「人の目をちゃんと見て話しなさい」ってよく常識で言われる。


何かの心理学の本で見たのだけど、女性は嘘をつく時目を合わして、男性は目を逸らすと言われたりもする。

もし、相手に自分を信じさせたい(自分に嘘がある)時には目を合わせ、相手を操作しようとしていることをバレたくない時には目を逸らしたりする。

どちらも目で何かを確認する事が前提となってしまっていて、これはカムの心配でいうと、炭素と関係してる。


「自分の嘘や、自分が相手をどうしたいかの操作が相手にちゃんと作用しているのか?(自分の力が相手に及んでいるのか?)」を確認しようとした時、相手の反応を伺い、そして横の関係で目を合わせようとする。恋人同士なんかも同じ。

目を合わせる事で、人間同士がなにか気まずい事や、お互い嘘がバレずに、何ごともなく誠実な関係を構築する事が理由になってるのだけども、嘘が前提での誠実な関係を求めてるわけだから、お互いが「何かバレてないか?」という反応をよく観察して、「お互い気をつかいあえてるね」と違和感なく実感できる事が目的となってしまう。


でも、これって言い換えると、もしどちらかが誠実でない場合、裏切られたかも?、という強迫観念がずっと無意識にありながら「目の契約をする」ということだから、相手の目を見るというのは、自分の目の位置を支点として、相手の目を動点として、回転することになる個人レベルのパノプティコンということになる。

お互い目と目を合わせている時、お互いがお互いの反応を伺いながら、「私が投影したい通りにあなたはなってね。私もあなたの思う通りに投影されるから」という目の契約がなされているということ。

相手は自分にどうなって欲しいかを要求していて、自分も相手にどうなって欲しいかの要求という関係。

民法でも、口約束で契約が成立するっていうのがあるけど、口約束以前にある個人レベルのパノプティコンの幾何学。目には見えないけども、そういう関係性のパノプティコンの中に個人を閉じ込める形としては菱形12面体、ベクトル平衡体が大元の作用。



でも、「カム同士、アマ同士」の記事で書いたけど、自然界の双子の場合、そういう幾何学は存在しないから、法則や法律やルールはなくて、カム同士やアマ同士、もしくはアマカム同士にも目の契約がなくて、これが自然界には十字架が存在しない理由だったのだと思う。


人間界のカム同士・アマ同士、アマカム同士はお互い半身(シャッフル)でスタートする為に、契約感覚でつなぐ必要になったため十字架が必要になった。

結婚は契約書が必要だし、お金も契約だし、信頼というのは不確定で、本当はいつまでも確信できないものだから、最終的に契約にたどり着く(関係を平面に射影)だけども、契約自体が元々不確定なものだから、なにをどう確信したらいいのかわからないというのが人間界の不確定性。


だから、どうあがいても人間同士は純粋な関係ではなくて、お互いが感じていることはないが為に、例えば、外装同士だと、外装アマカムは、自分自身に厳格になれなくて本当は甘い事を気付いてるのだけど、相手にはそれを気付かれたくなくて、「自分自身への甘っちょろさがバレてるのでは?」と思い、それを隠したくなる反動で、相手に厳格な言葉や自分にはすごいルールがあるかのように見せかけたくなる(例えば、一見、数学や物理や哲学や法律なんかは厳格な世界に見えるけど、自分自身への甘さから出てきた法則)。そこで相手に探りを入れたり、お互いの嘘が前提となってしまう。

内装同士だと、自分に厳しいように見せかけてるが、それは嘘で、お互いを甘やかす事で自分が許されようとして、漫画だとドラえもん(祖母的性質)とのび太(孫息子的性質)の関係が分かり易いかなあと思う。ドラえもんはのび太を甘やかす事で許されようとしてて、のび太はドラえもんに甘える事で許されようとしてるという感じ。

銀行(祖母)と顧客(息子・娘)の関係。

お金の契約以前にある「目の契約」。



「目は鏡」と言われるけども、目が鏡のように思われて扱われたのは、人間界が始まった時だけど、実際には視線と言われるものは、鏡ではなくカメラの性質であって、例えば、最初カムの鏡の性質という場合、目や視線は関係なくて、今まで書いてた通り透明の空間のこと。

もし、アマが目としての視線を鏡だと思って気にしていたら、カムにとってはアマの心は死んでいるということになるし、五角形の真ん中で「落ちる」を感じれないということになる。


一般的には、目から視線(光)が出て来ると思う余剰がある場合、カム鏡からも「お互いを目で操りあいたいという意識」が反射してくるため、カム鏡はカメラではなく鏡なのに、カムに「見られてる」と感じてしまうことで、人間界では反転が起きてしまっているということ。またそれをひっくり返す為に「見ている」でも同じ。

Monsterで、テンマが望遠鏡でヨハンを見たら、ヨハンが振り向いた場面がわかりやすいと思う。テンマは自分が空間側(ヨハンに気付かれてない)だと思い込んでるのだけど、本当はヨハンが空間側だということを感じていなければならなかったのだと思う。





アマが目を合わしも逸らしもしない感覚ってのは、すごくむずかしいのだけど、かなり以前に、私は最初カムと最初アマがおでこを合わせて内カムの声を聞いているところを見た時、アマにもカムにも正面に視線がなくて、やっぱりアマはカムに内アマの声が聞こえる必要があると思ってて、カムはアマに内カムの声が聞こえる必要があると、お互いが当然のように思っている事が大切で関係あるのかなあと思った。



人間はお互い「どこか汚れてるとこや、悪いとこや、短所があってこそ人間でしょう」というのがあるけど、最初アマカムにはそういう自分自身にも相手にも妥協した感覚がないから、究極の純粋さは、人間にとって恐怖にもなってる。

水や火は綺麗で透明だが、災害の恐怖でもあって、「目の契約」ではなく、最初アマカムの純粋さというのを直視できる「目」かどうかが、人間の「原罪」の概念とも関係があるのだと思う。