というわけで、鈴木俊隆禅師の逸話より、、(若干のハリーアレンジ込み、、笑)
ある修行者が、禅師を前に意気揚々と話をし出しました、、
老師!!お聞き下さい!!私は昨日の坐禅行の際、、
驚くべき広がりの中に、自分が溶解してしまったような体験をしました!!
これが悟りということなのでしょうか?私はもう悟ったということなのでしょうか??
ふむ、、( ̄ー ̄)
たしかにそれを悟りと呼ぶことはできるかもしれない、、
・・・・・
が、そうしたものは忘れてしまうに限る、、( ̄ー ̄)b
・・・・・
それはそうと最近調子はどうだい?( ̄O ̄)ノ
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さて、これは、禅の 「悟り」 に対する立場をまさに表しているかのようなやり取りですが、、
目覚めや覚醒、悟りなどという言葉が指し示しているのは、、
意識に刻まれた二元的、観念的な条件づけが取り払われた際に訪れる、、
初めから在る在り様のことであるわけですから、、
それを達成や、高次の意識状態への上昇などとしてしまうと、誤解が起きるもとともなるのである程度注意が必要であると言えるでしょう、、
次元?が上か、下かを 「語る」 のは思考の働きによる二元感覚であるわけですから、、
思考感覚が静まったところにある、悟りの在り様、、すでにここにある真正さということおいては、、
実際のところ上も下もなく、、確かにそれを、「目覚め」 であるとは言えたとしても、、決してそれが、「達成」 ではないという認識が大切です、、
というのも、それを 「達成」 としてしまうと、、その時点で、今こことは違った意識状態への移行、
「悟り」 はここではない 「どこか」 にあるはずだという観念をさらに強固にしてしまう可能性が大なり小なりあると言えるからです、、
というわけで、往々にして、、
禅の教師であるところの、老師という立場の者たちの多くが、、
弟子が、、ある種の、神秘体験、至高状態などを経験した際、、
それをことさらに賞賛することもなければ、修行者がそれによって、「高い」 意識の状態へ移行したなどということも一切匂わせることはせず、、
ただ、淡々とそれを聞き、、聞き終わっては、、冒頭の禅師のように、、
「今ここ」 のリアリティに修行者を連れ戻すと言って良いでしょう、、
さて、調子はいかがかな?( ̄ー ̄)
あるいは、先日の喫茶去の逸話でも紹介したように、、
では、お茶でも召し上がると良い、、( ̄ー ̄)ノ
などと言うように、、
即ち、、このような禅師たちの対応が、「悟りの経験」 を固定化し、ことさらにそれに 「執着」 しようとする弟子たちの傾向をいなし、、記憶の中のイメージや、イマジネーションの中に安住しようとする自我性の反応を打ちのめし、、
目前 (今ここ) で確かに起きているリアリティ (出会い) に舞い戻らせる効果があると言って良いでしょう、、
「出会う」 ということが常に悟りの入り口であり、悟りを生きるキーでもあるということを禅の体系は代々伝え続けていると言えるのです、、
禅は、悟前も出会い、、悟後も出会います、、いつでも、今ここに完結し、今ここから始めます、、
なぜなら、、悟りは、、ここになければどこにもないからです、、
実際、、禅には、、「悟り臭さ」 という言葉があり、、
悟り臭さ (悟りの経験にしがみつく様相) を捨て去ってこそ、真の悟りの体現、、真空 (しんくう) があるとしているのです、、
って、仏教の一派に関わらず、、釈迦の悟りを捨てちゃうってところが個人的にはパない!と感じるところでもあります、、
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!