さて、求道の最終地点というのは、、いつも決まって、今ここです、、
そしてこれは、初めからそこを離れたことはなかったという発見でもあります、、
ですからこれは、厳しい修行を何年も重ねた後に辿り着ける高い意識の状態のことでもなく、、
インドの聖地へはるばる訪れてようやく知ることができる特別な真実のことでもありません、、
何十年の修行の後、、あるいは、聖地で見つかるものとまったく同じものが、、
今この瞬間に、私たちの目の前、、あるいは、私たちそのものとしてここにあるのです、、
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このことをしかと見た、かつての禅の師たちは、、
真実の探し場所を、「この場所だけ」 に限定したと言えるでしょう、、
秘密の在りかは実は隠されていない、、
思い込みによって一時的に見えなくなっているだけだ、、
ならば探しなさい、この場所だけを、この場所だけに在り続けなさい、、( ̄ー ̄)
とでも言うように、、
もちろん、その探し方には、禅師ごとの工夫によって様々なアプローチが見出されてきたと言いつつも、、
禅は、決して、、大前提、、「今ここ」 から外れることはないのです、、
というわけで、、私たちにとってありがたいのは、、この禅の真髄は、、
禅寺においてのみ、その修行体系においてのみ限定的に伝えられ、伝灯され得るものではなく、、
「今ここ」 が真実であって、誰の目の前にも 「今ここ」 がある以上、、
それはいつどこに居ても、誰の日常においても確かにその門戸が開かれているということなのです、、
禅では、呼吸、姿勢、トイレの清掃の仕方、禅堂への出入りの作法、
ごはん茶碗の持ち方に多大な注意が払われます。
悟りを求めて張り切っている新参者の目には、
そうした平凡な物事の細部にそこまでこだわる態度は、
完全に本質から外れていて、ばかばかしいほど表面的でつまらないことのように映ります。
けれども、それは実際には、修行する人たちにこの瞬間を指し示しながら、
抽象概念やイデオロギーに夢中になって現実について考えてしまう癖を
崩していくためのひとつの方法です。
そうすることで、悟りはここになければどこにもないということ-------
悟りは理論上のものでも哲学的なものでも形而上学的なものでも神秘的なものでもないこと-----、
まったく単純であること、まさにここ、
この呼吸の中、このコーヒー中、この便器の中にあるということを伝えているのです。
ですから、どこか別の場所を探すようなことをして見落とさないようにしてください。
(ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!