変化を感じたとき、
「前はこうだった」
「こないだまで出来ていた」
と考え、どうにかしてそこに戻そうとしてしまいがちですが、
変化を感じたらしなやかに受け止めること。
過去にこだわらないこと。
今、実際に目の前にいる愛猫に目を向け
愛猫が必要としていることを感じ取ること。
人も猫も、
「生かされる」のではなく
「死ぬまで生きる」

大好きなママのあったかい手、ゆったりした心が何よりの薬。手の温かさ、落ち着いた深い呼吸、関心の向け方、やってあげなくちゃという義務感ではなく、その一瞬共に過ごせている時間のいとおしさ、感謝、など..
もっともっと大切なことがたくさんあります。

毎日見ている愛猫の「老い」にハッと気付いたとき、うろたえず、悲しまず、やがて必ずくる別れに怯えず...

猫自身の意思を感じとり、受けとめる心構えができれば、旅立ちまでの日々が穏やかで豊かなものになる。

doingよりbeing」


読むたび胸が熱くなって、自分の未熟さに嫌気がさします。でも少なくとも、今南里さんの著書に出会えてよかった!


今は毎日が、まるで修行のようです。南里さんが、猫たちを師匠と呼ぶ訳が、すこしわかった気がします。



今日オフィスで、クライアントから貰った蘭を、大きめの鉢に植え替えたいという同僚を手伝っていたら、どこかにぶつかって一部が折れてしまいました。申し訳なく、もったいないので、コップに水を入れて差し、オフィスのキッチンのテーブルに飾りました。その凛とした美しさ…。


その一輪を眺めていて、南里さんの「死ぬまで生きる」と言うことばが胸に浮かびました。自然の「いさぎよさ」を前にしたら、人間(私)がますますちっぽけで頼りない存在に感じます。


あ〜難しい…!