以前、最初🌻カムに「アマの手と足ってなんで考えたの?」って聞いてみたことがある。


結構、びっくりしたんだけど、

手は「声を拡張する為(聴覚と関係)」

足は「双子とつながってる事を感じる為(触覚と関係)」

と言ってた。


普通、物を手でつかみ、人と手をつないだり、足は立つためや目的地まで歩くためにあると考えられてる。

手に関しては、上手に対象物を扱うため「人や物を扱うことに器用になる(道具を扱うことで賢くなる)」とか、彼氏や彼女と「手をつなぐ(存在を確かめ合う)」と言ったりするけど、それらは、余剰した手の使い方(横)だったから、

手に入れたい、手の平に乗せるように人や物を操りたい、手で殺しあう、余剰として色んな考え方が出てきたし、誰とでも触れ合っているというような感覚は、手が一枚の皮膚で地続きのようになってしまって、自己と非自己を区別できなくさせる余剰となったというのがあると思う。


まだ、カムがアマの体を考えていた時は、地球は現象してなかったから、もちろん道具を扱うことはなかったし、アマがアマ自身の声がカムによく聞こえるように、手を口に当てて補佐するためだったという事。


鳥とかは、空間(カムの体の中)の中で押し上げながら飛んでるから、カムには声が届きやすい。鳥自体は、アマ側だけど、盤上意識を鏡に映して表された部分もあるので、全部の鳥ではないけど、アマの手が現象する必要はなくて、どこでも根っこを感じてるエアープランツのような状態だから、羽が重視されてる。


じゃあ、足の方はというと、

こちらもよく言われているように、重力に耐える事や反発する事で人は立てるようになったんではなくて(それは建築物)、「立つ」というのは、足が重力を大切にしながら引っ張ってる状態であって、本来は、足で双子と足をつないでて、根っこ側のカムが落ちるのを足でつかみながら、外アマが引っ張りあげる事が、歩いているように見える。


人間が地球を境目ではなく、面として感じ出した事から、地面を蹴って、より高く、より早く、競争する為に足は余剰の別の役割をしだしたという事。


だから、

重力(落ちる針:双子母カム)と、重力子(面での圧力:元父)が同じだと思ってしまい、面を蹴る事(英語だとgravityなどの語源)は、根っこを感じられなくなり茎側が生命をやめていく事

※心が重いから悲しいのではなくて、重い悲しみを押し上げるアマの心自体は最初から重いという事。


とも言えるし、


手を回転させる為に使う事(英語だとworkなど語源)は、アマ側が双子を対象として操ってしまう事とも言えると思う。



手は声を届ける事、聴覚。

足はつかんで離さない事、触覚。



今日、手や足の事を考えてたら、そんな事を思い出した。