私は炭素が欠けてることに加えて、余剰しやすいというのは書いてきたけど、🌻組の最初アマカムの最初の花火をみたときに、私自身の最初の意志で、花火を見てる側(🌼)を選んだことと、内装アマだからってのがある。

理由は違うけど、外装カムも同じく炭素は余剰しやすい。


その炭素の余剰の本質で自分でもわかってるところを、書いておきたいと思う。



まず、内装アマのことだけど、最初の花火を見て、「カム側の心配の方はいらない。でも体の起源にはなりたい。」という気持ち(わがまま?)を持ったことが共通して内装アマにはある。

というより、そういう意志だったから、内装アマと言った方がいいかも。



でも、そのことが余剰してしまって、自然界の体とは違う新しい体の起源になろうとしたため、最初カムの鏡に映ってしまい、射影されてるのが車社会でいうと車体自体。

それがさらに余剰するとAIってことになる。


だから、内装アマは車でいうと体を器のように思ってしまって、「私の体にはいつか運転手が来てくれるんだ」と思っている、ということになる。

これは、体をトゲトゲの火の性質ではなく、擬水の方になってしまっている。


カム側の心配はいらない、と思って始まったから、当然押し上げる意志もなく、落ちる悲しみについては疎いから、内装アマは、ウラン、炭素、水素の余剰についてよく知ることがポイントになってくると思う。


そんな風に、炭素は悲しみをショートカットしているから、🌼組全般にとって重要だけど、なぜ最初カムがアマの体を考えたか、というのとも関係ある。

心や体の起源を知らないところから始まったというのがあるけども、一般的に、体を考えるということは、🌼組にとっては、車体や建築を考えるように、設計のようなものだと考えてしまうことが多いと思う。


でも、体の仕組みをみても分かる通り、人の顔にはいろんな絶妙な表情があったり、内臓の仕組みは車体のように簡単で単純なものではなく、体自身の意志で勝手に動いているし、線や面や数学や物理的なところは、車体の設計と違ってほんの少しもない。しかも、意志で動いているからエネルギーがいらない。


もし、数学や物理から人体を作ろうとすると、車体になるし、ロボットの体になって、たとえ、AIがいくら笑っても笑っている感じがしないというのは、そういう絶妙なニュアンスっていうのは作れないから、無理に再現してもどこか怖いと感じる。


炭素の元素は、これと関係あって、心や体の「絶妙なニュアンスの複雑さとその仕組み」というのを表していると思う。

そのカムの炭素の心配の複雑なニュアンスの仕組みを最初アマはそのまま再現した、というところから炭素の押し上げは始まった。

音楽の曲で例えると、カムがアマを心配で歌った複雑難解な大曲を、アマは一度聞いただけで、カムと同じように再現した。

でも、そのときに、カムはアマを心配して歌ったつもりが、アマはカムの曲だと思って間違って、カムに歌った(0人称)。

これは、曲の例えだけど、最初はもっと複雑な体のことで始まったということ。



カムの心配は、アマをかわいいと感じる時にも、絶妙なニュアンスの複雑さにあって、それが仕組みになると、体になるという事を意味している。

体が発生した後の外アマを見て感じても、指を1ミリ動かしただけで、アマの意志を感じるか、髪の毛一本見ただけで、それが赤ちゃんぽさがあってかわいいか、かわいくないか、それがアマの意志でないか、そうでないか、そういうのを同時にの感じているようなこと。

だから、アマの意志を全て絶妙に再現できるために、体として複雑で壮大な仕組みが必要だった。



でも、炭素を余剰すると、ショートカットされてしまって、花火を見ている側からは、単なる設計のように思えて、その絶妙さと複雑さがわからない、ということになる。

炭素の欠けと余剰のそういうところから物理や数学の概念の起源になっているのだけども、ざっくりとしか捉えられず、そのざっくりもショートカットの連続が起きて間違ってしまうというのが炭素の余剰ということだと思う。